兼六園単語

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兼六園とは、石川県金沢市にある日本庭園である。定特別名勝日本さくら名所100の1つ。

兼六園の特徴

兼六園
特別名勝
日本さくら名所100
兼六園
の兼六園の様子
面積 114,435.65[1]
木数 8,750本[2]
木の種類 54科183[3]
築庭者 前田綱紀前田斉広、前田斉泰など
築庭年 1676年~1860年

茨城県水戸市にある偕楽園岡山県岡山市北区にある後楽園と並んで日本三名園の一に数えられ、にわずか36ヶ所しかないの特別名勝定されている北陸地方を代表する勝地である。[4]

金沢徴ともいえる徽軫灯籠(ことじとうろう)がある庭園としても全的に有名で、北陸地方で屈人気を誇る観光スポットである。また、シーズンを通して様々な顔を見せてくれる庭園としても知られ、特に晩季にしか見られないりをした唐崎(からさきのまつ)の風景は徽軫灯籠の風景と並んで人気が高く、こちらも金沢徴する風景となっている。
また、季は季はカキツバタやつつじ、季は紅葉風景が楽しめ、特に季は日本さくら名所100に選定されるほど高い評価を得ている。

加賀前田の居である金沢に隣接しており、兼六園はその庭として重宝された。また、園周辺には定重要文化財で13代前田斉泰(まえだなりやす)が君の院の隠居所として建てた成閣(せいそんかく)や、金沢の地名の由来となった金城霊沢(きんじょうれいたく)、菅原道真とし学問必勝の神社として地元で人気金沢神社石川県ゆかり美術品を展示する石川県美術館などが隣接している。
なお、金沢とはお通りを挟んで隣接するが、石川門からお通りを渡る石川を介して兼六園と繋がっており、行き来することができる。

兼六園の一番の特徴は遊式庭園[5]を基調としており、園最大の池にして中心部に位置するヶ池を軸にして遊することができる。

兼六園の歴史[6]

兼六園の草創

兼六園の起こりは江戸時代にまでさかのぼる。

1583年(正11年)、前田利家加賀初代として金沢に入して間もない頃、小立野台地につづく坦な土地に、利の菩提寺である宝円寺と祈祷所の波着寺(はちゃくじ)が建立された。建立から約30年後の1620年(元和2年)、7人の老臣の屋敷として使用するために両寺院は別の場所へ移転となる。

前田利家から2年後となる1601年(慶長6年)、2代目将軍徳川秀忠にあたる珠(たまひめ)が前田利常(まえだとしつね)に輿入れする。この時にはるばる江戸から随行していた従者300人のために「長屋」と呼ばれる屋敷が設けられた。この設けられた場所こそが現在観光客らで賑わっている兼六園の店通りである。この長屋は別名「江戸町」と称され、現在店通りのように賑わいをみせた。

1622年(元和8年)、珠は24歳の若さで急逝すると、江戸町の住人たちは江戸へと帰還。長屋も取り壊されることとなった。
1659年(万治2年)、長屋跡地に建築や営繕を担当する役所、作事所が移築された。

兼六園の前身、蓮池庭が築庭

1676年(延宝4年)、5代前田綱紀(まえだつなのり)が作事所を再び内に移築し、代わって自身の別荘を建ててその周辺に庭園を造成した。これがのちに「池庭(れんちてい)」と呼ばれ、兼六園の造成はここから始まることとなる。
ちなみに「池庭」は兼六園の前身名として現在までに一般的に呼ばれている名称であるが、造成当時は「池の上御露地(はすいけのうえおろじ)」と呼ばれ、来した客人や重臣たちの接待、あるいは観などの宴を楽しむ清遊の場として大いに活用され、来庭した人を魅了した。

かしここで加賀を揺るがす大災難が降りかかる。1759年(宝9年)、1万軒以上が焼失する宝の大火が発生する。金沢本丸、二ノ丸、三ノ丸などを焼失、池庭も一部が焼失する被害を受けた。

翌年に幕府に願い出て、金沢は1760年(宝10年)~1788年(天明8年)の間に段階的に修築、再建された。池庭も1774年(安永3年)~1776年(安永5年)にかけて夕顔亭、内亭が造営され、再造成が進んだ。

藩主によって移り変わる千歳台、「兼六園」の登場

池庭上部には「千歳台(ちとせだい)」と呼ばれる坦な地が広がっていた。現在の成閣がある場所である。この土地は代々のの思惑によってさまざまな造成や建築、取り壊しが行われ、まぐるしく変遷していった。

