ポツダム宣言とは、第二次世界大戦末期の1945年7月26日に発表された、連合国が大日本帝国に対して降伏を要求する宣言である。同年8月14日に日本がこれを受諾したことで第二次世界大戦は終結に向かった。
無条件降伏/条件付降伏等々いろいろと解説は可能だが、当時の外務省訳は比較的平易で長文でもなく、現代の我々でも十分読める。解説を求める前に、まず原訳文(#本文の和訳例)に目を通して自分で考えてみることを勧める。
策定・発表
「ポツダム会談」の期間中に、開催地であるポツダムにおいて発表された。アメリカ合衆国・イギリス・中華民国の各国首脳(ハリー・S・トルーマン、ウィンストン・チャーチル、蒋介石)の名義において宣言されている。
この「ポツダム会談」は1945年7月から8月にかけて、ドイツのポツダムにあるツェツィーリェンホーフ宮殿にアメリカ・イギリス・ソ連など連合国を構成する主要国の要人が集まって第二次世界大戦の戦後処理を話し合ったものである。
だがこのポツダム会談で各国で話し合ってポツダム宣言の内容を決めたというよりも、ほとんどの部分をアメリカ単独で策定し、イギリスや中華民国はそれを確認して少々の修正点を加えつつも了承したというのが実情らしい。実際、宣言の署名者に名前を連ねている蒋介石はポツダム会談には参加していない。
なお、ポツダム会談で話し合って決定したその他の内容は「ポツダム協定」としてまとめられている。こちらもポツダム宣言と名前が似ているので取り違えやすい。
具体的内容
本文の和訳例[1]
- われら合衆国大統領、中華民国政府主席およびグレート・ブリテン国総理大臣はわれらの数億の国民を代表し協議のうえ日本国に対し今次の戦争を終結するの機会を与うることに意見一致せり
- 合衆国、英帝国および中華民国の巨大なる陸、海、空軍は西方より自国の陸軍および空軍による数倍の増強を受け日本国に対し最後的打撃を加うるの態勢を整えたり
右軍事力は日本国が抵抗を終止するに至るまで同国に対し戦争を遂行するの一切の連合国の決意により支持せられかつ鼓舞せられ居るものなり - 蹶起せる世界の自由なる人民の力に対するドイツ国の無益かつ無意義なる抵抗の結果は日本国国民に対する先例を極めて明白に示すものなり
現在日本国に対し集結しつつある力は抵抗するナチスに対し適用せられたる場合において全ドイツ国人民の土地、産業および生活様式を必然的に荒廃に帰せしめたる力に比し測り知れざるほど更に強大なるものなり
われらの決意に支持せらるるわれらの軍事力の最高度の使用は日本国軍隊の不可避かつ完全なる壊滅を意味すべく又同様必然的に日本国本土の完全なる破壊を意味すべし - 無分別なる打算により日本帝国を滅亡の淵に陥れたる我儘なる軍国主義的助言者により日本国が引続き統御せらるべきか又は理性の経路を日本国が履むべきかを日本国が決意すべき時期は到来せり
- われらの条件は左の如し
われらは右条件より離脱することなかるべし
右に代る条件存在せずわれらは遅延を認むるを得ず - われらは無責任なる軍国主義が世界より駆逐せらるるに至るまでは平和、安全および正義の新秩序が生じ得ざることを主張するものなるを以て日本国国民を欺瞞しこれをして世界征服の挙に出づるの過誤を犯さしめたる者の権力および勢力は永久に除去せられざるべからず
- 右の如き新秩序が建設せられかつ日本国の戦争遂行能力が破砕せられたることの確証あるに至るまでは連合国の指定すべき日本国領域内の諸地点はわれらのここに指示する基本的目的の達成を確保するため占領せらるべし
- カイロ宣言の条項は履行せらるべく又日本国の主権は本州、北海道、九州および四国ならびにわれらの決定する諸小島に局限せらるべし
- 日本国軍隊は完全に武装を解除せられたる後各自の家庭に復帰し平和的かつ生産的の生活を営むの機会を得しめらるべし
