酒井忠次 単語


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「酒井忠次」(さかい・ただつぐ 1527~1596)とは、戦国時代の武将である。小平次、小五郎、左衛門尉。
徳川家康に仕えて軍事・外交で活躍し、家康の事業を支えた。その功績を後世の人々に讃えられて徳川四天王、徳川十六神将の筆頭格に選ばれた。

概要

正室は碓井姫(徳川家康の叔母、光樹院)。
松平広忠、徳川家康に仕えた。
家康が経験した主要な合戦のほぼ全てに参加し、優れた部隊指揮で勝利を重ねた。
諸大名との交渉も担当し、徳川家の勢力維持に努めた。調略や行政でも功績を挙げている。
その働きぶりは織田信長や豊臣秀吉からも賞賛された。
後に秀吉の要望で京都に留まって生活し、そのまま亡くなった。墓は京都の知恩院にある。
晩年も側室を迎えて子宝に恵まれ、子孫は徳川譜代の名門として繁栄した。

エピソード(の一部)

酒井忠次は徳川家臣団の重鎮でしかも活動期間が長く、子孫は江戸時代全期を通じて繁栄したため、多くの史料が酒井忠次に関する記述を残した。
信憑性が疑わしい話もあるが、江戸時代以降の人物像は概ね以下のようなものである。

・『海老すくい』の踊りが得意で、軍議や外交の席でも披露して出席者の緊張を和らげた。
 最高位の重臣でありながら気さくに振る舞う人物だったとされる。

・天下人になった信長や秀吉でも、酒井忠次と会う時は気を遣った。
 逆に酒井忠次は彼らの前でも平然としていた。

・武勇に優れ、甕通槍という槍を振るって活躍した。
 酒井忠次が着用したと伝わる鎧は現存しており、どれも派手な意匠である。

・酒井忠次が遠江の宇津山城を攻略した時の話。
 城主の小原鎮実は城から逃げる際、酒井忠次を殺害しようと倉庫に爆薬を仕掛けていた。
 罠は作動したが火薬の量が足りなかったので、爆音に酒井忠次たちは驚いたが無傷で済んだ。
 
・三方ヶ原の戦いで徳川軍が武田軍に大敗した時の話。
 城に戻った酒井忠次は太鼓を打ち鳴らして城兵を鼓舞し、家康を出迎えて励ました。
 さらに城門を開け放ち、篝火を焚くよう城兵に指示した。
 接近した武田軍は、浜松城の無防備な様子を見て不気味に思い、戦わずに引き上げた。

・長篠城の傍も流れる豊川は三河国を潤す重要な河川だが、当時は洪水が頻発していた。
 1570年、酒井忠次は豊川の用水路を作る工事を行った。
 長篠の戦いでは、酒井勢は豊川を渡り奇襲を成功させた。

・長篠の戦いの後の話。
 功労者の酒井忠次を信長は絶賛し、「まるで背中に目がついているようだ」と言った。

・娘の於虎の話。三河の有力な国人衆の牧野康成は、於虎を嫁に貰いたいと酒井忠次に申し入れた。
 酒井忠次はすぐに断った。不思議に思った家康が理由を尋ねた。
 忠次「牧野は勇猛で優れた武将です。いずれ謀反して三河を奪いかねません」
 家康「それほどの人物なら、忠次の与力にして活躍させよう」
 酒井忠次の娘婿になった牧野康成は長篠の戦いなどで活躍したので、牧野家は繁栄した。

・遠江の諏訪原城を攻めた時の話。
 城を見下ろす火剣山に砦を築いた酒井忠次は狼煙を使うことで、城に篭る武田軍を混乱させた。

・徳川家が甲斐を制圧した時の話。
 家康は「武田家に仕えた者たちを、忠次の寄騎にしよう」と考え、酒井忠次に相談した。
 酒井忠次は断り、家康が期待を寄せる若手の井伊直政の寄騎にすることを勧めた。
 この話を聞いた榊原康政が、半数は自分の寄騎にして欲しいと訴えた。
 忠次「寄騎の件は俺に付けるという話で、その俺が井伊を殿に推薦したのだから、口を挟むな」
 酒井忠次に諭されて、榊原康政は諦めた。