1792年(寛永4年)、11代前田治脩(まえだはるなが)は校「明倫堂(めいりんどう)」と「経武館(けいぶかん)」を千歳台に創建します。治脩の後を継いだ12代前田斉広は、先述の校を別の場所へ移転させ、1822年(文政5年)にその跡地に「沢御殿」を造営。自身の隠居所とした。その沢御殿は建約4000部屋数は200をえる爛な御殿だったとされている。
そして、沢御殿の園庭として造成された庭を「兼六園」に命名したのであった。当時は池庭と兼六園の2つの庭が存在し、両庭には門塀で隔てられていた。新しく造成された兼六園には辰巳を取り入れて曲を作り、石橋をかけた。

ちなみに命名者は、寛政の革の中心人物として中学校歴史教科書にも登場するほど有名なあの松平定信で、実際に沢御殿を訪れて殿内にある書院から見た庭の色を見て命名したとされる。ただ、時期としては革に失敗し、1793年(寛永5年)に幕府老中を解任されたのちに本拠地の白河の内政に専念してから約20年後のときのことである。
石川生活工芸ミュージアム(旧 石川県立伝統産業工芸館)には、この松平定信揮毫の額が常設展示されている。[7][8]

兼六園の完成と成巽閣の造営

斉広後、13代となった前田斉泰(まえだなりやす)は沢御殿を取り壊し、ヶ池を拡したり、姿の良い木を植えたりした。この時に造成されたのが栄螺山(さざえやま)で、ヶ池拡の際に出た捨土を盛って作られたとされる。1860年(万延元年)には池庭と兼六園を隔てていた門塀を取り壊し、合併する形で兼六園を拡、整備した。
また1863年(文久3年)にはである院の隠居所として成閣を造営。ほぼ現在の兼六園の形となった。

明治維新後の兼六園、市民に一般開放へ

明治維新を迎えると、金沢によって陸軍省の所管となる。一方兼六園は1874年(明治7年)に市民に一般開放され、それに合わせて多くの店が出店。現在の兼六園横の店通りの礎を築いたのであった。1880年(明治13年)には、西南戦争者を慰霊するために明治紀念之標(日本武尊像)が建立された。

一方で、明治の初め頃に園内にあった時雨亭と舟之御亭(ふなのおちん)が取り壊されている。

戦時中の兼六園、国の名勝、特別名勝指定へ

1922年(大正11年)、兼六園はの名勝にされた。しかし、昭和に入ると兼六園も第二次世界大戦を受けることとなる。
からくも終戦の年となった1945年6月頃に、政府示で軍用航空機の燃料の材料とするために兼六園のから松脂が採取される。この時に傷つけられた現在でも見ることができる。

そして戦後に兼六園は大きく栄転することとなる。1985年(昭和60年)に兼六園はの名勝からの特別名勝へと昇格を受ける。特別名勝はいわば「定」の名勝版で、全36ヶ所ある特別名勝の一として名を連ねることとなった。

現代の兼六園、そして未来へ・・・

平成に入ると、1994年(平成6年)に「長谷池周辺整備事業」の一環として明治時代に取り壊された時雨亭と舟之御亭が復元された。さらに二筋の流れを持つ庭園が整備され、兼六園は一層広がりを持つ庭園へ生まれ変わったのであった。

2015年(平成27年)には隣接する金沢で玉院丸庭園の復元が了。そして2020年(令和2年)8月には金沢多門・多門の復元が了し、尾山神社から金沢を経て兼六園に至る回遊観光ルート完成した。

兼六園の名前の由来[9]

「兼六園」の名前には由来があり、元ネタ中国時代の書物『陽名園記(らくようめいえんき)』に記載されている六勝の考え方から来ている。
六勝は「大(こうだい)」、「邃(ゆうすい)」、「人力(じんりょく)」、「古(そうこ)」、「(すいせん)」、「眺望(ちょうぼう)」の6つの要素のことで、具体的には以下の要素を表す。

大きく広々としているさま。
静寂で深いさま。
人力 人の手が行き渡っているさま。
古びていて趣があるさま。
があるさま。
眺望 らしがあるさま。

先述の書物には、

う園(えんぽ)の勝 相兼ぬるわざるは六 大を務るは邃少なし 人力勝るは古少なし 多きは眺望難し の六を兼ねるは 惟園のみ

【現代訳】
庭園では六つのすぐれた観を兼ね備えることはできない。広々とした様子(大)を表そうとすれば、静寂と深さ(邃)が少なくなってしまう。人の手が加わったところ(人力)には、古びた趣(古)が乏しい。また、や池など()を多くすれば、遠くを眺めることができない。この六つの観が共存しているのは園(こえん)だけだ。

