酒井忠次 単語

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「酒井忠次」(さかい・ただつぐ 1527~1596)とは、戦国時代の武将である。小平次、小五郎、左衛門尉。
徳川家康に仕えて軍事外交で活躍し、家康の事業を支えた。その功績を後世の人々に讃えられて徳川四天王、徳十六将の筆頭格に選ばれた。

概要

正室は碓井徳川家康叔母院)。
松平広忠徳川家康に仕えた。
家康戦国時代に経験した要な合戦のほぼ全てに参加し、優れた部隊揮で勝利を重ねた。
諸勢との交渉も担当し、徳の勢拡大と維持に努めた。行政でも功績を挙げた。
その働きぶりは織田信長豊臣秀吉からも賞賛された。
後に秀吉の要望で京都に留まって生活し、現地で亡くなった。墓は京都の知恩院にある。
晩年も子宝に恵まれて、子孫は徳譜代の名門として繁栄した。

エピソード(の一部)

酒井忠次は徳臣団の重鎮でしかも活動期間が長く、子孫は江戸時代全期を通じて繁栄したため、多くの史料が酒井忠次に関する記述を残した。
信憑性が疑わしい話もあるが、酒井忠次の人物像は概ね以下のようなものである。

・『海老すくい』の踊りが得意で、軍議や外交の席でも披露して出席者の緊を和らげた。
 最高位の重臣でありながら気さくに振る舞う人物だったとされる。

下人になった信長秀吉でも、酒井忠次と会う時は気を遣った。
 逆に酒井忠次は彼らの前でも然としていた。

・武勇に優れ、というを振るって活躍した。
 酒井忠次が着用したと伝わるは現存しており、どれも手な意である。

・酒井忠次が遠江の攻略した時の話。
 小原鎮実はから逃げる際、酒井忠次を殺しようと倉庫に爆薬を仕掛けていた。
 は作動したが火の量が足りなかったので、爆音に酒井忠次たちは驚いたが傷で済んだ。
 
三方ヶ原の戦いで徳軍が武田軍に大敗した時の話。
 に戻った酒井忠次は太鼓を打ち鳴らして兵を鼓舞し、家康を出迎えて励ました。
 さらに門を開け放ち、篝火を焚くよう兵に示した。
 接近した武田軍は、浜松防備な様子を見て不気味に思い、戦わずに引き上げた。

長篠の傍を流れる豊は三河を潤す重要な河川だが、当時は洪水が頻発していた。
 1570年、酒井忠次は豊用水路を作る工事を行った。
 長篠の戦いでは、酒井勢は豊を渡り奇襲を成功させた。

長篠の戦いの後の話。
 功労者の酒井忠次を信長は絶賛し、「まるで背中がついているようだ」と言った。

虎の話。三河の有人衆の牧野康成は、虎をに貰いたいと酒井忠次に申し入れた。
 酒井忠次はすぐに断った。不思議に思った家康が理由を尋ねた。
 忠次「牧野は勇猛で優れた武将です。いずれ謀反して三河を奪いかねません」
 家康「それほどの人物なら、忠次の与にして活躍させよう」
 酒井忠次の婿になった牧野康成は長篠の戦いなどで活躍したので、牧野は繁栄した。

・遠江の諏訪を攻めた時の話。
 を見下ろす火山に砦を築いた酒井忠次は狼煙を使うことで、に篭る武田軍を混乱させた。

・徳甲斐を制圧した時の話。
 家康は「武田に仕えた者たちを、忠次の寄騎にしよう」と考え、酒井忠次に相談した。
 酒井忠次は断り、家康が期待を寄せる若手の井伊直政の寄騎にすることを勧めた。
 この話を聞いた榊原康政が、半数は自分の寄騎にして欲しいと訴えた。
 忠次「寄騎の件はに付けるという話で、そのが井殿推薦したのだから、口を挟むな」
 酒井忠次に諭されて、榊原康政は諦めた。

・徳秀吉の命関東に転封されると、酒井は3万7千石の大名になった。
 本多忠勝榊原康政井伊直政は10万石以上の大名になった。
 酒井忠次はすでに隠居していたが、家康酒井の石高を増やすよう訴えた。
 この時、家康は「おまえもが子は可愛いか」と皮を言った。
 かつて家康息子信康が織田信長に疑われて切腹させられた際、織田信長に会いに行った酒井忠次は、徳川信康を助けようとしなかった。
 酒井忠次は自分の過ちを恥じて、引き下がった。
 

酒井忠次と松平家の関係

平家来>

酒井伝に拠れば、酒井平家は同じ先祖を持つ戚とされる。
酒井忠次は幼い頃、松平広忠徳川家康)に仕えて小姓を務めた。
松平広忠族に圧迫されて伊勢三重県)へ亡命した時は、酒井忠次もお供した。
その後に三河へ帰還した松平広忠今川支援を受けるために幼い息子竹千代家康)を今川の本拠地・駿へ人質に送ると、酒井忠次は竹千代に同行した。


酒井平家と同格>

ところが酒井忠次が松平広忠に仕えたとされる1530年代~40年代の平家は、分裂して一門同士で抗争を繰り返していた。
そして酒井自体は平家と並ぶ有人衆でもあった。
ただし酒井平家の勢は三河中西部に限定されており、あくまでこの地域の有者だった。
また竹千代のお供衆の中に酒井忠次の名前く、名前があるのは酒井雅楽の人物だった。
(酒井忠次が属する左衛門とは近しい戚だが、別系統)
雅楽平家下で活動した一方で、左衛門の酒井忠次は下記のように自立した人として行動した。