・徳川家が秀吉の命令で関東に転封されると、酒井家は3万7千石の大名になった。
 本多忠勝・榊原康政・井伊直政は10万石以上の大名になった。
 酒井忠次はすでに隠居していたが、家康に酒井家の石高を増やすよう訴えた。
 この時、家康は「おまえも我が子は可愛いか」と皮肉を言った。
 かつて家康の息子信康が織田信長に疑われて切腹させられた際、織田信長に会いに行った酒井忠次は、徳川信康を助けようとしなかった。
 酒井忠次は自分の過ちを恥じて、引き下がった。
 

福谷城の戦い

福谷城は今川家と織田家の勢力圏の境にあった。
酒井忠次は松平竹千代(徳川家康)のお供の役目を終えて三河へ戻り、しばらくして福谷城の城将を務めた。
 (ただし当時城の防衛の責任者は複数の武将が務めることが多かった)

※酒井忠次は度々織田家に加担したため、今川軍に討伐されて降伏した。
 織田家へ寝返った時点で松平家への従属関係は解消されていた。
 今川義元は松平竹千代(家康)を三河西部の旗頭に据えることを考えて、松平家の郎党だけでなく酒井忠次たち国人衆から集めた人質を竹千代のお供にしたとみられる。
 後に天下を席巻した徳川軍団の形成と、家康と酒井忠次の主従関係の成立には、今川義元の配慮があった。
 ちなみにこの時酒井忠次はすでに酒井家の当主だった。当主自ら駿河で暮らすことになったのは、今川家から特に警戒されていたのだろうか。


1556年春、尾張から柴田勝家が率いる織田軍が福谷城に襲来。酒井忠次は籠城して城を守り抜き、松平家(徳川家)に従う三河の国人衆が救援に駆けつけて織田軍を撃退した。
福谷城の戦いでは、当時は織田信勝の家老だった柴田勝家だけでなく、織田信長の家臣も参戦していた。

この戦いに関する記録は後年に徳川家側が残していて、「敵もよく戦った。だが三河衆は死力を尽くして強敵を撃退し、大きな戦果を挙げた」という内容になっている。

同じ年、織田信長・信勝兄弟は稲生の戦いで激突した。
稲生の戦いの背景としては信長の後ろ盾だった美濃の斎藤道三が同年戦死したことが挙げられるが、他に福谷城の敗戦も影響を与えた可能性がある。
「福谷城の敗戦を機に、それまで協力していた織田兄弟は対立を始めた。織田家の力だけでは今川家に対抗できないと判断した織田信勝は斎藤義龍(道三の子)を後ろ盾にしようと考えて、斎藤義龍と争う信長を排除しようとした」
というものである。

福谷城の戦いについては戦果が誇張された疑いもあるが、いずれにしても当時の酒井忠次は今川義元から最前線の城を任されるほど期待され、そして織田軍に勝利した武将だった。

長篠の戦い

日本史の教科書に載っているこの合戦でも酒井忠次は活躍した。
 
1575年
1月、徳川家の奥平信昌が長篠城の城主として赴任。
3月、織田家の佐久間信盛が兵糧を三河へ輸送。
3月下旬、武田軍が三河国北部の足助方面へ出兵。織田信忠(信長の嫡男)が尾張衆を率いて牽制に向かった。
4月上旬、信長が河内国へ出陣して三好家と対決。戦後処理で4月末まで費やした。
5月上旬、武田軍が長篠城を攻撃。家康は岡崎城に軍勢を集め、13日には織田信長、信忠父子も出陣。

※この年の足助侵攻または長篠の戦い直前に武田軍はさらに南下して、酒井忠次が守る吉田城の城下町まで押し寄せたという説がある。
酒井忠次は出撃して、武田軍の山県昌景隊と激しく戦った。
他の城は見捨てた家康がこの時は自ら軍勢を率いて吉田城の救援に向かい、その動きを知った武田軍は長篠方面へ向かった。
三河における徳川軍と武田軍の戦いは別の年の戦が混同された疑いもあるが、3月には織田信忠が出陣したことも併せて考えると、長篠の戦いが起こる前から武田軍は三河に居座り続けていて、酒井忠次は武田軍と戦っていた可能性がある。

