ガダルカナル島とは、南太平洋に位置するソロモン諸島の島である。略称はガ島。
概要
ソロモン諸島を形成する島のひとつで、同諸島最大の島。現在はソロモン諸島政府が領有しており、首都のホニアラを擁する国の中枢的存在。人口の大半がメラネシア人、ポリネシア人で占められ、95%がキリスト教を信仰している。沿岸を除くほぼ全土が熱帯雨林に覆われており、その様相は「緑の砂漠」と称される。ガダルカナル島を語る上で外せないのが、大東亜戦争時に日米の激戦地となった事であろう。同島の争奪戦は戦争の転換点と呼ばれており、教科書にもその島名が記されている。
歴史
今でこそ絶海の孤島だが、およそ1万年前まではニューギニアと陸続きだったらしく、陸路で人類がソロモン諸島に到達。独自の文明や生活を築き上げていた。
1568年2月、スペインの探検家ドン・アルヴァロ・メンダナ率いる探検隊がソロモン諸島に来訪。ここで初めて西洋の歴史に登場する。サンタイザベル島に拠点を置き、ガダルカナル島を含む島々を半年かけて探索。古代ユダヤ王ソロモンの名から取って「ソロモン諸島」と命名した。1595年、メンタナは再度の調査を行ったが、マラリアに罹患して病死した。
18世紀頃からアメリカ、フランス、イギリスの探検家が来訪するようになり、19世紀前半には宣教師や捕鯨船員、貿易商が進出。経済の拠点へとなっていく。当時、欧州による太平洋地域の植民地化が推し進められており、ガダルカナル島も例外ではなかった。やがてイギリスとドイツが植民地化を巡って対立。最終的に両国は妥協し、ドイツが撤退する事で同意。ガダルカナル島はイギリスの植民地となった。しかしイギリスは本腰を入れての開発はせず、小さなヤシ園や石鹸工場が作られた程度に留まった。
ガダルカナル島が日本の歴史に登場したのは、大東亜戦争の時である。日本軍はオーストラリアを孤立・脱落させるべく米豪遮断作戦を企図。アメリカとオーストラリアの補給線を断てる拠点を探していた。そしてソロモン諸島のガダルカナル島が適していると判断、1942年7月に設営隊を上陸させて飛行場を作り始めた。そもそもソロモン諸島は飛行場建設に向いておらず、唯一ガダルカナル島のみ密林を切り開けば建造が来た。
ところが8月8日、予想より早いアメリカ軍の反攻が開始された。まだ十分な戦力を送っていなかった事もあり、完成寸前の飛行場は連合軍の手に落ちてしまう。これを受けて日本陸海軍は直ちに反撃を開始し、ガダルカナル島の争奪戦が始まった。両軍とも激しく戦い、潜水艦から戦艦まで沢山の艦艇が沈没。ガダルカナル島近海は鉄底海峡と呼ばれるほどだった。死闘の末、日本軍の補給線が次第に断たれ始めた。ガダルカナル島の将兵は飢餓に苦しみ、ガ島をもじって餓島と揶揄された。この惨状を受け、日本軍は12月に撤退を決意。撤退を連合軍に悟られないよう猛攻や陽動を積極的に実施し、1943年1月31日より撤退を開始。駆逐艦1隻を触雷で喪失したものの、陽動が実を結んで何の損害も無く撤退に成功。こうして日本軍はガダルカナル島から退却した。撤退までに24隻の戦闘艦と輸送船、800機以上の航空機を喪失し、約2万人の将兵が死亡した。一方で逃げ遅れた将兵もいたようで、1944年に伊26潜が運貨筒を運んで補給を行っている。
終戦後、しばらくアメリカ軍が駐留していたが、イギリスへと施政権が戻された。しかし原住民はアメリカの統治を望んでおり、反英活動が活発化。戦争で国力が疲弊していたイギリスは独立を承認し、1976年に自治政府を発足させ、1978年にソロモン諸島を独立させた。ガダルカナル島の首都ホニアラにはマライタ島民たちが出稼ぎに集まり、急速な経済発展を遂げる。しかし雇用を奪われるかもしれないと危機感を募らせた原住民はマライタの排斥運動を開始し、民族紛争へと発展した。
関連項目
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