吉田松陰とは幕末の武士、思想家、教育者、兵学者である。諱は矩方(のりかた)、通称大次郎、寅次郎。
概要
文政3年(1830年)8月4日、長州藩士杉百合之助の次男に生まれる。幼名虎之助。
6歳の時に叔父で山鹿流軍学師範だった吉田大介の養子となるが、天保6年(1836年)に吉田が急死したため、同じく叔父である玉木文之進の開いた松下村塾[1]で学ぶ。
幼少期から秀才ぶりを発揮し、11歳の頃藩主・毛利慶親の御前で武教全書の講義を行い、その才能を認められる。
19歳で藩校・明倫館の兵学師範に就任。嘉永3年(1850年)に全国各地を遊学し、九州では熊本藩士・宮部鼎蔵と出会い意気投合し、無二の親友となる。
嘉永4年(1851年)、江戸に赴いた際宮部とともに、当時外国船が頻繁に現れた東北地方や水戸学への関心を持った松陰は関東以北への遊学計画を立てるが、藩から許可が降りるのが遅かったため脱藩して遊学計画を強行した。
翌年遊学を終えて江戸に戻ると、藩により捕縛され萩に送還され士分を剥奪されるが、その才能を藩主が惜しんだため同時に10年間の遊学期間を与えられる。
嘉永6年(1853年)再度江戸に向かい、佐久間象山に弟子入り。この年の6月に米国艦隊が浦賀沖に来航。強い危機感を感じた松陰は長崎にロシア艦隊が現れたという知らせを聞くと、国外の情報探索を行うためロシア船に乗って密航することを計画し長崎に向かった。
長崎に着いたときには既にロシア艦隊は立ち去った後で落胆して江戸に戻ったが、翌年の1月に米国艦隊が再び江戸に現れたため、同行を志願した金子重輔を伴い小舟で艦隊に乗り込み、漢文を使って外国に連れていって欲しいと願ったが、条約を理由に断られ已む無く陸に戻って自首する。
松陰と金子に加え、密航を唆したとして佐久間象山も捕えられ死罪になるかと思われたが、老中首座・阿部正弘や勘定奉行・川路聖謨の計らいで極刑は免れる。萩に連行後、松陰と金子は牢獄に送られる。この時金子は獄死してしまい、最初の弟子であった金子の死を松陰は深く嘆いたと言う。
1年2ヶ月の獄中生活を経て出獄した松陰は藩から自宅謹慎を命じられる。謹慎中に孟子の講義を行ううち、その評判を聞きつけた人々が受講を求めるようになり、受講者の数が増えたため納屋を塾舎に改装した。これが現代に残る松下村塾跡である。
松陰は身分に関わらず幅広く塾生を受け入れ、高杉晋作や久坂玄瑞をはじめ、幕末から明治時代にかけて活躍する人々を多数輩出した。
講義を終えた松陰は時勢論を塾生達と論じあい、自らの同志として活動させるべく指導し、天下の形勢を知るために弟子達を各地に遊学させて情報収集に当たらせた。これらの情報を「飛耳長目録」という書名で塾に置いて回覧させることで内外の情勢を弟子達と共有した。
安政5年(1858年)、日米修好通商条約調印の知らせを聞いた松陰は猛反発し、通商条約を朝廷に奏聞した老中・間部詮勝を要撃すると主張。藩庁に武器の提供を求めたが、松陰の行動を危ぶんだ藩重臣の周布政之助が藩主に対し松陰への謹慎処分を求め、再び自宅謹慎。更に入獄を命じられる。
獄中で松陰は幕府、公卿、藩庁に対する失望から「今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼み無し」と、門下生たちに期待をかける。
やがて松陰に関する情報を幕府が聞きつけ、安政6年(1859年)4月19日、長州藩に対して松陰を江戸へ送還するよう命じた。門下生や親兄弟と別れを交わした松陰は5月25日に江戸に護送された。
江戸で奉行による尋問中、松陰は間部詮勝に対して尋問(要撃)する計画があったことを自分から正直に話したため、これを理由として10月27日の朝に斬首を申し渡され、その日の午前中に処刑が実行された。享年30歳(数え歳)。
師を幕府に殺された門下生達は悲憤慷慨し、多くが幕末の動乱に身を投じて時代を動かしていくことになる。
脚注
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関連項目
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