ここで前年からの徳川、織田、武田軍の主な動きを並べてみる。

1574年

越前国で朝倉家旧臣の不満分子と本願寺教団が挙兵。

織田軍主力が越前攻めの準備を始めた。

武田軍が美濃東部へ侵攻。そのため織田軍の越前出陣が中止となり、本願寺教団が越前を制圧した。

武田軍主力の不在を突いて徳川軍が遠江北部へ侵攻したが、敗北した。

織田軍主力が河内国に出陣、三好軍・本願寺軍と交戦。

武田軍が遠江の高天神城を包囲。

徳川家から救援要請を受け、織田軍主力が三好軍・本願寺軍への攻撃を中止して東へ移動。

織田軍の行軍が遅く、高天神城は武田軍に降伏した。

織田軍は織田領へ戻っても解散せず更に軍勢を集めて、信長包囲網の一角を担う伊勢の長島一揆を総攻撃して殲滅した

こうしてみると武田勝頼の戦略は、下記の二つを方針にしていた可能性が考えられる。
・織田軍主力の不在を突いて織田家と徳川家の版図を削り取る。
・織田、徳川の重要な城を包囲することで、織田軍主力の攻撃を受けている同盟勢力を救援する。

1575年3月に三河へ侵攻した武田軍はおそらく様子見で、4月に入って織田軍主力が畿内へ向かったのを知った武田家は急いで大軍を動員して徳川領の分断あるいは三好家の救援を狙ったとみられる。
吉田城の戦いがこの年の出来事なら、千載一遇の好機を掴んだ(同時に協力者である三好家の危機に際して)武田軍は全力で吉田城を奪いに来たはずで、酒井忠次はそのような敵と戦って城を守り抜いたことになる。

酒井忠次は吉田城を守ったことで徳川領の分断を阻止した。大局では信長包囲網の解体に貢献したことになる。
この後、酒井忠次とその軍勢は長篠方面で戦った。武田軍の猛攻を受けながらも、酒井勢は大きな損害は出していなかったのかもしれない。

長篠の戦いに話を戻すと、織田・徳川連合軍はすぐに武田軍と戦おうとせず、長篠城の西にある設楽原に布陣した。
信長は土地の起伏を利用して連れてきた大軍を武田軍からは少なく見えるようにして、さらに堅固な陣地を築かせた。
これに対し武田軍は、主力が長篠城の西を流れる川を渡り、谷を利用した堅固な陣地を築いて連合軍と睨み合いを始めた。

一方、長篠城は武田軍の攻撃を受けて兵糧庫を焼かれた上、守備軍は本丸まで追い詰められていた。
武田軍は長篠城から川を挟んで東にある鳶巣山に五つの砦を築いておよそ二千の将兵を置き、長篠城から地続きで北にある医王寺付近、長篠城の西の有海村などにもそれぞれ軍勢を配備していた。
連合軍の襲撃に対する備えは怠ってはいなかったようである。

酒井忠次はその鳶巣山を迂回奇襲する作戦を軍議で提案し、信長に一旦却下されたが採用された。
そして酒井忠次を指揮官とする別働隊が編制された。
酒井忠次は与力の東三河衆、現地の土地勘がある北三河衆を中心に軍勢を編成し、さらに織田軍から金森長近の軍勢が参加した。

酒井忠次は四千人という大規模な軍勢を率いて深夜に出陣、武田軍に察知されないよう長篠の南を大きく迂回して進軍し、鳶巣山の東側へ回り込んだ。
そして夜明けと共に武田軍の砦を襲撃した。
この時、酒井忠次は別働隊を複数の攻略部隊に分けて各砦の攻撃に向かわせると共に、鳶巣山砦の前で鉄砲を撃ち鳴らすよう指示した。