- われらは日本人を民族として奴隷化せんとし又は国民として滅亡せしめんとするの意図を有するものに非ざるもわれらの俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰加えらるべし
日本国政府は日本国国民の間における民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障礙を除去すべし
言論、宗教および思想の自由ならびに基本的人権の尊重は確立せらるべし - 日本国はその経済を支持しかつ公正なる実物賠償の取立を可能ならしむるがごとき産業を維持することを許さるべし
ただし日本国をして戦争のため再軍備をなすことを得しむるがごとき産業はこの限りにあらず
右目的のため原料の入手(その支配とはこれを区別す)を許可さるべし
日本国は将来世界貿易関係への参加を許さるべし - 前記諸目的が達成せられかつ日本国国民の自由に表明せる意思に従い平和的傾向を有しかつ責任ある政府が樹立せらるるにおいては連合国の占領軍はただちに日本国より撤収せらるべし
- われらは日本国政府がただちに全日本国軍隊の無条件降伏を宣言しかつ右行動における同政府の誠意につき適当かつ充分なる保障を提供せんことを同政府に対し要求す
右以外の日本国の選択は迅速かつ完全なる壊滅あるのみとす
日本側の検討
この宣言は外交ルートを通じて正式に日本政府に渡されることはなかったが、発表から間もない頃から短波放送で日本に向けて流され始め、また米軍爆撃機からは和訳されたものがプロパガンダビラとしても散布された[2]。
これを受けて、日本政府はこの宣言の受諾に関する検討に入った。国家の主権、領土、国体、天皇制を維持できるのか否かなどについて文面をよく吟味したようだ。
各国大使などの外務省の高官がポツダム宣言を検討した上で本国に助言している電信記録も存在している。
「ドイツに対するものと比べて明らかに異なる。詳細に条件を述べたうえである程度の保障を与えてくれているようだ。皇室や国体については触れていないが、日本の主権と、一定の領土を認めている」
「『日本国政府がただちに全日本国軍隊の無条件降伏を宣言』することを求めると書いてあるが、これは『軍隊を無条件降伏させるのであって、我が国自体が無条件降伏することを求めるのではない』、という印象を与える。こちらの面子を立てようと熟慮した形跡が読み取れる」
「これに対して、完全敗北したドイツは国土や首都を分割されて各国の軍隊に占領され、無政府とされ、主権も奪われている。もしポツダム宣言を受け入れずに完全敗北した場合は日本もドイツと同様の憂き目に遭う可能性がある」
「スターリンもこの内容を当然把握しているはずであり、ポツダム宣言に対する我が国の対応如何によってはソ連も我が国に勧告を突き付けてくるであろう」
「加瀬公使の考察は極めて妥当であり本使も全面的に同感である。ポツダム宣言から解釈して、講和条件はドイツのそれよりも緩和されており、一日でも早く連合国に日本の平和の意思が伝えられればそれだけ条件の緩和の度も増すであろう」
「逆に、政府軍部の決意が成らずに日時を空費すれば、日本全土焦土と化し帝国は滅亡の一途を辿らざるを得ないであろう」
「いかに条件が緩和されているといっても、多数の戦争責任者を出すことは避けられないであろう。しかし今や国家は滅亡の一歩手前であり、戦争責任者が愛国の士として運命を受け入れ帝国の犠牲者となるのもまたやむを得ない」
だが内容検討や政府軍部内の意見統一に時間を取られ、またソ連に対して連合国との和平交渉仲介を持ちかけるなどしていたこともあり、結果的に受諾の決断は遅れていった。
なお、上記の電信に登場する東郷外務大臣や佐藤駐ソ連大使は、政府の決定に従ってソ連への和平仲介依頼を試みていたもののソ連側がこの依頼に応じる可能性については否定的に考えていたという。