1540年代に尾織田信秀が三河へ侵攻すると、酒井忠次は織田に味方して松平広忠今川を支持)と敵対。
1549年上野合戦で酒井忠次は上野織田方)の支である上野に籠し、今川軍と戦った。
この合戦は今川軍の勝利で終わり、酒井忠次は今川替えした。
同年に松平広忠が死去すると、跡継の竹千代がまだ幼かったため、今川義元は代官を派遣して領を統治させた。
この代官たちの中に酒井忠次もいて、1552年には岡崎奉行の一人として活動していた。
遡って1549年には三河の人がある案件今川義元から「酒井忠次に相談せよ」と示を受けた。
酒井忠次は駿河へ行かず三河に留まり続けたのかもしれない。


家康族>

1560年、桶狭間の戦い今川義元が敗死。
この合戦で家康(当時は松平元康)の叔母である碓井の夫も戦死した。
未亡人となった碓井は酒井忠次にいだ。
この婚姻によって酒井忠次は家康族になった。

徳川家康一門を含む多数の三河人衆を酒井忠次の与(部下や下位の協者)にした。
さらに後述の北条氏康関東の有大名)からの書状の内容と併せて考えると、酒井忠次は家康の強な後ろだった可性が考えられる。
桶狭間の戦い後、家康岡崎へ帰還して今川の代官たちからを受け取り、しばらくの間は今川に味方して活動した。
家康の後見人として、有人で岡崎の代官も務めた酒井忠次は適任だったのかもしれない。


<三河衆の寄

1565年、酒井忠次は今川の東三河の最重要拠点だった吉田攻略。周辺の砦も攻略し、家康から所領の加増を約束され、この地域の統括を任された。
今川に従っていた牧野(現地の有人)などが酒井忠次の与(下位の協者)となった。

1570年、徳川家康は本拠地を三河の岡崎から遠江(静岡県西部)の浜松へ移し、岡崎は幼い息子徳川信康に預けた。
家康が遠江へ移った結果、岡崎周辺の一門を含む三河東部以外の地域の人たちも、酒井忠次を通じて家康から軍事示を受けるようになった。
それまでも酒井忠次が彼らを率いて戦うことがあったので、自然な人事だった。

近くはない浜松から大雑把を投げられるだけでは三河衆が困るので、三河に留まった酒井忠次が酒井臣や与人衆の元へ派遣して彼らに詳細な説明をさせたのだろう。
日記』にはそのような役割をした人物がいたことが記されている。

人たちが仕えた相手は家康で、酒井忠次は三河における家康の代理人だった。
ただし地の中には酒井行動を共にする内に酒井臣になるを選ぶ者もいた。

三河衆―酒井忠次ー家康、という情報伝達系統が構築されたが、いつもこの経路で示や報告が送られるわけではなかった。
浜松から三河衆へ直接示を飛ばすこともあれば(後述する信康事件の時など)、酒井忠次が遠江に出中で三河に不在の時は石川数正岡崎にいた徳川信康の重臣)から三河衆へ示を伝えることもあった。

臨機応変、柔軟に対応したわけだが、それを可にしたのが日頃からの人付き合いと参した相手への気配りだった。戦国時代コミュ力が高くないと生きていけない過酷な時代だった。
日記』には三河武士たちのそのような活動も記されている。
の時も徳軍を支えた酒井忠次と三河衆の底は、そうして培われたのかもしれない。

三河人衆の協を受けて活動した酒井忠次は、三河衆が報われるようにする義務があった。
四天王の他の三人――本多忠勝榊原康政井伊直政は徳の旗本軍団を率いて家康の本拠地浜松で勤めたが、酒井忠次は彼らとは全く異なる立場と経歴の人物だった。


<閑話>
酒井忠次が他の三人と特にトラブルを起こした話はない。例外は上記の井伊直政の与に関する人事である。
この逸話自体が徳や井に多数仕えた武田旧臣の子孫による先祖顕創作話のようだが、酒井忠次や井伊直政の当時の立場やその後を考える上で参考になる。

徳川家康は旗本先手役(直属軍団)の武将たちを、勢拡大の度に地方に赴任させた。上記逸話の時期は駿河(静岡県東部)、信濃長野県)、甲斐山梨県)を獲得し、武将たちを現地へどんどん送り出した。
井伊直政甲斐に赴任した。逸話の経緯がくても、武田の旧臣たちが井臣や部下になるのは自然なことだった。
そして家康の本拠地である浜松に残った先手役の要武将は、本多忠勝榊原康政だけとなった。家康が最も信頼した側近二人ということになる。

こうした事情を踏まえると、先の逸話で酒井忠次が武田旧臣を与にすることを断ったのは、単に住み慣れた三河(故郷)を離れて甲斐へ転勤するのを嫌がったからではないか、とも考えられる。
そして身代わりに井伊直政推薦
後輩(井)を心配した榊原康政が、「与の半数は某に(=甲斐に行って仕事する)」と家康に談判
榊原まで転勤すると浜松軍団のまとめ役が本多忠勝だけになってしまい、本多の負担が倍増
酒井榊原を説得

という三河の田舎名将たちが甲斐をド田舎扱いという武田も支配に苦労した土地の人事を巡って熾な駆け引きを行う一幕があったかもしれない。
ちなみに酒井忠次は晩年、京都で暮らして京都で亡くなった。