という記述がある。ちなみに園は中国にある庭園の1つで、この記述はその園を紹介する際に登場しており、この六勝を兼ね備えているのはその園だけだと結んでいる。兼六園はその園に匹敵するほど素晴らしい六勝を兼ね備えているという理由で命名されたとされている。

兼六園の名所

兼六園は上述の兼六園の由来の通り、さまざまな名所を兼ね備えている。全的には徽軫灯籠や唐崎が有名だが、このほかにもさまざまな名所が点在する。ここではその名所について兼六園公式サイト掲載の見どころマップexitを参考にして紹介する。

徽軫灯籠(ことじとうろう)・虹橋

兼六園で一番有名なランドマークにして金沢徴的スポット。高さ2.67mの籠で、もともと池の面を照らす雪見籠が変化したものであると考えられている。籠はヶ池の北に位置し、背後に見える内亭と向きが並行するようにして池にせり出すように立っており、手前にあるともに明媚な色を演出している。徽軫灯籠の名前の由来は籠の足の形状が元となっており、琴の糸を支える琴柱とそっくりな形状であったことからこの名が付いたとされる。
徽軫灯籠の足は、土手側の片足が折れていることが全的に知られているが、これがいつどのような過程で折れてしまったのか、また折れた足はどこへ行ってしまったのかは未だに解明されておらず、に包まれている。
ただ、この足の不均衡具合が逆に庭園の趣に磨きをかけ、周りの色とも違和感なく一体化している。

一方手前にあるヶ池から流れる曲に架かる小橋で、その形状がに似ていることからこの名が付いた。また、琴の形状にも似ていることから別名「琴(ことはし)」とも呼ばれている。は実際にわたることができ、徽軫灯籠の撮スポットとしても人気である。

唐崎松(からさきのまつ)

兼六園のもう一つのランドマークスポット。晩11月から季にかけては色を堪できる人気スポット。間の無料開放時はライトアップされ、幻想的な色を見せてくれる。また、対に位置する栄螺山頂上からもよく見え、晴れた日には面に逆さ唐崎が映る。これが季になると逆さりとなり、ライトアップの際は言葉に表せないほどの絶景となる。

このはもともと江戸時代末期に13代前田斉泰が近江の唐崎にある琵琶湖畔の黒松から種子を取り寄せて育てたものである。このは、近江の1つになっている滋賀県大津市の唐崎神社に植えられているから種を採取したものであるとされている。

霞ヶ池(かすみがいけ)

兼六園中央部に位置する園内最大級の池。総面積5800、最大深1.5mまであり、池にはなどの生物が棲みついている。池中央部には蓬莱という孤があり、沿部には内亭、徽軫灯籠、、唐崎、虎石が配置されている。この池はもともと現在のような広大な池ではなく、13代前田斉泰が庭する際に拡されたとされる。

兼六園はこのヶ池を軸に遊式庭園が形成されている。

眺望台

園の北側、に程近い場所にある展望台。六勝のうちの「眺望」を具現化した名所で、眼下には金沢市や卯山、医王山を見渡すことができる。
快晴の日には日本海能登方面まで見えることがある。

眺望台下の土手にはやつつじ、サツキが植えられており、季節によってさまざまな風景を見せてくれる。

桜ヶ岡(さくらがおか)

坂口~徽軫灯籠の間にある花見エリアで、その名の通り毎年になるとじゅうたんが広がり、訪れた人々を魅了している。

雁行橋(がんぎょうばし)

ヶ池から流れる曲にはをはじめさまざまなが架けられているが、その中でひと際情のある石橋として挙げられるのがこの雁行である。
この武で荒々しい三叉は、その見たが雁が列をなして飛んでいるように見えることからこの名前がついたとされる。また、の甲羅模様に似ていることから別名「」とも呼ばれている。

園が一般開放された頃は通行することができ、「を渡ると長生きできる」という言い伝えもあって人気の名所であったが、現在では石の劣化が進んでしまっていることと文化財保護の観点から一般通行を一切禁止している。