そのため銃声を聞いた鳶巣山の他の砦から救援が鳶巣山砦へ向かった。
救援部隊は鳶巣山砦の武田軍と合流して連合軍別働隊を強襲。酒井忠次がいる本陣は、武田軍に攻め込まれて危機に陥った。
武田軍の猛攻を本陣が凌いでいる間に、手薄になった他の砦を攻略部隊が攻め落とし、急いで戻って本陣に合流。最後は数の差で武田軍に勝利して鳶巣山砦も陥落させた。
この戦いで別働隊は、武田信実(武田勝頼の叔父)をはじめ小宮山信近など信玄以来の勇将も多数討ち取った。

敗北した砦の残存兵が西の宇連川を渡ると、別働隊も川を渡って追撃を行った後、長篠城に入城した。
そしてすぐに城の守備軍と一緒に出陣し、北の武田軍陣地を攻撃して占拠。
敗走した武田軍は城の西を流れる寒狭川を渡って主力部隊との合流を図ったが、別働隊も川を渡って追撃を続けた。
別働隊は西岸の有海村の陣地を攻撃、武田軍の高坂昌澄(高坂昌信の子)を戦死させた。
なおも追撃を行った別働隊は、武田軍の小山田備中守の軍勢に反撃されて、別働隊の主力を担っていた松平伊忠が戦死したが、怯まずに戦い続けて武田軍主力の陣地の背後(=武田軍の退路)で暴れ回った。

※別働隊の襲撃(あるいは退路の遮断とそれに続く連合軍の挟撃)を阻止するために、武田軍はかなりの規模の部隊を別働隊の迎撃に向かわせた可能性が考えられる。

一連の戦いは昼過ぎまで続き、その間に連合軍と武田軍の主力決戦が行われ、連合軍が勝利した。
別働隊の奮闘は後に長篠合戦図屏風(の端)に描かれた。

『信長公記』では別働隊の活躍を記した後、織田軍が武田軍の陣地に押し寄せ、その動きを見た武田軍が陣地から出て織田軍を迎撃したとされている。
武田勝頼が戦後に家臣宛てに出した書状では、武田軍が織田軍の陣地まで攻め寄せて攻撃したとされている。
食い違いはあるが、武田軍が退却せずかつ堅固な陣地から出撃したという点は一致している。
酒井忠次は長篠城を救うことで徳川家を救い、決戦を望んだ織田信長の願いまで叶えた名将だったのである。

徳川信康切腹事件

1579年、徳川家康の息子信康が切腹。
その少し前に酒井忠次は安土城へ行き、織田信長に会っていた。
信長と会った際、信長から徳川信康の行状について問い詰められた酒井忠次は回答できなかった。
または、酒井忠次は徳川信康と仲が悪く、信康を陥れた。
信長は徳川信康を自害させるよう家康に命令し、家康は徳川家を守るために泣く泣く息子を切腹させた。

この事件は近年では徳川家の内部分裂が原因という説が提唱されている。
詳細はWikipedia等で見ていただくとして、原因が信長の圧力や酒井忠次の陰謀ではなかったとしたら、その行動は全く違うものだったと考えられる。

「徳川信康を助けるために家康は酒井忠次を派遣して弁明させようとしたが、酒井忠次は信康を助けなかった」
ではなく、

「信康一派の処分を考えた家康は、信康の舅である織田信長が介入することを阻止するために酒井忠次を派遣した。交渉は上手く行き、信長は介入しなかった」
となり、酒井忠次は奸臣ではなく、天下人を相手に家康の要求を呑ませた有能な外交官になる。

なお酒井家の子孫は、出羽庄内藩と出羽松山藩でそれぞれ徳川信康を供養するために寺を建てた。
「やはり酒井忠次に罪があったのだ」と思われるかもしれないが、

・徳川信康に対する史料の評価が江戸時代初期とその後では大きく異なる。
・信康事件も含めて酒井忠次を悪く書いた『三河物語』が後の時代の史書の参考史料に採用された。
ことを考えると、家康の死後に行われた徳川信康の再評価と、それに伴い酒井忠次の悪評が広まったことから、両藩は世間を憚って供養を行った、とも考えられる。  

