片桐且元 単語


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カタギリカツモト

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「片桐且元」(かたぎり・かつもと 1556~1615)は、戦国時代~江戸時代初期の武将。助作、初名は直盛。
豊臣秀吉に仕えて活躍したが、豊臣氏が滅亡した大坂夏の陣では徳川幕府軍に参加した。

概要

近江の国人・片桐直貞の長男。弟に片桐貞隆がいる。
はじめ浅井家に仕え、浅井家の滅亡後は羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕えた。
秀吉の家臣となってからは各地の戦に従軍し、賤ヶ岳の戦いでは七本槍の一人に数えられる手柄を立てた。
また優秀な行政官で、日本各地の検地や街道整備などの事業に参画して活躍した。
関ヶ原の戦いの後は豊臣氏の家老として働いたが、豊臣氏と徳川家の対立が深まると片桐且元は大坂城から退去し、豊臣氏が滅亡した後に死去した。

前半生


浅井家に仕えた片桐直貞の年齢を考えると、片桐家は浅井久政に仕えて浅井家の家臣団に組み込まれ、次の浅井長政の時代には(浅井家は新興の大名なので)譜代家臣の扱いを受けていたとみられる。
近江国の有力大名だった浅井長政はやがて織田信長と対決して敗北し、片桐父子は浅井家が滅亡するまで主家に従い戦い続けた。

※後年、片桐且元は大野治長(浅井長政の娘・茶々姫の乳母の息子)を「我が子のように思い、引き立てた」。
片桐且元は浅井家時代、小谷城で当時幼かった大野治長や彼が仕えた茶々姫(淀の方)を見守っていたのかもしれない。片桐家の所領は小谷城の近くにあった。

浅井家の滅亡後は江北の領主になった羽柴秀吉に仕えて小姓に取り立てられて、各地を転戦。
賤ヶ岳の戦いでは秀吉軍本隊に属して奮闘し、賤ヶ岳の七本槍の一人に選ばれて「三千石を与える」という内容の感状を与えられた。
同年、従五位下東市正に叙任された。
※ただし七本槍は後世の創作であり、その面々が戦後に実際に数千石の領地を与えられたかどうかは不明である。現在では秀吉が行った宣伝工作、空手形だったとされる。

秀吉の勢力がさらに拡大し、九州攻めや小田原の役で大軍を動員すると、片桐且元は豊臣領の経営と軍団の兵站を担当。さらに交渉事も引き受けて、九州から東北まで日本各地で働いた。
唐入りにも参加して大陸へ渡り、秀吉と現地日本軍の連絡役を務めた。
それらの功績を秀吉に評価され、1595年には秀吉の御膝元の摂津国で茨木1万石の大名になっている。

片桐且元はその後、豊臣秀頼の傅役の一人に選ばれた。
豊臣政権の一員としての地位に加えて、大名としての豊臣氏の家宰も担うことを秀吉から期待されていたようである。

しかし秀吉が亡くなると、片桐且元はすぐに家康に接近した。

豊臣の家老

関ヶ原の戦いでは畿内を西軍の大軍が席巻したため、片桐且元・貞隆兄弟は他の豊臣家臣と共に西軍に味方した。
だが関ヶ原の戦いが徳川家康の勝利に終わると、片桐兄弟はいち早く家康に会いに行き、戦勝を祝った。さらに大坂へ向かう家康を警護した。
その働きを認めた家康は、片桐兄弟を咎めるどころか二人の領地を加増した。
片桐且元の所領は大和国龍田に移り、摂津茨木は弟貞隆の領地になった。

事実上の天下人になった家康は東軍に味方した諸将への論功行賞という理由で豊臣氏の所領を削り、さらに各地の鉱山や都市の管轄権も豊臣氏から奪ったが、片桐且元は抗議しなかった。
片桐且元は徳川家の役人の立会いの元で豊臣氏の所領の検地を行っている。かつて秀吉も奉行たちを諸大名の領地に派遣して検地を行わせた。主従関係は完全に逆転したことになる。
他にも幕府が出した法令と同じ内容の法令を豊臣領でも施行した。
さらに片桐且元は駿府や江戸へ通い、家康や徳川秀忠にご機嫌伺いの挨拶を行っている。
露骨な徳川贔屓の行動であり、また片桐家の利益を追求する行為だが、片桐且元は豊臣氏を徳川幕府の下で一大名として存続させるために奔走していたとみられる。