内橋亭

ヶ池のほとりに建ち、徽軫灯籠のちょうど後ろに見える建物は内亭で、元々は池庭の馬場見所[10]に建っていた。1874年(明治7年)に現在の場所に移設される。

徽軫灯籠と向きが行になるように立っており、ヶ池や徽軫灯籠の風景と見事に調和している。亭内は売店兼軽食屋となっており、実際に中に入って食事をしながらヶ池の色を楽しむことができる。

 

栄螺山(さざえやま)

亭の後方にそびえたつ山は栄螺山で、前田成泰がヶ池を拡した際に出た捨土で盛られた築山である。高さ9m、周囲約90mある山で、その名の通り頂上へのがさざえのがらのように時計回りでとぐろを巻いていることからこの名がついたとされる。頂上には避亭のからかさ亭が配されている。

頂上からはヶ池と唐崎が一望でき、晴れた日には面に逆さ唐崎が映る。これが季のライトアップの際は逆さりとなり、絶景が広がる。

親不知(おやしらず)

栄螺山の眺望ポイントのすぐ下にある岩場のような親不知と呼ばれ、古来から険として名高い富山県新潟県付近にある親不知から命名されている。ヶ池を一番間近で見られることができる名所で、が群がる様子を常に見ることができる。

写真では、ここから手前側に行くと内亭の前にたどり着く。

瓢池(ひさごいけ)・翠滝(みどりたき)・海石塔

ヶ池のほかにもう一つ園内にある池が瓢池で園内で2番の大きさを持つ。
この辺りは兼六園の前身である旧 池庭の区域となり、前田綱紀によって造成された。宝の大火による被害で一時は荒してしまうものの、などを加えて再造成されて復活を遂げた。

そのは瓢池に注ぐ大滝で、高さ6.6m、幅1.6mあるである。量が多いため、の音を充分に楽しむことができ、場は納涼スポットとなっている。

また、瓢池の中島には高さ4.1mのが立っている。このの由来には複数の言い伝えがあり、3代前田利常が13層からなる石を作らせて金沢庭園に設置し、その後一部をこの場所に移設したという説や、豊臣秀吉朝鮮出兵の際、熊本城で有名な加藤清正朝鮮から持ち帰り、秀吉に贈呈。その後秀吉前田利家に贈呈してこの場所に安置されたという説などがある。

夕顔亭

こちらも池庭時代から存在した御亭。1774年(安永3年)に建てられ、現在の瓢池東に配された。名前の由来は茶室貌から来ており、茶室の壁にしつらえた夕顔の透かし彫りから名付けられたとされる。

日本最古の噴水

兼六園の名所として忘れてはならないのが兼六亭付近にある噴水である。この噴水日本最古の噴水であるとされ、シンプル上へ噴き上げている様は涼しげで情がある色となっている。
この噴水ポンプなどのを一切使っておらずヶ池との高低差を利用した位置エネルギーだけで噴き出している。

根上松(ねあがりまつ)

唐崎と並んで人気が高いのがこの根上である。地上2mにまでせり上がった根っこはまさに荒々しい迫を体感でき、の生命を感じさせる大となっている。

この根上の形状にさせるまでの栽培方法もユニークで、の根を深く覆って盛土にし、成長させた後に盛土部分を取り除いて根っこを露出させたとされる。
ちなみにこのを植えたのはヶ池の解説でも登場した斉泰である。

時雨亭・長谷池

夕顔亭などと同じく池庭時代からあった御亭で、明治維新後に取り壊されてしまうも2000年(平成12年)に復元された。すぐにはの葉が見事な長谷池がある。
中は有料で呈サービスを受けることができ、見学もすることができる。
サービスでは淹れたての抹茶金沢お菓子が日替わりで出される。また、使用している器も石川県の名産品である九焼と大樋焼の器が使われており、と味で楽しむことができる。

梅林・舟之御亭(ふなのおちん)

毎年3月ごろに最盛期を迎えるのが随身坂口付近に位置するエリアである。じゅうたんにたいしてこちらはが植えられており、3月ごろになるとであたり一帯が薄ピンクに染まっていく。

この1968年(昭和43年)に明治100年記念事業として北野天満宮湯島天神など全の名所からを分け植えて造成されている。

そしてこのエリア内にあるのが舟之御亭で、舟の形のようになっていることから名付けられた。この御亭は時雨亭とおなじくして復元されたもので、休憩スポットとなっている。

入園案内・アクセス

開園時間・利用料金・園内入口案内[11]

【開園時間】
時季 開放時間
3/1~10/15 7:0018:00
10/16~2月末日 8:00~17:00
【利用料
個人 大人
(18歳以上)
320
小人
(6歳~18歳未満)
100円
団体
(30名以上)
大人
(18歳以上)
250円
小人
(6歳~18歳未満)
80円

