雄竹 (橘型駆逐艦)とは、大東亜戦争末期に大日本帝國海軍が建造・運用した橘型/改松型/改丁型駆逐艦13番艦である。1945年5月15日竣工。終戦間際での就役だったため戦果を挙げる事なく生き残り、戦後は復員任務に従事した。1947年9月17日、アメリカ軍によって標的艦として処分される。
艦名の雄竹はオスの真竹、もしくは壮大な竹を意味する。広義では大型の孟宗竹も含む。直径15cm、全長20mに及ぶ大型種で、弾力性に優れる事から建築材料や竹細工に使用されている。一方でオスの真竹は「苦竹」と呼ばれるほどタケノコが苦いため食用に適さない(雌竹の方が美味しい)。かつては日本本土の全竹林のうち70%を占める大所帯であったが、1965年頃に一斉に開花・枯死した事で50%程度に減少したという。中国では剛竹と呼ばれている。
松型及び橘型計32隻は樺型や楢型などの旧型駆逐艦の名前から流用しているものが多いが、雄竹の名を冠したのは本艦が初めてである(他には初桜、椎、初梅がいる)。竹(松型駆逐艦)と名前が被っている気がしないでもない。
戦前、大日本帝國海軍は仮想敵アメリカに対し数の不利を覆すため、性能を重視する個艦主義を掲げて突き進んできた。しかし、大東亜戦争が勃発すると想像以上の早さで艦が失われ、特にガダルカナル島を巡るソロモン諸島の戦いで多くの艦隊型駆逐艦を喪失し、短時間での大量生産が困難な艦隊型駆逐艦より安価で大量生産が可能な中型駆逐艦が必要だと痛感。
1943年4月に軍令部次長から提出された戦時建造補充計画(通称マル戦計画)において、建造に時間が掛かる秋月型の建造を全て中止し、代わりに戦時急造に適した松型駆逐艦が量産される事になった。松型は起工から竣工まで半年という驚異的な早さで誕生するが、それでも国力に富むアメリカ相手では足りないと判断し、夕雲型の建造計画を全て廃止して、1944年3月より松型を更に簡略化した改丁型(橘型)の設計に着手する。
改丁型に求められたのは徹底的な工期の短縮。まず参考にしたのが既に簡略化が進んでいた一等輸送艦、鵜来型海防艦、丙型海防艦、丁型海防艦であった。鵜来型同様シアーを廃した直線状の船体を採用、艦尾も垂直にバッサリ切り落としたかのようなトランサム型にし、船体装甲をDS鋼から入手が容易な軟鋼に変更(松型のシアーや上甲板に使われていたHT鋼さえも軟鋼に統一)、二重船底を単底構造に改め、手すり柱のメッキ加工省略やリノリウムの使用を全面廃止、松型では部分的にしか使われていなかった電気溶接やブロック工法といった新技術を本格的に投入するなど涙ぐましい努力を重ね続け、松型の工数約8万5000から約7万に削減。建造期間は僅か3ヶ月にまで圧縮された。一方、松型の長所だった機関のシフト配置は建造の手間が増える事を承知で受け継がれ、被弾しても航行不能になりにくくしている。
船体は簡略化したが水測装備は戦訓を汲んだ本格仕様となった。何かと性能が貧弱だった九三式探信儀と九三式水中聴音機を、ドイツから持ち帰った技術が結実した高性能の三式探信儀と四式水中聴音機に換装。対空能力の強化にも力を入れ、13号対空電探、22号水上電探、九七式2メートル高角測距儀を建造時より搭載、輸送任務を見越して小型発動艇2隻と6メートルカッター2隻も積載しており、対潜・対空に優れる戦況に即した能力を手にした。速力の低さが唯一の泣き所だったものの、戦時急造型にしては意外なほど高性能を発揮したという。
要目は排水量1350トン、全長100m、全幅9.35m、出力1万9000馬力、乗組員211名、最大速力27.3ノット、重油積載量370トン。兵装は40口径12.7cm連装砲1門、同単装砲1基、61cm四連装魚雷発射管1門、25mm三連装機銃4門、同単装機銃8基、九四式爆雷投射機2基。
1943年4月に提出された戦時建造補充計画において、丁型一等駆逐艦4814号艦の仮称で建造が決定。当初は松型での建造を予定していたが途中で改丁型への設計変更が行われた。
