大陸打通作戦とは、大東亜戦争中の1944年4月17日から12月10日にかけて行われた日本陸軍の攻勢作戦である。正式名称は「一号作戦」。大陸縦断作戦とも。結果的に(一応)作戦は成功した。
概要
背景
1944年に入ると、連合軍の跳梁は更に激しくなった。太平洋には100隻以上の米潜水艦が暴れ回り、日本の生命線である南方からの補給を断ち切ろうとしていた。もはや海上補給路が閉ざされるのは時間の問題である。そんな中、大本営陸軍部作戦課長の服部卓四郎大佐は未だ占領下になかった中国南部を占領し、陸路から資源を輸送する作戦を立案。インドシナ半島から中国南部を通り、朝鮮半島から九州へ運び込む新規ルートを開拓しようとした訳である。また、B-29の発進基地になりかねない敵拠点を事前に占領し本土空襲を予防する目的も含まれていた。
ところが実行戦力にあたる支那派遣軍は対米戦に抽出され続けており、最大で90万あった戦力は今や62万にまで減少。戦力不足を理由に作戦を開始できなかったが、荒らされ続ける海上輸送路に危機感を覚えた東條英機首相は遂に認可。これを受けて服部大佐は準備に取り掛かった。1944年3月には実行戦力の選定が終わった。動員戦力は支那派遣軍指揮下の25個師団と11個旅団。総兵力は50万にのぼり、トラック1万2000台、戦車800輌、火砲1500門という大規模な戦力であった。支那派遣軍の総司令官・畑俊六元帥は大陸打通作戦を中国国民党と雌雄を決する一大決戦と位置づけて勇んだ。
迎え撃つは蒋介石総統率いる国民党軍300万。数と地の利では国民党が有利であった。攻略目標は南部京漢鉄道、湘桂(しょうけい)、粤漢鉄道沿岸などに定められた。
大陸打通作戦
京漢方面
1944年4月17日夜、作戦の第一段階として京漢(けいかん)作戦(コ号作戦とも)が始まった。作戦を担当するのは北支那方面軍の第12軍だった。占領地域の守備を疎かにしない程度の戦力がかき集められた。指揮下には戦車師団と騎兵師団が含まれていて、初めて両機動兵団が肩を並べて作戦に臨んだ。第12軍の主任務は、京漢鉄道沿線の西方に展開する中国第一戦区軍の捕捉撃滅であった。第一戦区軍を率いるのは蒋介石総統直属の湯恩伯将軍。黄河南方に居座る国民党軍撃破が最初の難関と言えた。第11軍の支援を受けながら前進し、敵の陣地を撃破。4月19日夕刻に鄭県を占領した。
地上部隊を支援するため、陸軍第五航空軍などが重慶を始めとする国民党軍の拠点を爆撃。しかし第五航空軍も太平洋方面に抽出されていて、稼働機が250機程度しかなかった。対する国民党軍は連合国から航空機を買いまくって800機を揃えていた。ゆえに第五航空軍は国民党軍機との空戦で100機以上を失う打撃を受けた。
4月20日、覇王城を守備する国民党第85軍と交戦。国民党軍は大した抵抗を見せずに退却し、すぐさま追撃を開始。河南省密県で第85軍を捕捉し、現地を守備していた中国第23軍ともども撃滅した。第37師団は4月29日、湯恩伯将軍が守備する許昌の攻略を開始。これに対し蒋介石は許昌の死守を命じ、増援を送った。第12軍は航空及び砲撃支援を受けながら突撃し、5月1日に主力が許昌を占領。守備隊長の呂公良中将を戦死させた。しかしここで増援が到着し、国民党軍が逆襲に転じた。第12軍は抵抗したが、5月7日に壊滅。だが2日後に別働の第11軍が確山に到着し、京漢陸路の打通に成功。南北の連絡を完成させた。
確山を取られた国民党軍は主力を北方へと退避。5月14日、北支那方面軍は京漢方面最後の砦である洛陽の封鎖を命令。5月23日13時より第12軍が攻撃を開始した。洛陽に立てこもる国民党軍は戦意旺盛で、降伏勧告にも応じずに戦い抜いたが、25日に陥落。洛陽に第12軍が入城し、京漢作戦は完遂された。蘆氏県にあった国民党軍の物資集積所や飛行場は日本歩兵第226連隊によって制圧され、多くの戦利品もついてきた。湯恩伯将軍はこの集積所を取られたのが一番の痛手だったと語っている。
日本側の戦死者は840名、戦傷者は2300名に対し、国民党軍は戦死3万6700名、戦傷者2万1868名、捕虜1万4000名と膨大であった。これは国民党兵の士気が総じて低く(農村から無理やり徴兵されてきた者が多かった)、脱走や投降が相次いだからだと言われている。