受諾へ
8月8日、昭和天皇より東郷外務大臣に対し「速やかに戦争を終結させたい」との言葉あり。
同日、ソ連が日本に宣戦を布告。
8月9日、未明にソ連が侵攻開始。
同日朝、ソ連参戦の報告を受けた直後の昭和天皇より木戸幸一内大臣に対し、鈴木貫太郎総理大臣との戦争終結に向けた相談の指示。
同日中に御前会議開始。
同日午前11時2分、長崎に原子爆弾投下。
8月10日未明、御前会議において昭和天皇がポツダム宣言受諾の決断を表明(「ご聖断」)。
同日朝、日本はポツダム宣言の条件付き受諾についてスイス・スウェーデン外交官等を通して連合国に通達(ただしその緊急電信には前日の日付「昭和廿年八月九日起草」と記してある[5]。会議が夜半を回ったため日付が変わっていることを失念したか、あるいは前日のうちから準備はしていたものか)。その条件とは天皇の統治権の保障であった。
8月14日、日本政府は正式にポツダム宣言の受諾を連合国に通告。昭和天皇による終戦の詔書が発布された。また日本政府は国民に向けて、翌日に重大な発表があることを告知した。
8月15日、「玉音放送」によって、大日本帝国の臣民にポツダム宣言を受諾した事実が公表された。
日本軍内部にはポツダム宣言の受諾に納得しない者も数多く居り、玉音放送前後には「宮城事件」に代表される反乱事件も散発した。すべて鎮圧されたが、犠牲者も出ている。
9月2日、東京湾上のアメリカ合衆国海軍戦艦「ミズーリ」の甲板において、降伏文書に調印。
おまけ
よく教科書やテレビ番組では「ポツダム宣言を受諾し、日本は無条件降伏した」と言われるが、実のところそれは誤りである。ポツダム宣言には国体と天皇制の存続が認められていて、れっきとした有条件降伏だったのだ。一方で、国そのものではなく陸海軍に対する無条件降伏は求められており、これが混同の要因と思われる。
無条件降伏とは文字通り、何の条件も付けずに降伏する事である。つまり戦勝国のおもちゃになる事を意味し、国民を虐殺されようが国を滅ぼされようが文句を言えない地獄行きの選択だったのだ。天皇制の護持が絶対条件の日本にとって無条件降伏なぞ到底受け入れられるはずがなく、最後の一兵まで戦う決意を抱かせた。実際トルーマンの手記に「無条件降伏では絶対に日本は降伏しない(意訳)」と残されている。
ところが無条件降伏の推進者だったルーズベルトが病死し、後任の大統領にトルーマンが就く。先述の通りトルーマンは無条件降伏ではダメだという事を知っていたため、ポツダム宣言に天皇制と国体の存続を認める一文を追加。原型となったカイロ宣言では無条件降伏を求めていたが、それをわざわざ有条件に変えたのだ。トルーマンの目論見通り、日本は8月14日に受諾した。
関連項目
米国及英国に対する宣戦の詔書→ポツダム宣言→大東亜戦争終結の詔書(玉音放送)→新日本建設に関する詔書
脚注
- *JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B02032979100、大東亜戦争関係一件/戦争終結ニ関スル日蘇交渉関係(蘇連ノ対日宣戦ヲ含ム) 第二巻(A-7-0-0-9_55_002)(外務省外交史料館)
- *国立国会図書館デジタルコレクション - 〔米軍投下ビラ〕(コマ番号7~8。「マリヤナ時報 號外 三國共同宣言發表 日本に對し戰爭終結を提議 荒廢か平和か决断の秋至る」)
- *ポツダム宣言受諾に関する交渉記録 | 日本国憲法の誕生 (国立国会図書館)
- *同上。
- *同上。
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- ページ番号: 5297143
- リビジョン番号: 3180335
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