福谷城の戦い

今川織田の勢圏のにあった。
酒井忠次は竹千代徳川家康)のお供の役を終えて三河へ戻り、しばらくして福将を務めた。

1556年、尾から織田柴田勝家が率いる織田軍が福に襲来。酒井忠次は籠してを守り抜き、平家に従う(実際は今川に従う)三河の人衆が救援に駆けつけて織田軍を撃退した。
の戦いでは、当時は織田信勝信長)の家老だった柴田勝家だけでなく、織田信長臣も参戦した。

この戦いに関する記録は後年に徳側が残していて、「敵もよく戦った。だが三河衆は死を尽くして強敵を撃退し、大きな戦果を挙げた」という内容になっている。

同じ年、尾では織田信長、信勝兄弟が稲生の戦いで突した。
稲生の戦いの背景としては信長の後ろだった美濃斎藤道三が同年戦死したことが挙げられるが、福の敗戦がを与えた可性も考えられる。

「福の敗戦を機に、織田兄弟は対立を始めた。織田だけでは今川に対抗できないと判断した織田信勝斎藤義龍を後ろにしようと考えた。そこで斎藤義龍と争う信長を排除しようとした」
というものである。

の戦いについては戦果が誇された疑いもあるが、いずれにしても当時の酒井忠次は今川義元から最前線を任されるほど期待され、そして織田軍に勝利した武将だった。
(ただし当時最前線の守将は複数の武将が務める場合が多かった)

長篠の戦い

日本史教科書に載っているこの合戦でも酒井忠次は活躍した。
合戦に到る経緯と戦後については、長篠の戦いの記事を参照のこと。


<酒井忠次の防戦>

1572
武田信玄が大軍を率いて徳領へ侵攻。三方ヶ原の戦いで徳軍と武田軍が決戦
三河から来援した酒井忠次の軍勢が奮闘したが、結果は徳軍の惨敗。
酒井勢が強すぎて他の部隊が追随できず、連携の間隙を武田勝頼部隊に突かれて負けた可性も。合戦の詳細は軍記物で大幅に盛られた疑いはあるが。

1574年
江北部で行われたの戦いで徳軍が敗北、大打撃を受けた。
江東部の高天神武田軍が包囲。家康が率いる浜松軍団は動かず、酒井忠次と三河衆が織田軍と合流して救援に向かうが、間に合わず高天城は開
浜松軍団の戦いの損で、単独では武田に対する牽制も出来なくなっていたか)

1575年
1月 徳奥平信昌長篠に赴任。
3月 織田から重臣の佐久間信盛が兵糧を輸送して徳に譲渡。
3月下旬 武田軍が三河北部の足助方面へ出兵。織田信忠信長の子)が濃尾の軍勢を率いて牽制。
4月 織田河内和泉大阪府)へ出三好対決織田軍が勝利したが、戦後処理で4月末まで費やす。
4月 武田軍が吉田(酒井忠次の居)を攻撃
5月上旬 武田軍が長篠を攻撃



1575年3月下旬、三河北部に出兵した武田軍はさらに南下し、三河東部の最重要拠点である吉田攻略に向かった。
酒井忠次はから出撃して、武田軍の山県昌景隊と突した。

徳川家康は自ら軍勢を率いて吉田の救援に向かい、その動きを知った武田軍は吉田攻略を諦めて北上長篠へ向かった。

当時の武田戦略は下記の二つを方針にしていた可性が考えられる。

織田の不在を突いて織田と徳の版図を削り取る。
織田、徳の重要なを包囲することで、織田の攻撃を受けている同盟勢を救援する。

1575年3月に三河へ侵攻した武田軍はおそらく様子見で、4月に入って織田が畿内へ向かったのを知った武田は急いで大軍を動員して徳領の分断あるいは三好の救援を狙ったとみられる。
吉田の戦いがこの年の出来事なら、千載一遇の好機を掴んだ(同時に協者である三好危機に際して)武田軍は全吉田を奪いに来たはずで、酒井忠次はそのような敵と戦ってを守り抜いたことになる。

酒井忠次は吉田を守ったことで徳領の分断を阻止した。
結果として織田信長三好を降に追い込むまでの時間を稼いだことにより、大局では信長包囲網の解体に貢献した。

※ただし吉田の戦いは別の年に起きた戦いが混同された可性もある。



<開戦>

武田軍が長篠を攻撃すると、酒井忠次は織田・徳連合軍に合流して現地へ向かった。

連合軍が到着した時点で武田軍はすでに長篠の周囲に砦群を築いていた。
織田・徳連合軍はすぐに武田地を攻撃しようとせず、長篠の西にある設楽原に布。地形を利用して堅固な地を構築し、さらに土地の起を利用して大軍を後方に隠した。
その2日後に武田軍の長篠の西を流れるを渡ったが、連合軍の地を攻撃しようとはせず、連合軍と同様にを利用した地を築いて篭った。
こうして両軍の睨み合いが始まった。

織田連合武田の布場所>

連合  武田  寒 医王山 
          狭     連 巣山酒井
        長篠 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~豊

 
       着山(酒井勢が南側を回)   
 北
西 東
 南

※有には、『信長公記』では織田連合軍の別働隊が布。『甲陽軍鑑』では武田軍の高坂が守備した。

 
<状況>      

一方、長篠は兵糧庫を武田軍に焼かれて追い詰められていた。
武田軍は長篠からを挟んで東にある巣山に五つの砦を築いておよそ二千の将兵を置き、長篠から地続きで北にある医王寺付近、長篠の西の有などにもそれぞれ軍勢を配備した。
武田軍は連合軍の襲撃に対する備えを怠らなかった。


