基本データ | |
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正式名称 | カンボジア王国 ព្រះរាជាណាចក្រកម្ពុជា Kingdom of Cambodia |
国旗 | |
国歌 | 王国 |
公用語 | クメール語 |
首都 | プノンペン |
面積 | 181,035km²(世界第68位) |
人口 | 約1500万人(世界第65位) |
通貨 | リエル(KHR) |
カンボジアとは、東南アジア、インドシナ半島にある立憲君主制国家である。
概要
カンボジアは全体として熱帯地域・モンスーン気候にあり、国土を南北にメコン川が貫いている。雨季と乾季が存在し、雨季にはメコン川の増水により支流のトンレサップ湖に水が逆流し面積が増大する。
トンレサップ湖北方には9世紀頃に成立したクメール王朝がその最盛期12~13世紀に建造したアンコール遺跡群があり、観光の大きな目玉ともなっている。
1970年から始まった内戦とその途中の約4年のクメール・ルージュの支配の影響が深刻であり、現在も経済的には後発開発途上国のままである。主な産業は第一次産業であり、内戦の影響で全土に埋まったままである地雷や不発弾が国土の開発を妨げる要因にもなっている。
宗教は歴史的にはヒンドゥー教が優勢だった時期が長いが、現在は上座部仏教が優勢であり、国教も上座部仏教となっている。国教が定められているが信教の自由は保証されている。
世界遺産に登録されたプレアヴィヒア寺院を巡ってタイとの間で国境紛争が発生した。散発的な戦闘と二度の大きな衝突が繰り返された。2013年には国際司法裁判所により周辺の未確定地域を含めてカンボジア領であるとの判断がくだされている。
野菜のカボチャの語源はポルトガル語でカンボジアを指すカンボジャが転訛したものであるとされる。
日系カンボジア人として猫ひろしや後藤忠政が有名。アンコールワットには鎖国前の江戸初期に訪れた日本人森本一房の落書きが残っている。
歴史
6世紀頃から北部にクメール人の王朝が成立し、下って9世紀にインドシナ半島南部の大半を占めるクメール王朝が成立した。
クメール王朝は強大であり、アンコールワットをはじめとする巨大寺院の建造や周辺への拡張政策を続けた。しかし、これらによって国力が疲弊しその領域からスコータイ王国(現在のタイ地域)やラーンサーン王朝(現在のラオス地域)が独立、13世紀頃には元の圧迫が始まり、14世紀にはタイで成立しスコータイ王国を併呑したアユタヤ王朝が西から圧迫を続け15世紀には首都アンコールを占領し、カンボジアは暗黒時代に入った。
この暗黒時代の期間にヨーロッパ人がカンボジアの地に進出し、日本との交易も始まった。
15~19世紀の暗黒時代全期間を通して西からはタイ、東からはベトナムが圧迫を加え続け、1841年には第二次泰越戦争の結果カンボジアをタイ・ベトナム両国の共有とする条約が結ばれた。
このように東西両面からの圧力を受け続けたカンボジアは、19世紀中盤フランスがインドシナの植民地支配に乗り出してくると、1863年にフランスとの間に保護国条約を結びフランスの保護国となった。フランス本国から総督が送られ、ラオスやベトナムともどもフランスの支配を受ける事になる。
19世紀後半にはフランス領インドシナの一部となり、20世紀に入ってからはタイ・仏領インドシナ戦争の結果シェムリアップ州などをタイに割譲されるなどした。
大東亜戦争末期の1945年3月9日、日本軍第38軍は明号作戦を開始し、仏領インドシナのフランス軍を攻撃。日本は欧米諸国の植民地支配から東アジアを解放する大義名分を掲げており、その一環であった。明号作戦に呼応する形で、3月13日にカンボジア国王のノロドム・シハヌークが独立を宣言。同時にベトナムとラオスも独立を宣言している。しかしカンボジアは早速ベトナムと領土を巡って喧嘩し始め、見かねた日本が仲裁。8月15日に協議の場を設ける事にした。当然ながら独立した三ヶ国は日本の崩壊は近いと認識しており、フランス軍が戻ってくる前に軍事力を得ようと画策した。日本軍は三ヶ国に武器を与えようとしたが、その大半をベトナムに持っていかれてしまい、カンボジアは軍備を増強できなかった。曲がりなりにも得た独立であったが、8月15日に日本が降伏した事によって取り消しになってしまい、1946年にはフランス保護下に逆戻りした。
フランスからの完全独立は1953年。当時の国王ノロドム・シハヌークは独立後王位を父に禅譲し、国民からの「独立の父」との絶大な人気を背景に政治家として活動を開始し、父の崩御後も王位につかず「国家元首」として行動した。5月14日には、日本国民の激励のためにシハヌーク殿下が訪日。昭和天皇は殿下を皇居に招き、お茶会でもてなしたと言われている。塗炭の苦しみに喘ぐ日本に心を動かされたのか、帰国後即座に対日賠償請求権の破棄を決めたという。間もなく誕生したシハモニ国王には「トーキョーちゃん」という愛称を付けた。1954年、カンボジアは対日賠償請求権を破棄。お礼に、日本側は技術面での支援を申し出ている。
隣国ベトナムで発生したベトナム戦争の影響で1960年代から国内が不安定化し始め、1970年にアメリカの軍事力を背景としてロン・ノルによるクーデター政権が成立。北ベトナムへの支援ルート破壊のため米軍と南ベトナム軍がカンボジア国内に侵攻し、ベトナム戦争はカンボジアに完全に飛び火した。
1975年に南ベトナム共和国が崩壊すると、カンボジアの実権を握っていた親米右派のロン・ノル政府も消滅し、代わってクメール・ルージュ(赤いクメール)のポル・ポト派がカンボジアを支配した。チャイナの支援を受けた共産党員であるポル・ポトが信じていたのは原始共産主義と呼ぶべきもので、彼は公務員、教員はもちろん商店主や医師をも排除したまったく新しい共産社会の建設を目指した。老若男女問わず働ける者はすべて農村に送り、都市の存在も否定し、新聞、ラジオ、テレビ、書籍まで不要とする政策に対し、反対したり疑問を持った者は拷問のすえに処刑され、都市から農村に送られた人々も食料不足、過酷な労働、貧弱な医療体制によって次々と倒れていった。1994年にプノンペン政府が国連に提出した報告書では、3年8ヶ月にわたるポル・ポト支配の間に、虐殺、虐待、飢餓、病気により331万人が死亡した、としている。[1]
1979年ベトナムの支援を受けた亡命カンボジア人によるカンプチア救国民族統一戦線が国土の大半を掌握、カンプチア人民共和国が成立するも、ベトナムの軍事力を背景とした政権でありベトナムの傀儡国家であるとして国際的には承認されなかった。この間追いやられたポル・ポト、シハヌークなどは連合し内戦は悪化の一途を辿った。なお、この時ベトナム側をソ連が、クメール・ルージュ側を中国、タイ、アメリカ、イギリスが支援し内戦は中ソ対立・米ソ対立の代理戦争のような状態に陥っていた。
1991年にパリ和平協定が成立し、20年間に及んだカンボジア内戦はようやく終結した。その後、国連による暫定統治(事務総長特別代表は日本人の明石康。また、自衛隊初参加のPKO)を経て1993年に立憲君主制のカンボジア王国が成立、シハヌークが王位に就いた。
2004年シハヌークは退位し息子のノロドム・シハモニが即位した。
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関連項目
脚注
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