北条家との絆

酒井忠次は外交でも活躍した武将で、織田家・今川家・武田家・上杉家・北条家との交渉で登場する。
北条家が作成した文書では当主から酒井忠次宛ての文書が複数あり、その意見が家康の決断を左右する重要人物と見なされていたようである。
(大名が交渉事で他家の家臣宛てに直に書状というのは珍しく、大抵は両家の「取次役」同士が書状を遣り取りする形で交渉を進めた)
この中で北条家とは、家康が今川家に反旗を翻した頃から北条家が滅亡するまでの長い付き合いとなった。

1582年、本能寺の変で織田信長が横死すると、徳川家と北条家が信濃国へ侵攻を開始。両家の軍勢は信濃と甲斐で交戦した。
国力・戦力は北条家が圧倒したものの、徳川軍は局地戦で勝利を重ねた。
最終的に徳川家は格上の北条家を相手にほぼ対等の条件で和睦。後に両家の関係を婚姻同盟へ発展させた。
酒井忠次は信濃攻略と北条家との戦い、さらに甲斐の統治にも参加して徳川家の地盤固めに貢献した。
そして北条家との同盟交渉でも働いた。

同盟を結んだ結果、家康は背後を気にせず全力で羽柴秀吉(豊臣秀吉)と戦うことができた。
さらに小牧長久手の戦いにおいて、北条氏政は自ら北条軍を率いて家康の加勢に向かう予定だった。
※この援軍計画は、秀吉が東国の反北条連合軍を動かしたので実現しなかった。

小牧長久手の戦いでも酒井忠次は大活躍した。
しかし徳川家の傘下に入っていた真田昌幸、木曽義昌たちの離反、徳川家の協力者だった美濃遠山家の没落、さらに戦後は重臣だった石川数正の出奔や小笠原貞慶の寝返りによって徳川家は追い詰められていた。
それでも徳川家と北条家は互いを頼みとして決戦の準備を進めた上で、秀吉との交渉を行った。
秀吉は当初は両家と対決して滅ぼそうと諸勢力に手紙を送ったが、結局討伐を諦めて家康を政権に迎え入れた上、北条家の政権参加についても前向きに検討することとした。

豊臣、徳川、北条の三者が外交戦を繰り広げていた頃、徳川家康は北条領の伊豆に出向いて北条氏政と会見した。
この会見で家康は北条氏政と意気投合し、その後の宴会は大いに盛り上がった。
北条氏政は酒井忠次たちを労い、太刀などを与えた。
宴の席で酒井忠次は得意の『海老すくい』を披露し、宴会に参加した両家の人々から絶賛された。
天下の名将だからこそ侮られることはなく、逆に敬意を集めた。

後に酒井忠次は家康のお供で上洛。酒井家の家督を長男の酒井家次に譲り、自身は京都に留まった。
これは秀吉からの要望だった。
また北条家の政権参加を秀吉が渋りだしたので家康が北条家の為に動いていた。酒井忠次の京都移住は単なる隠居ではなく、人質と駐在外交官の役割を兼ねていたとみられる。

家康の尽力もあって北条家の従属を認めようとしていた秀吉だったが、1589年の秋頃から方針を転換して北条征伐の準備を開始。
秀吉の豹変に驚いた北条家は秀吉から北条家に弁明の機会を与えてくれるようにと、家康に協力を求めた。
また北条氏規(北条氏政の弟)は酒井忠次宛ての手紙の中で、秀吉が北条家に送ってくる文書の内容について教えてほしいと頼んだ。

1590年、秀吉が行った小田原征伐で北条家は滅亡した。
北条氏政の首は、酒井忠次が暮らす京都に送られて晒し首にされた。
家康は北条領への転封を秀吉から命じられた。かつての同盟者だった織田信雄が転封を拒否して秀吉に領地没収されたのを見て断ることができず、準備のために関東から一旦領地へ戻ることも許されなかった。
酒井忠次は晩年は病気がちになり、三河へ帰ることも関東へ行くこともなく、そのまま京都で亡くなった。


敵地同然の土地に囚われ、悲痛な思いで闘病生活に耐えるだけの日々――――と思いきや、現地で身の回りの世話をしていた女性との間に子供を授かっている。
この時、酒井忠次は60歳をとうに越えていた。
戦国乱世を勝ち抜いた徳川家の大功臣は、色んな意味で家康のお手本だったのかもしれない。