<奇襲作戦

酒井忠次はその巣山を敢えて奇襲する作戦を軍議で提案し、信長に一旦却下されたが採用された。
(この部分は各史料で食い違いがある)
奇襲の指揮官を任された酒井忠次は、与一門や西三河衆・東三河衆、現地の土地勘がある北三河衆、さらに家康の旗本衆、織田軍から参加した金森長近らの軍勢を加えた四千人をえる部隊を編制した。
(以後の記述では酒井勢とする)

酒井勢は深夜に出武田軍に察知されないよう長篠の南にある豊と山を大きく回して進軍し、巣山の東側へ回り込んだ。
そして明けと共に武田軍の複数の砦を襲撃した。
現地の武田軍は善戦したものの、酒井勢の猛攻撃を受けて壊滅した。

敗北した砦の残存兵が西の)を渡ると、酒井勢もを渡って追撃を行い、長篠に入
の守備軍と一緒に出し、陸続きの北の武田地を攻撃して占拠。

信長公記』に記された酒井勢の活躍はここまでだが、『甲陽軍鑑』などには続きがある。

敗走した武田軍は長篠の西を流れる(寒狭)を渡って友軍への合流を図ったが、酒井勢もを渡って追撃を続けた。
酒井勢は西の有武田地を攻撃、武田軍の高坂澄(高坂昌信の子)を戦死させた。
なおも追撃を行った酒井勢は、小山田備中守(武田軍)の軍勢から反撃を受けて、酒井勢のを担った忠が戦死した。


酒井勢が進撃した結果>

連合  武田  寒 医王山 
          狭     連 巣山
        長篠 
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~豊

 

勝利の立役者

前日の深夜行軍から始まった酒井勢の戦いは、後に『長篠合戦図屏』(の端)に描かれた。

信長公記』では、酒井勢の進撃を見届けた織田信長連合軍に総攻撃を示。
織田軍の動きを見た武田軍は、地から出して織田軍を迎撃した。

長篠合戦で連合軍の勝因は「三段撃ち説」や「野戦築で迎撃説」など諸説あるが、『信長公記』の記述を読む限りでは酒井勢の進撃こそが最大の勝因である。
支軍を潰された武田軍は決戦を挑むか撤退するしかなかったが、撤退にも準備の時間が必要なので、武田勝頼たちがどちらを選んだにせよ、前に出て連合軍に対処する必要があった、と考えられる。

一方、武田勝頼戦後下の人に宛てた書状や『甲陽軍鑑』では、武田軍の方が連合軍の地へ攻め寄せた。
食い違いはあるが、武田軍が出して連合軍と武田軍の対決が行われた点は共通している。


信長論見と期待に応えた酒井忠次>

長篠周辺は山ありありありと狭く複雑な地勢で、大軍を展開して活かすには不向きな土地だった。
信長公記』によると、信長織田地の後方に大軍を置いて武田軍から隠した。
これは過剰配備だった。
信長は大軍を敵に見せつけ、一部を割いて北に向かわせ初めから武田軍の退路を脅かす、という戦術を採らなかった。

連合軍の着を見た武田軍は、が西へ移動した。
ただし武田軍はすぐに釣られたわけではなく、慎重に行動した。
前年にも武田軍が織田軍に決戦を挑む機会はあったが、武田軍はいずれも見送った。

武田は二日間様子見をしてから、織田軍の前進を阻みやすい土地へ移動した。
長篠の北はに挟まれている上に山がちな土地で、武田もそこに篭ったままでは過剰配備だったと考えられる。

武田軍は東の守備を崩さなかった。
数日待って長篠が陥落すれば、武田軍は「連合軍は武田軍を恐れて、の前の長篠を見殺しにした」という喧伝材料=戦果を挙げて引き揚げることもできた。

前年に武田の同盟者だった伊勢長島寺が(高天神の救援から戻った)織田軍の総攻撃で壊滅、長篠合戦の前には三好織田の攻撃を受けた。
三好織田に降したことを武田が知っていたかどうかは不明)
信長包囲網の挽回のために、当時の武田は冒険する必要があった。

そして武田の移動が、武田軍の敗因となった。
ただしこれは酒井勢が、武田支軍がしっかり守っていた東側の拠点を制圧したから、結果的にそうなったのである。
もし酒井勢が敗退していたら、織田軍の布と数日の対峙は裏に出てしまっただろう。

戦いの流れが信長の計算通りだったとしたら、織田軍が過剰配備された時点で奇襲作戦は練られていて、それは酒井忠次という名将の存在を前提に立案・実行された作戦だったかもしれない。

をした酒井勢>

信憑性に疑いはあるが、酒井勢は巣山を攻略する際、危険を冒す戦術を採った。

酒井勢は現地に到着し明けを迎えると、巣砦の近くでを撃ち鳴らした。
 軍勢を複数の部隊に分けて他の砦攻略に向かわせた。

 を聞いた巣山の他の砦は、巣砦を救援するために砦の守備軍を割いて急した。
 各砦の援軍を得た巣砦の守備軍は、出撃して酒井勢を攻撃。
 分隊派遣で人数が減っていた酒井勢は、本にまで攻め込まれて窮地に陥った。

