雄竹(橘型駆逐艦)とは、大東亜戦争末期に大日本帝國海軍が建造・運用した橘型/改松型/改丁型駆逐艦13番艦である。1945年5月15日竣工。終戦間際での就役だったため戦果を挙げる事なく生き残り、戦後は復員任務に従事した。1947年9月17日、アメリカ軍によって標的艦として処分される。
艦名の雄竹(おだけ)はオスの真竹、もしくは壮大な竹を意味する。かつては日本本土の全竹林のうち70%を占める大所帯であったが、1965年頃に一斉に開花・枯死した事で50%程度に減少したという。中国では剛竹と呼ばれている。
1943年4月に軍令部次長から提出された戦時建造補充計画(通称マル戦)において、丁型一等駆逐艦4814号艦の仮称で建造が決定。1944年11月5日、舞鶴海軍工廠で起工し、1945年1月8日に駆逐艦雄竹と命名されて佐世保鎮守府に編入、3月1日に艤装員事務所を設置し、5月15日に竣工。艦長に松雄敬次大尉が着任するとともに訓練部隊の第11水雷戦隊へ部署する。
既に連合艦隊は壊滅、日本各地は毎日のように空襲を受け、同盟国ドイツは降伏と一縷の希望も無い絶望的な戦況の中で雄竹は誕生した。第11水雷戦隊と合流するため瀬戸内海西部に回航する予定だったが、竣工日の5月15日に前機高圧タービンの空気漏れが発覚したため、5月17日まで修理を受ける。道中には敵潜の跳梁や機雷封鎖に見舞われて大変危険な上、呉がアメリカ軍の執拗な攻撃を受けていた事もあり、修理完了後の5月18日と19日は舞鶴方面で単独訓練を行った。
5月21日午前11時、敵の攻撃から逃れるため第11水雷戦隊旗艦の軽巡酒匂と駆逐艦柿、菫、楠、桜、楢、欅が呉を出発し、関門海峡を通って舞鶴軍港へ避難しようとしていた。翌22日、これに伴って舞鶴方面で活動中の雄竹と椿に水路及び敵潜の情況を報告するよう第11水雷戦隊から命令が下る。そして5月27日午前6時25分、門司で別れた桜、楢、欅を除いて4隻が舞鶴に到着。瀬戸内海に回航せずとも第11水雷戦隊と合流出来た。5月29日、雄竹は戦隊司令高間完少将の巡視を受けた。ところが舞鶴鎮守府にとって第11水雷戦隊の入港は敵の空襲を招く恐れがあり、追い立てられるように6月1日午前9時に舞鶴を出港、道中で訓練をしながら同日13時40分に福井県の小浜湾へ移動する。以降は小浜を拠点に僚艦と訓練するが、深刻な燃料不足により第11水雷戦隊に振り分けられた燃料は僅か850トンのみであり、出動訓練を行えたのは6月10日のたった1日だけだった。柿、楠、菫、榎とともに湾外で訓練を行うも、日本海にはバーニー作戦で侵入してきた米潜水艦9隻が暴れており、ここも瀬戸内海と匹敵する危険度と言えた。
7月に入ると小浜から出る事すらなくなった。7月11日、高間少将と新たに司令に着任した松本毅少将が雄竹を巡視。そして7月15日には第11水雷戦隊そのものが解隊してしまい、舞鶴鎮守府部隊所属の特殊警備艦に転属して舞鶴へ移動。現地で8月15日の終戦を迎えた。
1945年10月5日除籍。無傷で生き残った雄竹は12月1日に特別輸送艦に指定されて復員輸送に従事。
1947年7月4日に賠償艦として青島にてアメリカに引き渡され、9月17日に標的艦となって処分された。
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最終更新:2025/12/24(水) 15:00
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