当時大坂城で政務を仕切ったのは片桐且元だった。
※物語では淀の方が大坂城を支配している場合が多いが、淀の方は当時政治に関与したという同時代の記録が見つかっていない。豊臣氏の処世については寧々(高台院)に、政務は片桐且元に頼りきりだったようである。

関ヶ原の戦いの後、大野治長が大坂へ戻ってきた。大野は開戦前に失脚して関東へ飛ばされていたが、東軍に味方して戦功を挙げた。そして家康からの仕官の誘いを断り、大坂へ戻った。
大野の復帰を片桐且元は大喜びし、以後は大野を重用した。また速水守久や渡辺糺など旧浅井家臣系の人物も活躍している。

やがて主君の豊臣秀頼が成長すると、秀頼は片桐且元の屋敷を訪ねて政務の相談をした。
片桐且元は「豊臣氏は徳川幕府に従属する」という方針を推し進めながらも、主君との関係は良好だったようである。

豊臣氏の滅亡

徳川家康と豊臣秀頼の会見実現にも尽力した片桐且元だが、豊臣恩顧の大名が次々に亡くなると徳川幕府は豊臣氏に対して厳しい要求を突き付けた。
背景には上方を中心に徳川幕府の統治を批判する人々が豊臣氏に接近していたという事情があった。
片桐且元や大野治長は、家康の指示により領地を加増される一方、反徳川勢力と豊臣氏の関わりについて釘を差されている。

1614年、片桐且元は朝廷や畿内の寺社も巻き込んだ豊臣氏の一大事業である方広寺大仏殿造営の仕上げとして、梵鐘の銘文を南禅寺の文英清韓に依頼した。
この時も、法要の日程は幕府の指示に従うなど、徳川幕府に従う姿勢を続けていた。
しかし完成した銘文を家康の側近たちが非難したため、片桐且元は弁明のために駿府へ向かった。
豊臣氏は事態を重く見たらしく、淀の方の側近で大坂城の奥向きを仕切る大蔵卿局(大野治長の母)と正栄尼(渡辺糺の母)も使者として派遣した。
寧々(高台院)と親交がある老女二人を加えた使者団には、銘文問題の弁明だけでなく、豊臣氏の総意として徳川幕府への親善と恭順の意志を伝える目的があったと考えられる。

家康は大蔵卿局と正栄尼を歓待してすぐに送り返したが、一方で片桐且元には厳しい態度で臨み、駿府に引き留めた。
そして3つの要求を付きつけた。
・豊臣秀頼を江戸に住まわせること
・淀の方を人質として江戸に住まわせること
・豊臣氏の所領転封に同意すること
それまでの友好的な態度をかなぐり捨ててどれか一つを呑めと迫る家康の側近たちに対し、片桐且元は一旦大坂城へ持ち帰ると回答した。

大坂へ戻った片桐且元は家康の要求を報告し、条件を受け入れて幕府に服従するよう説得した。
ところがその主張は、弟分の大野治長を含む豊臣家臣団の賛同を得られず、片桐且元は孤立。
しかも大野治長と木村重成(豊臣秀頼の側近)は片桐の謀殺を計画し、織田信雄(常真)の密告で事態を知った片桐且元は、弟の片桐貞隆と共に大坂城から退去した。
身の危険を感じていたのか、あるいは戦乱の時代を戦い抜いた武者の矜持か、片桐兄弟の退去は数百の軍勢に鉄砲まで配備した完全武装という物々しい有様だった。しかも大野治長と織田有楽斎から人質を取って片桐主従の安全を保障させた上で退去した。
豊臣側も完全武装の将兵を数百人揃えて片桐兄弟を見送った。