 しかし分隊が手薄になった他の砦を攻め落として急いで戻り、本に合流。
 酒井勢が勝ち、巣砦も攻め落とした」

この話が事実なら、将の酒井忠次も自慢のを振るって必死に戦ったかもしれない。

役から脇役へ>

信長公記』では大活躍の酒井勢だったが、長篠の西側で行われた決戦々しいため、割を食っている。
ところがーー研究の進展により、長篠の戦い戦場の東側、つまり酒井VS武田支軍こそが最も重要かつ勝敗を決めた戦闘だった、という説が知られるようになった。西側の決戦ぶっちゃけ消化試合に過ぎないというのである。

実は武田勝頼人衆宛ての書状で話題にしたのは東側の戦闘のことで、武田軍が出して敵へ攻め寄せたのも東側の戦闘のこととしている。
西側で惨敗してそれを隠蔽しようとしたのかもしれないが。

織田サイドの史料である『信長公記』では先述の通り酒井勢の活躍が記されている他、巣山をが極めて重要な土地であること、徳軍も織田軍も多数の兵を割いて酒井勢に参加させたことが記されている。
繰り返しになるが、
西側の決戦は、酒井勢の進撃を見届けた上で信長連合軍に出示。
押し寄せる織田軍に対し、武田軍は勇敢にも出して迎撃しようとしたが、織田軍から撃を受けるとあっさり敗走した。
つまり『信長公記』の記述を信じるなら、武田軍は西側では迎撃のはじめの内はまともに戦わなかったのである。
(各部隊入れ替わり織田軍を足止めし、逃げる準備のための時間稼ぎをしたと考えられる)

武田勝頼も『信長公記』(著者:織田臣の太田一)も東側の戦闘を重要視したのだから、酒井勢が長篠合戦の役だったと考えられる。
ところが、時代が下ると酒井勢は脇役にされてしまった。

しかし同時代の人々は酒井勢の活躍と成果を知っていた。そして長篠合戦の勝利は徳はもちろん織田にも多大な貢献をした。
長篠合戦の後、障りだった武田軍(と彼らに圧迫されて救援をめる徳)への対応から解放された織田軍は、

美濃東部を武田から奪還→濃尾の軍団自由に動けるようになった→濃尾軍団が各戦線に出張って大活躍し、織田の版図を拡大

越前をせん滅→北陸地方の征を開始&余ができたので中国地方にも侵攻

1575年以降の織田大躍進、そのきっかけの一つが長篠合戦だった。
つまり酒井忠次は、あの織田信長に物を言える武将だったかもしれないのだ。

徳川信康切腹事件

<『三河物語』等の記述>

1579年、岡崎を預かる徳川信康家康長男)が、家康の命で身柄を拘束されて切腹した。
その少し前の時期に酒井忠次は安土城へ行き、織田信長(時の下人徳川信康)に会っていた。
信長と会った際、信長から徳川信康の行状について問い詰められた酒井忠次は回答できなかった。
または、酒井忠次は徳川信康と仲が悪く、信康を陥れた。
織田信長徳川信康自害させるよう家康に命し、家康は徳を守るために泣く泣く息子切腹させた。


<異説>

この事件は徳の内部分裂など諸説が提唱されている。
また家康は信康だけでなく信康に仕えた重臣・側近・小姓まで粛清し、彼らの中には織田信長が亡くなり織田が衰退したあとも不遇だった者達がいた。
原因が信長からの圧や酒井忠次の陰謀ではなかったとしたら、酒井忠次の行動は全く違うものだったと考えられる。

徳川信康を助けるために家康は酒井忠次を派遣して弁明させようとしたが、酒井忠次は信康を助けなかった」
ではなく、

「信康一の処分を考えた家康は、信康のである織田信長が介入することを阻止するために酒井忠次を派遣した。酒井忠次と話し合った信長は、事件に介入しなかった」
となり、酒井忠次は奸臣ではなく、家康の要を時の下人ませた有能外交官になる。


織田の対応>

信長公記』(安土本)や事件後に家康堀秀政織田信長の側近)宛てに送った書状によると、家康息子信康を粛清する許可信長から得るために酒井忠次を派遣した。
酒井忠次は(家康示とはいえ)徳川信康の破滅に加担したのも事実だったと考えられる。

『三河物語』の記述は、著者大久保彦左衛門の「アンタなら悲劇を止められただ!」というの叫びだったのかもしれない。

肝心の信長は「徳殿のお好きにどうぞ(=を巻き込まないで)」とこの問題から逃げた。

<子孫の動き>

酒井忠次の子孫の内、出羽山形県)の庄内松山をそれぞれ領有した二つの酒井は、徳川信康を供養するために寺を建てた。
「やはり酒井忠次に罪があったのだ」と思われるかもしれないが、

徳川信康に対する史料の評価が、江戸時代初期とその後では大きく異なる。家康存命の頃の史料の信康は暴君扱いで、『三河物語』以降は立な人物として記された。

・信康事件も含めて酒井忠次を悪く書いた『三河物語』が後の時代の史書の参考史料に採用された。
江戸幕府の公式史書である徳実記の参考史料に採用されるほど権威のある書物だった)

大久保彦左衛門地方の大名に出世する話を蹴って江戸政治の中心地)で暮らした。旗本の第一人者だった彼は人たちの再就職の旋に尽するなどして名があり、が大きかった。

・酒井忠次の酒井は忠次とその子の酒井家次の功績により、江戸幕府から敬意を払われた。大切にされすぎて、幕政に関わる機会がほとんどかった→江戸で広報活動する機会がかった。