戦争も末期に入った1944年11月5日、舞鶴海軍工廠で起工し、1945年1月8日に駆逐艦雄竹と命名されて佐世保鎮守府に編入、3月1日に艤装員事務所を設置して業務を開始、そして5月15日に無事竣工を果たした。艦長には、撃沈された駆逐艦梅の元艦長松雄敬次大尉が着任し、士官10名、特務士官3名、准士官5名、下士官67名、兵225名の計310名が乗艦。戦備を整えるとともに訓練部隊の第11水雷戦隊(待機部隊第2部隊)へ部署する。
既に連合艦隊は壊滅、日本各地は毎日のように空襲を受け、同盟国ドイツは降伏と一縷の希望も無い絶望的な戦況の中、雄竹は静かに誕生した。余談だが雄竹は舞鶴工廠で竣工した最後から2番目の艦である(最後は6月18日竣工の初梅)。
第11水雷戦隊と合流するため、瀬戸内海西部に回航する予定だったが、竣工日の5月15日に前機高圧タービン衛帯蒸気の漏洩大と認められ、再調整も兼ねた修理を5月17日まで行う。道中には敵潜の跳梁や機雷封鎖に見舞われて大変危険な上、呉がアメリカ軍の執拗な攻撃を受けていた事もあり、第11水雷戦隊は雄竹に特命あるまで舞鶴において単独訓練に従事するよう命令。修理完了後の5月18日と19日に舞鶴方面で単独訓練を実施した。5月20日にB-29が初めて舞鶴湾へ機雷を敷設し、身動きが取りにくくなる中で音響兵装の公試に従事。それが終わると舞鶴まで戻った。
5月21日午前11時、機雷封鎖された瀬戸内海西部から脱出するべく、第11水雷戦隊旗艦の軽巡酒匂と駆逐艦柿、菫、楠、桜、欅、榎が呉を出発。関門海峡を通って機雷の敷設が行われていない日本海側、つまり舞鶴軍港へ避難しようとしていた。翌22日、第11水雷戦隊は雄竹には舞鶴方面の水路の情況を、椿には付近の敵潜情報を報告するよう命令を下している。十重二十重に機雷を敷設された関門海峡の強行突破を試みた際に桜が触雷損傷、呉への後退援護のため欅が内海側に残されたが、5月27日午前6時25分、酒匂、柿、菫、楠、榎の5隻が舞鶴に到着。瀬戸内海に回航せずとも第11水雷戦隊と合流出来た。5月29日、雄竹は戦隊司令高間完少将の巡視を受ける。
ところが、舞鶴鎮守府にとって第11水雷戦隊の入港は敵の空襲を招く恐れがあり、決して歓迎されるものではなかった。舞鶴以外の場所へ移動するよう要請された第11水雷戦隊は避難先に七尾湾を検討しつつ、当面の措置としてまだ機雷敷設されていない福井県小浜湾への移動を決定。
追い立てられるように6月1日午前9時に雄竹、酒匂、菫、柿、楠、榎は舞鶴を出港。機雷封鎖によって漁船が1隻もいなくなった若狭湾を出動諸訓練しながら通り、同日13時40分に小浜湾へ到着した。
以降は小浜を拠点にし、第11水雷戦隊・小浜市間の連絡には徴用した二代目雲龍丸を通船として使用。小浜湾には整った設備が無かったものの、非番の乗組員たちが街へ繰り出して飲み食いするようになった事から、一時期小浜市は賑わったと伝わる。
しかし深刻な燃料不足により、第11水雷戦隊に振り分けられた燃料は僅か850トンのみであり(駆逐艦1隻で370トンの燃料を積むため実質2隻分)、その少ない燃料を隊内で分け合った影響で出動訓練の機会は非常に限られ、肝心な訓練内容も機銃操作や魚雷を発射する程度の簡易的なものだった。B-29が湾口に落とした機雷を確認しに行く事もしていたという。旗艦の酒匂は訓練に割ける燃料を少しでも増やそうと、陸上から電気を引いた上でボイラーの火を落とした。
6月10日、なけなしの燃料を使って柿、楠、菫、榎とともに湾外で訓練を実施。燃料不足で湾内から動けない酒匂に代わって柿に司令部が乗艦、臨時旗艦となって訓練を監督した。この時、日本海にはバーニー作戦で侵入してきた米潜水艦9隻が各所で暴れており、湾外訓練中に襲撃されなかった事は、まさに幸運と言えた。6月24日、新たに第11水雷戦隊に加わった初梅が小浜湾へ到着。
6月26日午前0時20分、小浜湾上空に1機のB-29が侵入し、午前1時15分まで数次に渡って機雷を投下していった。このうち1発は湾口付近の陸上に落下している。同日朝、快晴の空に浮かぶ朝陽を背にして、敵艦上機が小浜湾を襲撃するとともに12機のB-29が出現、小浜市内にサイレンが鳴り響き、急降下してくるF6Fグラマンに対し対空射撃で応戦。激しい戦闘を繰り広げた。被害・戦果ともに無し。戦闘終結後、僅かな燃料を隊内で均等に分け合うため艦の横付け作業が始まった。だがここで悲劇が起きてしまう。
