毛沢東(1893年12月26日-1976年9月9日)とは、中華人民共和国の政治家・思想家である。
中国語簡体字では「毛泽东」、一般的には拼音で「Máo Zédōng(マオ・ヅェドン)」と発音する。多くの場合、英語は拼音に基づいた「Mao Zedong」と表記される。ただし稀にウェード式に基づき「Mao Tse-tung,マオ・ツォートン」と表記する場合もある。
中華人民共和国の建国者・初代国家主席であり、文化大革命により終身指導者(悪く言えば終身独裁者)としての地位を築き上げた。
概要
当時、戦争により中国大陸はカオス真っ盛りの状況であった。そんななか共産党軍を率いて今の中国を建国したのが毛沢東である。しかし、残念ながら政治家としての才能には恵まれておらず。毛沢東の独裁政治のおかげで多くの犠牲者を出してしまう(ポルポトやロバート・ムガベなど、革命家タイプの政治家はこういう極端な例が多い)。最終的には文化大革命を引き起こすことで、中国はさらにカオス状態となってしてしまったのである。
そのため、評価が大きく分かれており、通常ならば建国の英雄として尊敬されるべき人物だが、建国後の統治は決して称賛できるものではない。 あるいは毛沢東(けざわひがし)、毛などとネタの対象にされていることから非常にハイスペックな人物である。そのため中国史のみならず、世界史上でもかなりの大物人物であり、その人物像には様々な議論や評価がある。
赤いニコニコ動画でもおなじみの人物であり、数字の数では決して同志スターリンに劣らない。
革命の指導者として
1893年12月26日、湖南省湘潭市湘潭県韶山村(現在は湘潭市韶山市)の裕福な農家の三男坊として生まれる。2人の兄が早死にしたため長男と表記される場合もある。両親は毛順生と文素勤。
村の寺子屋で儒教の「四書」「五教」を習い、伝記「水滸伝」「三国志」「精忠伝」を好んだ。記憶力は抜群で、好きではない儒教の古典を含む、多くの書籍を暗記していたという。
13歳になると寺子屋をやめ家事手伝いとなる。その後、当時のベストセラー本「盛世危言」を読み、感銘を受ける。滅亡しかけた祖国を問う内容であった。これにより田舎の農村が彼の世界の限界だったが、広い社会、国の政治にまで視野が開かれた。農村に留まらず、都市で広い展望を得たいと思い始める。
14歳で羅一秀と結婚する。しかし毛沢東が17歳のとき、彼女は赤痢で死亡する。
17歳に隣接する湘郷県の東山高等小学校(湘郷中学)、19歳で長沙の湖南全省公立高等中学校に入学。
20歳、湖南省立第四師範学校に入学する。21歳に湖南省立第一師範学校に編入。25歳で卒業し、北京大学の図書館員となる。そこで社会主義思想に触れる。
父親の死後、故郷に帰還した際には地元の中学校の歴史教師として教鞭を取る一方で、父親の遺産をもとに出版社を設立する。
1921年、上海で行われた中国共産党の結党に参加。直後に親ソ派の孫文の提案により国共合作が行われた。そのため、共産党員の毛沢東は国民党発行の機関紙に社説を手掛けていた。
孫文の死後、蒋介石は共産党員の弾圧を命令する(上海クーデター)。以後、国民党に対抗するため南昌蜂起を端に各地の共産党支部で武装蜂起が行われた。国共内戦が開始される。
そのころ、故郷湖南省で毛沢東も紅軍を結成。そのまま兵を引き連れて井崗山(せいこうざん)に立てこもり、ゲリラ部隊を指揮する(秋収蜂起)。国民党に敗れた残党兵を吸収しながら、瑞金で中華ソビエト共和国を建国。その主席に就任するも共産党の指導部(ソ連からの留学生が占めていた)から顰蹙を買い失脚する。
しかし、国民党軍の猛攻になすすべもないまま瑞金を放棄。以後、紅軍は新たな根拠地を目指すべく放浪にでる(長征)。長征の途上、共産党内では指導部への批判が高まるにつれて毛沢東が実権を握っていく。12500kmの過酷な行軍の末、延安に根拠地を定めたのである。その後、西安クーデターにより日本軍を仮想敵国として再び国共合作が結ばれる。
1937年7月、日中戦争が開始されると、紅軍は「八路軍」と「新四軍」として日本軍と戦う。持久戦論を打ち出した毛沢東はこの戦争を機に勢力拡大を図る。このころ、共産党内では整風運動により粛清が開始される。こうして毛沢東は党内の権力を確立していくのであった。
日本軍の撤退後、再び国共内戦が開始される。それまで日本軍と戦っていた八路軍と新四軍は人民解放軍として新たに編成された。ソ連からの援助もあり戦況を有利に進めることができた。そんななか毛沢東は「人民のものは針一本たりとも盗るべからず」っといった無学な兵士にもわかりやすいような軍律を掲げた。(三大紀律八項注意)こうして共産党軍は国民党軍とは違い、常に規律が保たれていたため、民衆から大変支持されていたという。
共産党の勝利が確定したころ、「新民主主義論」を掲げた毛沢東の提案により、政治協商会議が開催される。そこで建国の青写真が練られた。