家康の死後に行われた徳川信康の再評価と、その先駆けとなった『三河物語』の内容=酒井忠次の悪評が世間に広まり、庄内酒井松山酒井は世間を憚って供養を始めた、という可性も考えられる。

北条家との絆

酒井忠次は外交でも活躍した武将で、織田今川武田上杉・北条との交渉で登場する。特に北条とは、家康今川に反旗を翻した頃から北条が滅亡するまでの長い付き合いとなった。

1561年に相模北条氏康が酒井忠次宛てに書状を出した。その内容はこの頃今川と対立を始めた徳川家康今川に帰属させることを勧めるものだった。

1569年には北条氏政が酒井忠次宛てに、掛川の件で感謝の書状を送った。
掛川の件とは、今川氏真が籠る掛川が徳軍に包囲されて開した際、から出る今川氏真今川軍将兵の安全を保するために、酒井忠次が自ら今川軍の人質となったことをす。

掛川の開から間もなくして徳今川・北条の同盟が成立。
は彼らが起こした謀反で宿敵となった今川とその後ろの北条、しかもそれまで戦っていた相手とすぐに手を結ぶという離れ技をやってのけた。

ちなみに1565年の吉田の開では、酒井忠次は彼のを人質として今川軍に送り、敵軍の安全を保した。
酒井忠次は信用できる男、と今川や北条は見なしたのかしれない。


武田包囲網

と北条今川駿河奪還を支援して武田信玄と抗争を開始。さらに越後の上杉を加えた四武田に対する包囲網を結成した。
武田信玄家康と同盟して今川を攻め潰したのだが、家康は速攻で返しをしたのだった。

今川、北条と手を結んだことで多大な利益を得た。

・遠江東部(大井以東)まで版図を拡大
今川との同盟で、今川を支持して徳に敵対した人たちを下に収める大義名分を得た。
・東に北条という強大な盟友を得た。
武田領という新たな侵略先を見出した。

武田の方はと言うと、息子を死なせた、何年も根回しをした、そうしてようやく手に入れた駿河を、山甲斐の生命線となるを擁する土地を、徳今川・北条軍の攻撃で奪われる結果となった。

武田の同盟交渉で働いたのが酒井忠次であり、武田との抗争が始まった時期には上杉外交していた。
従は下の名将武田信玄に煮え湯をませた食わせ者だったのである。後で武田軍に報復されて痛いを見たが。

さらに、徳のこの行動は、室町幕府の存続すら揺るがせた疑いがある。
当時、上方では将軍足利義昭織田信長が、彼らが立した新政権に有大名を支持者として取り込もうと躍起になっていた。
例として、将軍信長越前国朝倉義景京都へ招いて政権に参加させようとしていた。
そして新政権の支持者には、信長家康の同盟者だった武田信玄も含まれていた。

武田信玄は徳の背信行為を信長に訴え、信長から家康を制裁――ではなく制止するようめた。
しかし当時朝倉の策動への対処や新政権に敵対する勢との抗争に忙しかった信長は、家康を制止せずこの問題からを背けた。

やがて武田信玄朝倉義景から誘いを受けて信長包囲網に参加。
この包囲網の参加者を信長が潰して回り、政権は有者の支持集めから織田一強の時代を迎えることとなった。
その過程で信長は当初味方だった多くの武将たちを攻め滅ぼす羽になったが、そうした状況で織田に味方し続けた徳信長にとって特別な存在となり、信長家康と酒井忠次に随分と気を遣うことになった。家康と忠次が撒いた種だったが。


一方、肝心の武田包囲網は瓦解した。

・北条の宿敵である房総半島の里見武田と同盟し、北条を攻撃して武田を援護。
・信玄自慢の息子武田勝頼が北条軍相手に無双
上杉謙信が北条助けてくれない。
・徳に従った遠江北部の天野武田寝返り、三河北部の人たちも天野に同調。

酒井忠次が手を出せないところで生じたこれらの事態が、徳を窮地に追い込んだ。
ただし今川に忠実だった天野や三河北部の人たちが、今川と同盟した徳から離反したのは、徳を信頼できないと判断したのかもしれない。

そして上手く同盟を結んだの徳は、北条上杉にまんまと利用された面もあった。

・北条軍は掛川の二年前、里見軍と対決して大敗した。
酒井忠次と武田山県昌景の交渉を経て、徳軍と武田軍が今川領へ同時侵攻したのはその翌年。
北条軍が当時今川を救援できなかったのは、この敗北が尾を引いていたと考えられる。
つまり徳今川・北条と同盟した時点では、北条は徳が当てにしてよい相手ではなかったかもしれない。

上杉は、徳今川・北条が武田と抗争している間に、関東北陸で反上杉を攻撃。
北条の苦に付け込んで版図を拡大するなど、包囲網を一番上手く利用した。

北条はその後、上杉と手を切って武田と同盟。
これにより徳は自の勢のみで、駿河を再征して強大化した武田を敵に回す羽になった。
信長は放置していたら大炎上した徳武田問題から逃げ続けて、武田信長包囲網に参加して織田領に侵攻するまで、徳を助けなかった)

酒井忠次は北条との交流で、北条氏規北条氏政)や北条の重臣たちと書状の遣り取りをした。
北条武田と同盟した後も、徳と北条の交流は続いた。



天正壬午の乱以降>

1582年、本能寺の変織田信長が横死すると、徳と北条信濃へ侵攻を開始。両の軍勢は信濃甲斐で交戦した。
・戦は北条が圧倒したものの、徳軍は局地戦勝利を重ねた。
酒井忠次は信濃攻略と北条との戦いで活躍。
さらに徳信濃支配の最高責任者を務める一方、北条との交渉と甲斐の政務にも参加した。