午後12時36分、湾内錨地付近を移動している時、双児島近海で駆逐艦榎が触雷大破。その時の轟音は小浜市内にまで届くほどだった。菫と初梅により曳航されたものの擱座。最終的に36名の死者を出した。間もなく空襲警報を知らせるサイレンが鳴り響くとともに再度F6Fグラマンが来襲して対空戦闘。敵機の攻撃は執拗を極め、北上の上流から現れたグラマンが沈没しかけている榎に機銃掃射を加え、波間に漂う榎の生存者をも標的にした。
6月30日にも敵艦上機が襲来し、停泊中の駆逐艦隊に機銃掃射を浴びせている。
7月に入ると燃料850トンが割り振られたが、もはや組織的な訓練が出来ないほど燃料事情が逼迫し、機雷封鎖も手伝って小浜から出る事すらなくなった。7月11日、高間少将と新たに司令に着任した松本毅少将が雄竹を巡視。当日中にB-29は小浜湾に対して更なる機雷投下を行った。翌12日夜にはB-29の編隊が敦賀市へ焼夷弾による波状攻撃を実施。敦賀の空が真っ赤になっている様子が小浜湾からでも窺えた。
そして7月15日、軍令部機密第121316番電により第11水雷戦隊そのものが解隊してしまい、柿、菫、榎、楠、初梅ともども舞鶴鎮守府部隊所属の特殊警備艦に転属。ただ初梅のみ榎援護のため小浜湾に留め置かれた。
7月19日、雄竹は酒匂、菫、楠の3隻とともに小浜湾を出発。舞鶴までの道のりは完全に機雷封鎖されていて危険極まりなかったが、全速力で突っ切れば被害は抑えられるという事で強行突破を図る。途中酒匂が触雷したり、また同日中に29機のB-29が舞鶴沖合いに新たな機雷を敷設していたものの、全艦脱落せず無事舞鶴への回航に成功。7月中は日本海における米潜水艦の活動が不活発だった事も雄竹らに利した。その後は本土決戦に備えて防空砲台の役割を担った。もう外洋に出る機会は無いと判断されたのか、銃撃を受けて負傷中の浜崎長太郎予備少佐が楠と雄竹の艦長を兼業している。
7月29日と30日に舞鶴空襲が発生、米第38任務部隊から飛び立った敵艦上機が宮津湾や伊根湾の在泊艦艇を狙って攻撃し、駆逐艦初霜、海防艦沖縄、第2号海防艦が撃沈、潜水母艦長鯨や駆逐艦雪風、伊153、伊202、海防艦高根、第182号特設駆潜艇等が損傷する被害を受け、8月5日、7日、14日には舞鶴に対する更なる機雷投下が行われているが、幸い雄竹に損傷は出なかった。しかし遂に戦う機会は訪れず無傷で8月15日の終戦を迎える。
終戦時、連合艦隊に残された可動戦力は軽巡酒匂、雄竹を含む駆逐艦30隻、潜水艦54隻に過ぎなかった。戦争が終わってもまだ外地には600万人を超える邦人や軍属が取り残されており、彼らを帰国させるため生き残っていた艦艇は復員輸送に従事する事となる。
1945年10月5日に他の姉妹艦ともども除籍。無傷で生き残った雄竹は舞鶴にて特別輸送艦になるための改装工事を受け、武装解除や居住区及び厠の増設などを行う。10月13日、工事中の雄竹が撮影されているが、これが唯一現存する雄竹の写真となった。12月1日に特別輸送艦に指定。佐世保地方復員局所管となり、復員船最大の空母葛城や姉妹艦杉、樫、海防艦択捉、隠岐、伊王、生野、金輪等と復員輸送任務に臨む。
1946年2月10日、姉妹艦の欅や楓とともに鹿児島を出港、汕頭と厦門から邦人を収容し、2月19日に鹿児島まで移送した。復員輸送中に雄竹が襲われる事例があったようで支那方面に向かう艦船には小銃5丁程度の武装を渉外課が求めている。
復員輸送に目途がつくと特別保管艦となって他の艦艇と横須賀に係留。92隻の特別保管艦を4つに分け、雄竹は姉妹艦柿や海防艦宇久等と第4組に所属。これら特別保管艦は抽選によって米・英・ソ・中国の四ヵ国に振り分けられた。その結果、雄竹はアメリカが獲得する事になり、1947年7月4日に青島にてアメリカへ引き渡し、9月17日に標的艦として処分。
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