園内への入口は7ヶ所あり、金沢21世紀美術館方面へ繋がる真弓坂口、お通り側と夕顔亭の前に繋がる連池門口、園の正面口にあたる坂口、そのすぐ近くに位置する口、兼六坂方面と繋がる上坂口、園の東端に位置し、石川県立伝統産業工芸館とも隣接する小立野口金沢神社金城霊沢へ直接行ける随身坂口がある。
園内への入場は上記の入園料が必要となるが、行楽シーズンに限り不定期無料開放や無料開放を行っている。また65歳以上の方や身体障害者手帳、精神障害保健福手帳、療育手帳の交付を受けている方は入園料が免除となる。さらに石川県民は土日に限り無料で入園することができる。
また、開園と題して開園時間前の以下の時間帯に限り園内無料開放を毎日行っている。ただし、開園時間15分前までに退園することが無料利用の条件で、入口は池門口と随身坂口のみ開門している。

時季 開放時間
3/1~3/31 5:00~6:45(7:00開園)
4/1~8/31 4:00~6:45(7:00開園)
9/1~10/15 5:00~6:45(7:00開園)
10/16~10/31 5:00~7:45(8:00開園)
11/1~2月末日 6:00~7:45(8:00開園)

注意事項

  • 園内は全面禁煙
  • ペットの持ち込み及びリールを繋いでの連れ込みは全面禁止となっている。
  • 園内の順路はほとんど玉砂利道で整備されている。そのため、サンダルクロックスなどの軽装備はケガの原因になるため、推奨されない。

アクセス

公共交通機関

このほか、上記バス停付近に停する「兼六園シャトル」や「下まち金沢周遊号」という周遊バスが運行されている。

自動車

北陸自動車道金沢西IC金沢ICよりそれぞれ30分、金沢森本ICより20分。園周辺に県営兼六駐車場などの有料駐車場が整備されている。

関連動画

関連静画

関連コミュニティ

関連項目

関連リンク・参考サイト

参考資料

脚注

  1. *兼六園公式パンレットより
  2. *兼六園公式パンレットより
  3. *兼六園公式パンレットより
  4. *ちなみに定名勝は全に422ヶ所あり、これと対して36という数字がどれだけ重みがあるものであるか、一瞭然である。(参考:文化財指定等の件数(文化庁公式サイトより)exit)
  5. *兼六園公式サイトexitによると、日本庭園には大きく分けて「座観式」と「遊式」の2種類の庭園がある。「座観式」はいわば一般庭にあるような庭園のことで縁側や和室などから見て楽しむのに対して、「遊式」は自らの足で見てる庭となっており、例えるならば公園遊園地の感覚に近い庭園方式となっている。
  6. *兼六園の歴史(兼六園公式サイト)exit
  7. *成巽閣のあらまし(成巽閣公式サイト)exit
  8. *兼六園公式パンレットには、その額が掲載されている。(⇒参考exit)
  9. *六勝について(兼六園公式サイト)exit
  10. *を管理する場所のこと。
  11. *ご利用案内(兼六園公式サイト)exit

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1 ななしのよっしん
2020/08/19(水) 00:02:14 ID: 9HN0Gk4tDk
修学旅行の時に行ったんだけど、兼六園周辺から金沢駅はとにかくが複雑過ぎるわ
盤のじゃない町だとこうも迷い易いのかと思った
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2 ななしのよっしん
2020/08/19(水) 00:19:57 ID: nRS+5KXUmC
>>2 コメントありがとうございます。実を言うとあの辺は武蔵あたりに金沢の遺構があって、お自体の領域はあの辺くらいまでだったんですよね。
その関係でいびつな線形になってたりします。
ちなみにお通りもその名の通り元々はおで、それを理やり道路にしてしまった関係でL字カーブや枡形が出来たりしています
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3 ななしのよっしん
2020/08/19(水) 00:32:21 ID: nRS+5KXUmC
えっと、ことじ籠や唐崎など各名所紹介は次回編集時に書く予定です。今回は編集量が多かったので一回編集下ろしました
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4 ななしのよっしん
2020/08/21(金) 22:04:13 ID: Qcaf2haw3N
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5 ななしのよっしん
2022/03/23(水) 22:45:15 ID: 5cfegQriRT
電磁波を放つことでを寄せ付けない日本武尊の像があるのもここだっけ
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