両軍は甲信だけでなく東海道では互いの所領へ侵攻してしく戦っていたが、間もなく徳は格上の北条を相手にほぼ対等の条件で和
さらに同盟を締結、婚姻関係を結ぶところまで話を進めた。

同盟を結んだ結果、家康は背後を気にせず全羽柴秀吉豊臣秀吉)と戦うことができた。
さらに小牧長久手の戦いにおいて、北条氏政は自ら北条軍を率いて家康の加勢に向かう予定だった。
ただしこの援軍計画は、秀吉が東の反北条連合軍(宇都宮佐竹など)を動かしたので実現しなかった。

小牧長久手の戦いでも酒井忠次は大活躍した。
しかし徳下に入っていた信濃の大名たちの離反、徳の協者だった諸勢落、重臣だった石川数正の出奔などから徳秀吉営に追い詰められた。
と北条は互いを頼みとして決戦の準備を進めた上で、秀吉との交渉を行った。
秀吉は当初は両対決して滅ぼそうとしていたが、討伐を諦めて家康を政権に迎え入れた上、北条の政権参加についても前向きに検討すると伝えてきた。

豊臣、徳、北条の三者が外交戦を繰り広げていた頃、徳川家康は北条領の伊豆に出向いて北条氏政と会見した。
この会見で家康北条氏政と意気投合し、その後の宴会は盛り上がった。
北条氏政は同盟交渉と会見実現に尽した酒井忠次たちを労い、太刀などを与えた。
宴の席で酒井忠次は得意の『海老すくい』を披露し、宴会に参加した両の人々から絶賛された。
と北条臣同士も仲良くなり、両は固いで結ばれた。織田よりも余程仲が良かったようだ。

後に酒井忠次は家康のお供で上酒井督を長男酒井家次に譲り、自身は京都に留まった。
これは秀吉からの要望だった。
また北条の政権参加を秀吉が渋りだしたので、家康が北条の為に動いていた。
酒井忠次の京都移住は単なる隠居ではなく、人質と駐在外交官の役割を兼ねていたとみられる。
最高の武将である酒井忠次の隠居は、徳秀吉と争う意志はいことを示す良いアピールになったかもしれない。

小田原の役>

家康の尽もあって北条の従属を認めようとしていた秀吉だったが、1589年から方針を転換して北条征伐の準備を開始。
秀吉変に驚いた北条は、秀吉から北条弁明の機会を与えてくれるようにと、家康に協めた。
北条氏規北条氏政)は酒井忠次宛ての書状で、秀吉が北条に送ってくる文書の内容について知っているなら教えてほしいと頼んだ。
酒井忠次は隠居後も豊臣政権との交流に関わっていた可性がえる。

ちなみに北条氏規が中身を知ろうとした秀吉からの書状は北条に対する断交と宣戦布告状であり、秀吉が送り出した使者は不必要な日数を費やして東海道を下った。
使者の到着があまりに遅いため、北条氏規京都の酒井忠次に問い合わせたのだろう。

1590年、豊臣軍による小田原征伐で北条は滅亡した。
北条氏政の首は、酒井忠次が暮らす京都に送られてし首にされた。
家康は北条領への転封を秀吉から命じられた。かつての同盟者だった織田信雄秀吉に領地収されたのを見て、準備のために関東から一旦領地へ戻ることも許されなかった。

酒井忠次は晩年は病気がちになり、三河へ帰ることも関東へ行くこともなく、そのまま京都で亡くなった。


敵地同然の土地に囚われて、悲痛な思いで闘病生活に耐えるだけの日々――――と思いきや、現地で身の回りの世話をしていた女性との間に子供を授かっている。
この時、酒井忠次は60歳をとうに越えていた。
戦国乱世を勝ち抜いた徳の大功臣は、色んな意味で家康のお手本だったのかもしれない。

戦歴

酒井伝では、酒井平家は先祖が同じとされる。
酒井は三河の有人衆の一つ。酒井はいくつかのに分かれて、族や他の人衆と争った。平家より有だった時期もある。
酒井忠次の酒井は「衛門」と呼ばれる。


1527年 三河井で誕生。
     幼い頃から松平広忠に仕えて、君の逃亡生活にも付き合った。

1537年 酒井が死去。

1543年 織田へ寝返るが、後に平家へ戻る。

1548年 織田寝返り、三河上野を守る。

1549年 上野の戦いに織田方として参加。襲来した今川軍に敗北
       安祥の戦いで織田軍も敗北すると、忠次は今川に降した。
   同年 駿河へ行き、人質に出されていた竹千代徳川家康)に仕えた。

1556年 福の戦いで柴田勝家を撃退。

1560年 桶狭間の戦いに参加。軍の先鋒部隊に加わり、織田の丸根砦を攻め落とす。
     戦後家康岡崎で自立することを、忠次は他の臣たちと共に支持した。

桶狭間の戦い碓井の夫は討死し、碓井未亡人になっていた。 碓井は忠次と再婚した。

桶狭間の戦い以降、三河へ侵攻する織田と戦う。
織田の同盟成立後は、吉良今川に味方する人衆と戦った。
今川臣の小原鎮実が徳を追い詰めたが、最後は酒井忠次の活躍もあって徳勝利した。

