西南戦争とは、士族たちの最後のあがきである。
1877年(明治十年)1月から9月に発生した、西郷隆盛をトップに据えて現在の鹿児島県を中心に熊本・宮崎・大分といった南九州一帯を巻き込んだ大規模な内乱である。明治維新を迎え、様々な諸改革を断行してきた明治日本にとっては総決算ともいえる大事件であり、以後我が国においてはこれほどの内乱は発生していない。西南の役とも呼ばれる。
江戸時代においては支配階級として鎮座していた武士階級は、明治維新によって次々と様々な特権を剥奪され、特に1876年に出された廃刀令と秩禄処分は事実上の特権と食い扶持を失う死活問題となった。しかし、小学校や中学の教科書ではこれらを主な原因として取り上げてはいるが、実際の所、いわゆる不平士族たちはその法律の前から西洋化や四民平等などを理由に常々政府を批判しており、秩禄処分についても決起の主因として一次資料にあまりでてこないことから、原因は複合的かつ慢性的なものとする見方もある。
とにもかくにも、この直後から明治政府への不満が反乱という形で本格的に爆発し、10月24日に太田黒伴雄率いる敬神党が熊本で決起した神風連の乱を皮切りに、秋月の乱、萩の乱が発生。そして、1877年1月29日に士族に使われるのをおそれて、政府の指示で赤龍丸に載せて秘密裏に武器弾薬を輸送しようとしていた所、それを察知した薩摩の私学校の生徒たちがこれを襲撃。一般的にこれを西南戦争のはじまりとしている。
通説や大河ドラマなどでもよく見られるように、西郷は当初乗り気ではなく、明治政府とも最後の最後までなんとか平和的な共存を目指していたが、この事件をうけて西郷は決意を固め、2月5日に率兵上京を決議。つまり、兵を率いて上京し、天皇に士族たちの気持ちを奏上するという決断を下したのである。しかし、当然ながら新政府側もこれを黙って見過ごす訳がなく、有栖川宮熾仁親王を総司令官として征討軍を派遣することを決定、熊本鎮台を当面の前線基地として対峙する構えを見せ、2月20日より交戦が開始された。
戦争はおよそ八ヶ月間続き、士族たちの勢いに押され、政府軍側が不利になる局面もあったが、最終的には抜刀隊などの活躍や国民皆兵の常備軍たちの強さが上回り、田原坂の戦いなどの激戦を経て、9月24日の城山籠城戦の最中に西郷は自害。官軍薩軍あわせて12000人の死者を出しながら、西南戦争は官軍の勝利に終わった。
明治政府はこの戦争でようやく士族という不安要因をとりあえずは除くことに成功し、近代国家への地歩をより固めることとなった。
この戦争における首魁・西郷隆盛はおそらく知らぬ者はいない、維新の三傑の一角をしめる倒幕と明治維新の立役者の一人である。大久保利通と同じく薩摩の軽輩から島津斉彬や久光の重用を受けて重臣にまで駆け上がり、御側役として薩長連合の締結や王政復古の実現に動き、戊辰戦争では東海道先鋒軍参謀として江戸に攻め入り、無血開城の一方の当事者となった。
戊辰戦争終結後は薩摩に帰り、鹿児島に屋敷を構えて大参事として郷里の政治に参与していた。しかし、西郷抜きの明治新政府は統制を欠いていた為、大久保や弟・従道の説得を聞き入れて1871年2月に東京へ行き、政府に帰参した。そこでは近衛師団の先駆けとなった御親兵の創設に尽力したり、廃藩置県や官制改革に関わったりと、政府の中枢の一員として活躍を続けた。しかし、大久保や岩倉具視らとはこの時点より折り合いが悪く、衝突を繰り返していたとされる。
そして、国書の文言を原因にして日朝関係が断絶したことに起因する、『征韓論』をめぐる論争で対立は決定的となり、朝鮮への遣使を望んだ西郷の提案は退けられた為、1873年10月24日に下野。西郷を慕っていた板垣退助や江藤新平などの旧薩摩藩士も次々とそれに続き、参議の大半を失った明治政府は再編成を余儀なくされることになる(明治六年の政変)。
これを契機に、明治政府に対して有司専制を非難して国会建設を訴える民撰議院設立建白書を提出する動きが出たり、不平士族たちを糾合して武力に訴え出るなどの様々な抵抗運動が起こるようになった。
明治六年の政変を契機とし、先述の通り士族反乱が発生するようになった。最初に起こったのは政変から4ヶ月後の江藤新平と島義勇が起こした佐賀の乱であり、数千人の不平士族が小松宮彰仁親王率いる政府軍と戦うも、敢え無く敗れた。
なお、この際に江藤や彼の率いる征韓党は自らが起てば、薩摩の西郷たちも立ち上がるだろうという目算で決起に及んだとされているが、旧佐賀藩内ですら決起に反対する勢力が多く、その願いが叶うことはなかった。そして、江藤は田手川・寒津川の戦いで大敗し、未だ戦い続けてる島義勇率いる憂国党を見捨てて西郷に助力を求めたが、長時間の議論の末、「当てが違う」と言い捨てて西郷は加勢を拒んだ。
その後江藤は高知に逃れて同士を募ったが、その最中に捕縛され、4月13日に梟首となった。この捕縛の際には、皮肉にもかつて江藤自身が考案した指名手配書が適用されている。
佐賀の乱は一月ほどで落着したあっけないものだったが、新政府の事実上の首班であった大久保はこの反乱を軽視せず、国内の不満を少しでも外に向けさせるため、同年5月に前々より外交上の懸念事項となっていた台湾に対して出兵することを決断した。この近代日本初の海外出兵となった台湾出兵は5月から12月にかけて行われ、3600人の鎮台兵とは別に士族たちで構成された植民兵も送られ、その不平の分散を目指したのである。
下野した西郷は、鹿児島県県令(現在で言う県知事)・大山綱良や同じく維新に功績のあった薩摩藩士・桐野利秋(人斬りで名を馳せた中村半次郎のほうがピンとくる人も多いだろうか)らの出資協力を得つつ、1874年6月に陸軍士官養成を目的とした、幼年・銃隊・砲台学校を設立した。
これが後に西南戦争の担い手となる「私学校」である。ここでは、西郷が当初から考えていた対外的な危機に対処できるような「難に当たり一統の義を立つ」人材の育成も目的としていたが、どちらかといえば不平の溜まっていた士族たちに働き口を与えて暴発を防ぐことが当初の目的であったとされている。
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最終更新:2025/12/10(水) 13:00
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