戦歴

酒井家の家伝では、酒井家と松平家は先祖が同じとされる。
酒井家は三河の有力な国人衆の一つ。酒井家はいくつかの家に分かれて、同門や他の国人衆と争った。松平家より有力だった時期もある。
酒井忠次の酒井家は「左衛門尉家」と呼ばれる。


1527年 三河井田城で誕生。
     幼い頃から松平広忠に仕えて、主君の逃亡生活にも付き合った。

1537年、父の酒井忠親が死去。

1543年 織田家へ寝返るが、後に松平家へ戻る。

1548年 織田家へ寝返り、三河上野城を守る。

1549年 上野端城の戦いに織田方として参加。襲来した今川軍に敗北。
       安祥城の戦いで織田軍も敗北すると、忠次は今川家に降伏した。
   同年 駿河へ行き、人質に出されていた竹千代(徳川家康)に仕えた。

1556年 福谷城の戦いで柴田勝家を撃退。

1560年 桶狭間の戦いに参加。松平軍の先鋒部隊に加わり、織田家の丸根砦を攻め落とす。
     戦後、家康が岡崎城で自立することを、忠次は他の家臣たちと共に支持した。

桶狭間の戦いで碓井姫の夫は討死し、碓井姫は未亡人になっていた。 碓井姫は忠次と再婚した。

桶狭間の戦い以降、三河へ侵攻する織田家と戦う。
徳川家と織田家の同盟成立後は、吉良家や今川家に味方する国人衆と戦った。
今川家臣の小原鎮実が徳川家を追い詰めたが、最後は酒井忠次の活躍もあって徳川家が勝利した。

1562年 忠次、徳川軍千人を率いて佐脇城と八幡砦を攻撃。
     一度敗北するが、家康と合流して両拠点を攻略した。

1563年 吉良家、三河一向一揆が徳川家と敵対。
    忠次は家康に味方し、敵対する酒井忠尚の上野城を牽制した。
    同年、今川軍と野戦したが敗北。

1565年 小原鎮実が守る吉田城を、酒井忠次は徳川軍を率いて包囲。
    周囲の城を攻略して吉田城を孤立させ、半年後に開城に追い込んだ。
   
    この時、城から退去する今川軍の安全を保証するために、娘の「お風」を人質に出した。
    戦後に吉田城主に任命され、さらに今川方の諸城を攻略。
    以降、三河東部の国人衆も酒井忠次の指揮下に入った。
   

1568年 遠江久能城主の久能宗能を調略。
    徳川家に降伏した曳馬城の接収を担当。

   同年 軍団を率いて家康とは別行動し、浜名湖西岸へ侵攻。
    現地の国人衆を味方に付け、境目城を一日で攻め落とす。
    小原鎮実が籠る宇連山城を攻撃し、翌年攻め落とす。

1569年 家康と合流して掛川城を攻撃し、掛川城を開城させた。
     酒井忠次は今川氏真を護衛し、今川主従の安全を保証する人質も自ら務めた。
     この件で相模の北条氏政から感謝の手紙を貰った。

    
1570年 家康に従い近江に出陣、姉川の戦いに参加。
    味方の陣形が崩される中、酒井勢は朝倉軍の猛攻を凌いで勝利に貢献した。

1571年 武田軍が三河北部へ侵攻。酒井忠次の与力たちが撃退した。

1572年 武田軍が三河へ侵攻、吉田城まで迫る。
    忠次たちは抗戦して武田軍を撃退した。(吉田城の籠城戦は1574年という説あり)