1562年 忠次、徳軍千人を率いて佐八幡砦を攻撃。
     一度敗北するが、家康と合流して両拠点を攻略した。

1563年 吉良三河一向一揆が徳と敵対。
    忠次は家康に味方し、敵対する酒井忠尚の上野を牽制した。
    同年、今川軍と野戦したが敗北

1565年 小原鎮実が守る吉田を、酒井忠次は徳軍を率いて包囲。
    周囲の攻略して吉田を孤立させ、半年後に開に追い込んだ。
   
    この時、から退去する今川軍の安全を保するために、の「お」を人質に出した。
    戦後吉田に任命され、さらに今川方の諸攻略
    以降、三河東部の人衆も酒井忠次の揮下に入った。
   

1568年 遠江久の久を調略。
    徳に降したの接収を担当。

   同年 軍団を率いて家康とは別行動し、浜名湖西へ侵攻。
    現地の人衆を味方に付け、を一日で攻め落とす。
    小原鎮実が籠る連山を攻撃し、翌年攻め落とす。

1569年 今川軍に逆襲されて苦戦する家康を救援。
            合流して掛川を攻撃し、掛川を開させた。
    酒井忠次は今川氏真を護衛し、今川従の安全を保する人質も自ら務めた。
    この件で相模北条氏政から感謝手紙を貰った。

    
1570年 家康に従い近江に出の戦いに参加。
    味方の形が崩される中、酒井勢は朝倉軍の猛攻をいで勝利に貢献した。

1571年 武田軍が三河北部へ侵攻。酒井忠次の与たちが撃退した。

1572年 武田軍が三河へ侵攻、吉田まで迫る。
    忠次たちは抗戦して武田軍を撃退した。(吉田の籠戦は1574年という説あり)

 同年 三方ヶ原の戦いに参加。
    酒井忠次が率いた軍勢は武田軍を攻め崩したが、戦闘そのものは徳軍の惨敗に終わった。
   

1573年 遠江の向を攻め落とす。
    転戦して長篠攻めに参加。

1574年 武田軍が高天神を包囲。
    酒井忠次は吉田織田軍と合流し救援に向かうが、間に合わず高天神は降した。

1575年 長篠の戦いに参加。別働隊を率いて武田軍を撃破し、長篠の救援に成功。
    さらに武田軍の地を攻撃して勝利に貢献した。

 同年 遠江の諏訪攻めに参加して攻め落とす。
    小山攻めに参加。撤退する徳軍の殿軍を務めて、兵の追撃を防いだ。
    以降毎年、遠江東部・駿河侵攻作戦に参加。

1579年 高天神攻めに参加。

1580年 小山攻めに参加。

1582年 武田討伐に参加。酒井忠次は駿府に駐留した。

 同年 本能寺の変があった。
    酒井忠次は家康に従い賀越えを決行して三河へ帰還。
    帰還後、忠次は軍勢を率いて尾津島へ進軍し、情報収集を行った。

 同年 徳軍を率いて信濃南部へ侵攻し、同地方握。
    北上して北条に味方する諏訪高島を攻撃。
    北条の大軍が南下するという報せを受けて攻めを中止し、甲斐へ向かう。
    途中で捕捉され、交戦。
    北条軍4万に対して徳軍3千だったが、酒井忠次は殿軍を務めて奮闘し、撤退に成功。
    

1584年 徳織田信雄から援軍要請を受けた。
    酒井忠次は先行して伊勢長島に入り、織田信雄と会って相談した。
    その後、小牧長久手の戦いに参加。
    前戦となった羽黒の戦いでは、徳軍の先鋒部隊を率いて羽軍を撃破。
    最重要拠点の小牧山を確保した。
    
     羽軍との和が成立した後も、酒井勢はしばらく尾に留まり警を続けた。

1588年 隠居して剃髪した。

1596年 京都で死去。

内政・外交

1549年 今川に味方した人が、織田に味方したそのの職権に関して酒井忠次に相談するよう、今川から示を受けた。

1552年 岡崎を統治する奉行衆として、大工たちの身分を保する。

1557年 浄妙寺へ自治権を認める文書を送った。
  同年 今川義元から朱印状を受け取る。
            内容は徳酒井とも縁が深い堂賢仰院に関する部外者の取り締まり。

1561年 相模北条氏康から酒井忠次宛てに、徳今川の和を勧める手紙が送られた。

1565年 遠江家老たちが酒井忠次に徳へ味方する旨の起請文を送った。
      酒井忠次たちは彼らを助けることを約束した。

1568年 武田山県昌景穴山信君と交渉して徳武田の同盟を成立させた。

1569年 掛川の開の件で北条氏政から感謝手紙を送られた。
    その後に徳と北条の同盟が成立し、徳武田と抗争を始めた。
 
 同年 上杉の使者と会った。上杉との同盟交渉か。

1570年 豊用水路工事を行った。

1579年 家康の使者として奥平信昌と共に安土城へ行き、織田信長を献上した。
    この年、徳川信康切腹した。

1582年 甲斐善光寺別当の身分と領地を保する文書を送った。

1583年 家康である督の北条への輿入れを実現させた。

1586年 伊豆家康北条氏直の会見を実現させた。

 同年 家康の使者として上秀吉に会った。
    酒井忠次は従四位下・左衛門督に叙位任官された。
    秀吉から屋敷を与えられて、以後は京都生活した。

1589年 北条氏規から酒井忠次へ手紙が送られた。
     豊臣秀吉が北条に送る予定の文書の内容について、ご存じなら教えてほしいという依頼

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