トラヤヌス (Torajanus)/ インペラトル・カエサル・ディヴィ・ネルウァエ・フィリウス・ネルウァ・トラヤヌス・オプティムス・アウグストゥス(Imperator Caesar Divi Filius Marcus Nerva Trajanus Optimus Augustus、53年~117年)とは、ローマ皇帝で、ローマ五賢帝の二人目である。
概要
ネルウァの養子として、皇帝位を引き継いだ。スペインの騎士身分の出身という新しいタイプの皇帝であったが、ネルウァ在位中になおも続いたドミティアヌス暗殺後の混乱を収束させ、ローマ帝国に平和をもたらした。
賢帝トラヤヌス
スペインのイタリカ市の出身の騎士身分の家系にマルクス・ウルピウス・トラヤヌスとして生まれた。元老院議員になったのも父が最初で、この父親がウェスパシアヌスに重用され、息子のトラヤヌスも順調に出世コースを歩み、上ゲルマニア属州総督の地位にまでついていた。
反ドミティアヌス派とドミティアヌス派の対立と重なるトラヤヌス派とニグリヌス派の対立、およびスラの暗躍によるトラヤヌス派の勝利があったかどうかは不明だが、先代の時点でパトリキ貴族に列せられていたトラヤヌスはネルウァの後継者に養子として指名され、皇帝を継ぐ男となったのである。
ネルウァの没後、近衛隊長官のカスペリウスの処刑や、社会的に死んだとされるニグリヌスの後任としてシリアを一定期間おさめたトラヤヌスは、99年春にようやくローマにもどってくる。トラヤヌスは父と養父ネルウァを神格化させた後、自分同様次第に活躍の場を広げていったスペイン出身者ではなく、反ドミティアヌス派のパトリキ貴族を重用していった。トラヤヌスはネルウァと同様伝統に配慮した政策をとったのである。
一方で、執政官に小アジア出身のソシウス・セネキオ、イタリア出身のコルネリウス・パルマというパトリキ貴族ではない若者を登用した。トラヤヌスは政務の初期から中堅層にこのような新興勢力を取り上げ、世代交代を柔軟に行えるようにしたのであった。
征服王トラヤヌスの死
トラヤヌスはさらに、ドミティアヌス代以来の躍進著しいダキア人の攻勢に対し、遠征を始めた。ダキア王デゲバルスの反抗は激しく、苦戦したが106年についに勝利し、ドナウ地方の軍事的不安定さを解消したのだ。しかしダキアの属州化は防衛線の延長を招き、マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝の時代に伸びた国境線の負の問題が噴出することとなる。
このように征服王と呼ばれたトラヤヌスの治世にローマ帝国は最大版図を築き、アルメニア、メソポタミア等東方に拡大。しかし次第に拡大に無理が生じユダヤ人の反乱が相次ぐ。このような状況下健康を害し、ローマに帰還中、属州キリキアで世を去った。
トラヤヌスの征服活動は内政の充実を反映させたもので、帝国各地から身分的上昇によって元老院議員の拡充が生じていた。しかし、トラヤヌスが没する際、本当に養子縁組が行われたかどうかも疑わしいほど、円滑にハドリアヌスに帝位を継承できなかったことが、次代に混乱を招くこととなった。
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関連項目
- 世界史
- ローマ帝国
- ローマ五賢帝
- ネルウァ
- トラヤヌス
- ハドリアヌス
- アントニヌス・ピウス
- マルクス・アウレリウス・アントニヌス
- ルキウス・ウェルス
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