※この時期の一連の出来事については、後世の史料で創作や脚色が多分に盛り込まれた疑いもある。
ただし片桐且元が徳川幕府への服従を強硬に主張したことで遂に排除されたのは間違いない。前後して豊臣秀頼の側近だった石川貞政が大坂城から退去し、幕府軍に参加している。開戦に向けて大坂城から恭順派を排除する動きがあったようである。
片桐たち使者団が大坂から駿府へ向かう間に、徳川・豊臣両陣営は共にすでに戦の準備を始めていたという説もある。

片桐兄弟が去った後の大坂城では、豊臣秀頼の信任を得た大野治長と牢人衆の後藤又兵衛(後藤基次)らが徳川幕府軍を迎え撃つ準備を進めていった。
幕府に味方した片桐且元は和泉国の重要拠点・堺を確保しようと速やかに軍勢を派遣したが、駆けつけた後藤又兵衛の私兵に撃退されている。
その後は幕府軍に参加。近畿周辺で長年培った人脈と経験を活かし、幕府軍の上陸・集結を積極的に支援した。自ら兵を率いて参戦もしている。

翌1615年になると病気を理由に引退を徳川幕府に願い出たが認められず、同年の大坂夏の陣にも自ら参戦。
大坂の陣の功績を評価され、加増を受けて4万石の大名になった。
豊臣氏の滅亡を見届けた直後に死去した。病死、憂悶死、殉死と諸説あるが不明。

死後の評価

片桐且元は徳川幕府に味方して主家を滅ぼしたことを、同時代の史料でも厳しく批判されている。
関ヶ原の裏切り者と非難された小早川秀秋でさえ、その悪評は死後しばらく経ってから記されるようになったものだが、片桐且元の場合は生前から非難されている。
※小早川秀秋は関ヶ原の後も大坂城に通い、行事で豊臣秀頼の代行を務めた記録まで残っているので、生前は全く非難されていなかったようである。片桐且元と決別して豊臣氏と運命を共にした大野治長は、その覚悟と忠義を幕府側の史料でも高く評価されている。

徳川幕府の統治を認めない人々にとって片桐は裏切り者であり、一方で徳川幕府は泰平の時代の秩序を維持するために信義と忠節を強調していく必要があり、片桐を擁護できない事情があったと思われる。
※ただし江戸時代の史料『寛政重脩諸家譜』では、方広寺事件から大坂の陣までの片桐且元の行動について、豊臣からの離反と対決には止むを得ない事情があったという内容で、この史料としては異常な程に詳細な記述がなされている。片桐家の子孫(弟貞隆の子孫)が先祖の汚名を濯ぐために該当部分を書いて幕府に提出したのかもしれない。

他方、片桐兄弟の豊臣氏への忠誠を示す出来事もあった。
豊臣氏の滅亡後、豊臣秀吉を祀る豊国神社を徳川幕府は迫害した。
豊臣氏を支えた寧々が豊国神社への援助を続けたが、幕府は寧々を丁重に扱う一方で、神社への執拗な嫌がらせを続けていた。
そのような状況で、片桐貞隆は豊国神社へ参詣した。
現代の選挙票集めの時だけの参詣とは違い、幕府に睨まれて家を潰されかねない時期の参詣だった。

近代以降は加藤清正や石田三成の影に隠れて「地味」「凡庸」な人物と評価され、家康や淀君に振り回される「可哀想な人」が定番の片桐且元だが、

・主家(浅井家)の滅亡を経験し、そこから天下人の側近にまで上り詰めた苦労人
・武勇の士であり、能吏でもある
・豊臣氏を利用して片桐家の利益を追求し、最後は主家を見捨てて攻撃までした奸臣
・世間の悪評に対して自身は何の言い訳も残さず
・それでも本心は豊臣氏の忠臣だったのでは、と思わせるような逸話が残っている。

関連項目

  • 戦国時代の人物の一覧
  • 浅井長政
  • 豊臣秀吉
  • 豊臣秀頼
  • 徳川家康
  • 賤ヶ岳の戦い
  • 大坂冬の陣/大坂夏の陣

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