 同年 三方ヶ原の戦いに参加。
    酒井忠次が率いる徳川軍右翼は激突した武田軍の部隊を敗走させた。
    戦闘そのものは徳川軍の惨敗に終わった。
   

1573年 遠江の向笠城を攻め落とす。
    転戦して長篠城攻めに参加。

1574年 武田軍が高天神城を包囲。
    酒井忠次は吉田城で織田軍と合流し救援に向かうが、間に合わず高天神城は降伏した。

1575年 長篠の戦いに参加。別働隊を率いて武田軍を撃破し、長篠城の救援に成功。
    さらに武田軍の陣地を攻撃して勝利に貢献した。

 同年 遠江の諏訪原城攻めに参加して攻め落とす。
    小山城攻めに参加。撤退する徳川軍の殿軍を務めて、城兵の追撃を防いだ。

1579年 高天神城攻めに参加。

1580年 小山城攻めに参加。

1582年 武田家討伐に参加。酒井忠次は駿府に駐留した。

 同年 本能寺の変があった。
    酒井忠次は家康に従い伊賀越えを決行して三河へ帰還。
    帰還後、忠次は軍勢を率いて尾張津島へ進軍し、情報収集を行った。

 同年 徳川軍を率いて信濃南部へ侵攻し、同地方を掌握。
    北上して北条家に味方する諏訪高島城を攻撃。
    北条家の大軍が南下するという報せを受けて城攻めを中止し、甲斐へ向かう。
    途中で捕捉され、交戦。
    北条軍4万に対して徳川軍3千だったが、酒井忠次は殿軍を務めて奮闘し、撤退に成功。
    

1584年 徳川家は織田信雄から援軍要請を受けた。
    酒井忠次は先行して伊勢長島城に入り、織田信雄と会って相談した。
    その後、小牧長久手の戦いに参加。
    前哨戦となった羽黒の戦いでは、徳川軍の先鋒部隊を率いて羽柴軍を撃破。
    最重要拠点の小牧山城を確保した。
    
     羽柴軍との和睦が成立した後も、酒井勢はしばらく尾張に留まり警戒を続けた。

1588年 隠居して剃髪した。

1596年 京都で死去。

内政・外交

1549年 今川家に味方した国人が、織田家に味方したその兄の職権に関して、
     酒井忠次に相談するよう今川家から指示を受けた。

1552年 岡崎城を統治する奉行衆として、大工たちの身分を保証する。

1557年 浄妙寺へ自治権を認める文書を送った。
  同年 今川義元から朱印状を受け取る。
            内容は徳川・酒井家とも縁が深い仏堂賢仰院に関する部外者の取り締まり。

徳川家康は今川家と決別した後、政治でも酒井忠次を信頼した。
酒井忠次の判断に任せることも多かったようである。

1561年 相模の北条氏康から酒井忠次宛てに、徳川家と今川家の和睦を勧める手紙が送られた。

1565年 遠江曳馬城の家老たちが酒井忠次に徳川家へ味方する旨の起請文を送った。
      酒井忠次たちは彼らを助けることを約束した。

1568年 武田家の山県昌景、穴山信君と交渉して徳川家・武田家の同盟を成立させた。

1569年 掛川城の開城の件で北条氏政から感謝の手紙を送られた。
    その後、徳川家と北条家の同盟が成立し、徳川家は武田家と敵対。
 
 同年 上杉家の使者と会った。上杉家との同盟交渉か。

1570年 豊川の用水路工事を行った。

1579年 家康の使者として奥平信昌と共に安土城へ行き、信長に馬を献上した。
    この年、徳川信康が父家康の命令で切腹した。

1582年 甲斐善光寺別当の身分と領地を保証する文書を送った。

1583年 家康の娘である督姫の北条家への輿入れを実現させた。

1586年 伊豆で家康と北条氏直の会見を実現させた。

 同年 家康の使者として上洛、秀吉に会った。
    酒井忠次は従四位下・左衛門督に叙位任官された。
    秀吉から屋敷を与えられて、以後は京都で生活した。

1589年 北条氏規から忠次へ手紙が送られた。
     豊臣秀吉が北条家に送る予定の文書の内容について、ご存じなら教えてほしいという依頼。

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関連項目

  • 戦国時代の人物の一覧
  • 徳川家康
  • 徳川四天王
  • 本多忠勝
  • 榊原康政
  • 井伊直政
  • 石川数正
  • 奥平信昌
  • 織田信長
  • 今川義元
  • 北条氏政
  • 長篠の戦い
  • 酒井・忠次

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最終更新:2025/12/06(土) 08:00

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