湘桂方面
第二期作戦として、第11軍主導による湘桂(しょうけい)作戦(ト号作戦とも)が5月27日より開始された。国民党軍は帝國陸軍の進撃を察知し、事前に退却。局地的に中国第20軍が抵抗してきた点以外は何事も無く推移した。代わりに敵として立ちはだかったのが地形であった。連日の雨によって道が泥濘と化し、自動車道が使用不能になってしまう。戦車、野砲、物資、自動車などの移動が困難となり、6月下旬までまともに補給を受けられない事態となった。
6月7日、瀏陽及び益陽方面への攻撃命令が下り進撃再開。6月11日に第40師団が益陽を占領し、16日には敵第73軍、第74軍を撃破して寧郷を占領。第五航空軍の支援も手伝って6月18日には長沙の占領に成功した。長沙を奪取された事で国民党軍は壊走、追撃する形で衝陽に攻勢をかける事になった。湘郷、衝陽飛行場を次々に占領し、6月27日に湘江を渡河して衝陽西部へ進出。翌28日から衝陽攻略を始めたが、現地を守る国民党軍の抵抗は頑強で、第68師団長と参謀長が負傷するなど苦戦を強いられる。蒋介石が現地軍に対して死守命令を発していたからである。攻撃は続けられたが、依然として国民党軍は退かない。このため7月2日に一度攻撃を中止し、砲兵と航空支援を待つ事にした。衝陽を巡る戦闘は三次にまで及び、熾烈な戦いが繰り広げられた。先に根負けしたのは国民党軍だった。8月8日、耐えかねた方先覚将軍以下師団長4名が投降。以降は投降者が相次ぎ、抵抗を続けていた敵の一部を掃討して衝陽は陥落した。この敗北は国民党軍にとって衝撃的だったようで、これを境に及び腰になっていく。
日本側の損害は戦死者3860名、戦傷者8327名。国民党軍は戦死者4100名以上、捕虜1万3300名、各種砲110門と装甲車10輌を鹵獲した。
その後
衝陽を攻略した第11軍はグングンと進撃。9月13日に零陵を、11月10日に桂林と柳州を同時攻略。柳西方面に逃亡していた国民党軍を追撃し、壊滅へと追いやった。戦利品として、アメリカから送られたであろう大量の軍需品までついてきた。そして第23軍が南寧を占領した事で、北上してきた南方軍と合流。支那からは第21師団が、インドシナ北部からは第22師団が連絡に成功。ここに大陸打通作戦は成功した。
こうして中国南部一帯の占領を実現した帝國陸軍であったが、その実態は広大な土地の中に点在する拠点を線と線で結んだだけに過ぎなかった。抗日ゲリラの跋扈によって線路が爆破され、そのたびに輸送が停止。海上輸送路の代わりには成り得なかった。B-29の出撃拠点閉鎖の観点から見ても、あまり成功とは言いがたかった。1944年7月7日にサイパン島を失陥した事で、アメリカ軍は支那大陸より日本本土に近い飛行場を獲得。そこから毎日のようにB-29が飛来するようになってしまった。せっかく作戦成功に導いたにも関わらず、その努力はほぼ無意味に終わったように見えた。
一方の連合国はと言うと、大陸打通作戦の成功が頭痛の種になっていた。元々アメリカの対日戦略は、中国を支援して日本を倒して貰う算段だった。だが、中国国民党は帝國陸軍の大陸打通を許してしまった。この事に連合国は落胆の意を隠そうとしなかった。やる気の無い国民党軍を見て「中国は真面目に戦っていない(意訳)」と指摘。この作戦で支那大陸に展開する帝國陸軍は105万にまで増加し、もはや蒋介石にこの大軍を倒せるだけの力は無かった。中国に頼れなくなったアメリカは対日戦の方針を大きく変えざるを得なくなり、支那大陸からの日本本土上陸を事実上断念。太平洋からの侵攻に注力した。ちなみに国民党は来るべき共産党との決戦に備え、支給された軍需品を対日戦に使わずひたすら貯めこんでいた。アメリカの落胆は最もである。へなちょこな中国はヤルタ会談で仲間はずれにされ、怒った蒋介石がアメリカの意に反して日本に和平案を提示するなど連合国の足並みは乱れに乱れた。
関連項目
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