ルンガ沖夜戦とは、大東亜戦争中の1942年11月30日に生起した日本海軍vsアメリカ海軍の戦闘である。
連合軍側の呼称はタサファロング沖海戦。戦闘自体は日本側が勝利したが、輸送は失敗した。
概要
背景
11月13日から14日にかけて生起した第三次ソロモン海戦の間隙を突き、増援の第38師団を乗せた輸送船団がガダルカナル島に到着したものの、米軍機の攻撃を受けて重火器や食糧類が海没。ほぼ丸腰で上陸させられる形となってしまった。これはガ島周辺の制海権・制空権が失われつつある事を如実に示していた。このままでは補給線を断たれ、現地の将兵が飢餓に苦しむ羽目になる。
そこで帝國海軍は輸送船での輸送を諦め、高速かつ戦闘能力がある駆逐艦を投入。物資を満載したドラム缶を数珠繋ぎにし、闇夜に紛れてガ島に揚陸。それを待っていた陸軍兵が回収する算段である。決死の輸送任務を指揮するのは、勇将で知られる第二水雷戦隊司令・田中頼三少将。参加する駆逐艦は陽炎、巻波、長波、黒潮、親潮、高波、江風、涼風の8隻であった。11月28日、親潮、黒潮、陽炎、巻波は第一輸送隊としてタサファロンガに揚陸。江風と涼風は第二輸送隊としてセギロウ揚陸が命じられ、残りの艦は輸送を支援する警備隊に編入。田中少将が座乗する旗艦は長波に定められた。
旗艦長波と新鋭艦高波以外の艦は予備魚雷を降ろしてスペースを空け、そこに物資を満載。少しでも輸送量を増やそうと涙ぐましい努力を行った。
経過
11月29日22時30分、旗艦長波に率いられてショートランドを出港。航路を偽装するためひとまず東進し、ガ島北方で南下するルートが取られた。この「東京エクスプレス」と呼ばれる駆逐艦を使った輸送をアメリカ側も警戒しており、K・H・ライト少将率いる第67任務部隊を派遣。戦力は重巡4隻(旗艦ミネアポリス、ニューオーリンズ、ペンサコラ、ノーザンプトン)、軽巡1隻(ホノルル)、駆逐艦6隻(モーリー、パーキンス、ドレートン、フレッチャー、ラードナー、ラムソン)であり、日本側を遥かに凌駕していた。アメリカの動きを第八艦隊が察知し、同参謀長から「本日昼間、ルンガ岬に12隻の駆逐艦と輸送船9隻入泊。警戒に関し留意されたし」との緊急電が届いた。田中少将は「今夜会敵の算大なり」と各艦に通達し、戦闘準備を促した。翌30日夕刻に輸送隊は高波を先頭にした単縦陣を組んだ。そして夜になり、エスペランス岬が見えてくると、警戒のため高波が先行。
輸送隊は19時40分にガ島ルンガ岬沖に到達。各隊が揚陸地点に赴き、ドラム缶の投入準備に取り掛かった。21時6分、揚陸作業中の日本艦隊を第67任務部隊が発見。6分遅れて高波も接近するアメリカ艦隊を発見し、見張り員が絶叫した。21時15分、高波から旗艦長波へ「駆逐艦7隻発見」と伝えられる。田中少将は決断を迫られた。揚陸か?戦闘か?敵艦はグングンと距離を詰めてきている。1分後、田中少将は「揚陸やめ!戦闘!」と叫んだ。各艦は一斉に作業を中止し戦闘体勢に入るが、既に距離6000mにまで肉薄されており、奇襲に等しい状態だった。
21時20分、第67任務部隊の前衛駆逐艦が20本の魚雷を発射。ルンガ沖夜戦が始まった。幸い魚雷は1本も命中しなかったが、即座に巡洋艦から砲弾が飛んできた。長波は12.7cm主砲で反撃したが、数発の至近弾を受けて軽微な損傷を負う。同時に田中少将は全軍突撃を命じ、全駆逐艦が30ノットの速力で敵に向かった。他の艦より前に出ていた高波は一歩先に反撃を開始、敵駆逐艦2隻に向けて砲雷撃を行って中破に追いやった。しかし砲撃の光で位置を特定され、21時27分に星弾が発射された。周囲は昼間のように照らされ、高波は第67任務部隊から集中攻撃を受ける。命中弾は50発に及び、浮いているのが不思議だった。ミネアポリスの艦橋にいたライト少将は満足げに微笑んだ。この攻撃で多数の駆逐艦を一網打尽に出来たと思い込んでいたのだ。だが実際は満身創痍にしたのは高波だけだった。
その頃、高波が発射した魚雷2本が旗艦ミネアポリスの艦首に直撃。その隙を突いて黒潮、江風、親潮、長波も一斉に雷撃。放たれた34本の酸素魚雷は、行き足を止めたミネアポリスを回避しようと右回頭したニューオーリンズの左舷艦首に命中、弾薬庫に引火した。21時39分にペンサコラも被雷し、機関室が浸水して大炎上。そしてノーザンプトンにも2隻が命中し、機関室に大穴を開けられて沈没していった。
田中少将は大破した高波を残して一旦戦域離脱を命令。その後、親潮と黒潮が高波の救援に向かった。23時頃、漂流する高波を発見。艦を横付けしたところで敵の艦影らしきものが接近。既に魚雷を撃ち尽くしていた2隻は救助を断念、高波は自沈処分された。小倉艦長以下71名が戦死、139名が行方不明となった。残った7隻の駆逐艦は帰路につき、約9時間後にショートランドへ帰投した。こうして54本の魚雷が使用されたルンガ岬沖夜戦は終結した。
結果
戦闘の結果、日本側の被害は駆逐艦高波沈没。アメリカ側の被害は重巡ノーザンプトン沈没、重巡ミネアポリス、ペンサコラ、ニューオーリンズ大破、駆逐艦2隻中破と日本の圧勝であった。しかし肝心の輸送には失敗したため、田中少将は輸送任務の指揮を怠ったとして非難の矢面に立たされた。1ヵ月後、軍令部出仕となり、二度と戦線復帰出来なかった。一部では左遷と囁かれたとか。それでも12月3日に勝利として臣民に発表され、山本五十六大将は第二水雷戦隊に対して感状を贈った。
一方、この敗報を聞いたアメリカ海軍のハルゼー提督は開いた口が塞がらないほどショックを受けた。また帝國海軍の辛らつな評価とは対照的に、アメリカ側は田中少将の指揮を絶賛。不屈の猛将と呼んでいたとか。
関連項目
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