かくして、1949年10月。天安門の檀上に立った毛沢東は、声高らかに建国宣言を執り行う。
歓喜あふれるなか、民衆の期待とともに中華人民共和国は誕生したのである。
革命後の戦争
建国後、国民党の本拠地である重慶、成都を陥落させ、蒋介石を台湾へ追い払う。
台湾進攻を計画していたさなかの1950年。共産党軍にとって迷惑な話が持ち込まれてきた。朝鮮半島統一のため北朝鮮の金日成が韓国への攻撃を命令する。これにより朝鮮戦争が勃発、緒戦は勢いがあった北朝鮮でも最後は国連軍に押し返される。金日成による援軍の依頼が来ると、台湾侵攻を後回しにして毛沢東は急きょ北朝鮮へ援軍を送り込むことを命令する。(人民志願軍)
中国軍の援軍により押し返すことができた北朝鮮軍は38度線を経緯に膠着となり停戦となる。この戦争に参戦した長男の毛岸英が戦死することで、毛沢東は息子の一人を失った。
その後、ソ連の承認を経てチベットを占領。それまで領有権を主張していたモンゴルの独立を認める。
よって香港とマカオを除く中国大陸が共産党によって統一された。
建国後の統治~大躍進へ
小作人への農地分配、戸籍制度を整えるなど、内政の改革に取り組む。一方で三反五反運動のような監視社会も作られている。
経済政策ではスターリンを手本にし、五カ年計画を実施する。重工業の生産に集中させるのであった。
そのうえ、防衛上の観点から、かつての日中戦争のように沿岸部を攻め取られてもゲリラ戦で対抗できるよう、工場を内陸部に建設するよう指示する。が、わざわざ工場を建設したところで、インフラが整っていない内陸部では効率よく稼働するのは不可能なため、乱暴な生産政策により、中国経済は徐々に混乱していく。されど、建国者である毛沢東に口答えできる者が皆無だったゆえ、無謀な政策でも敢行せざるをえなかった。
そんなさなか、自由な議論の場を設けるべく「百花斉放・百家争鳴(ひゃっかせいほう・ひゃっかそうめい)」のスローガンを掲げる。そこで毛沢東の政策を批判したものが、反乱分子のレッテルを貼られてしまった結果、約60万人が粛清されてしまったのである。(反右派闘争)
やがて、ソ連の15年以内にアメリカを追い越すという目標に誘発されて、中国も壮大な国力の増強を模索し始める。そのとき毛沢東が打ち出したものが、大躍進政策である。これは、農作物や鋼鉄などを人海戦術の方法で生産させるといった増産計画である。
こうして生産力を一気に上げさせ、15年以内にはイギリスを追い越すことを目標に掲げる。しかし、ずさんな管理体制が災いし農作物の生産量が低下。3000万人規模の餓死者を出す結果となってしまった。
当初、ことの状況を把握できずにいた毛沢東は、部下が作成した水増しの情報を鵜呑みにしたがゆえ裸の王様と化していた。そんななか、建国の英雄の一人ホウ徳懐は現状を正確に把握させるため毛沢東に手紙を送付するものの、彼もまた右派分子としてレッテルを貼られ失脚してしまう。(廬山会議)されど、状況は深刻化しており、党の求心力を失わないためにも毛沢東は自己批判をせざる得なかった(七千人大会)。
こうして、後の実権を劉少奇に託し毛沢東自身は政権から身を引いたのである。
終盤 文化大革命により終身指導者となる。
ゆるやかな市場経済を導入した劉少奇政権では国内が依然と比べ安定してゆく。そのころ、スターリン批判を発端として中ソ対立が勃発する。これにより毛沢東はソ連への警戒心を強める。
劉少奇からの政権奪還を目論んでいた毛沢東は、嫁の江清を頼りに劉少奇政権への批判キャンペーンを各地で工作する(四清運動)。先に述べた廬山(ろざん)会議をモチーフにした論説「海瑞被官を論ず」をきっかけに、毛沢東批判を含意しているといった主張で文芸批判が行われ始める。これをうけ、毛沢東を支持する学生を中心に結成された紅衛兵による暴動が活発化する。これをうまい具合に利用しようと企んだ毛沢東は紅衛兵に劉少奇派(実権派)への攻撃命令を下したのである。これを機に文化大革命は本格始動するのであった。(第8期11中全会)
その後、中央政府を強引な形で奪取した毛沢東は再び政権をにぎり、劉少奇率いる実権派を政権から一掃させる。劉少奇の失脚後、政権奪還を果たした毛沢東はソ連に代わる新たな社会主義国家を構想する。さらに、文革では宣伝工作を手掛けていた江青を中心とする文革派(のちの四人組)と軍の指導権を与えられていた林彪の権限が増大した。彼らが毛沢東崇拝を呼びかけることにより、文革を積極的に推進させたのである。熱狂のあまり紅衛兵の暴動を統率できなくなった毛沢東は彼らに農村へ下方するよう言い渡す(上山下郷運動)。国内に潜む実権派を打倒するため、毛沢東は新たに階級闘争を主張。労働者から成る造反派は武器を手にし、実権派と目された人物への迫害を行う。そのため、劉少奇失脚後も造反派の暴力が激しくなることにつれて、事態の収拾がつかなくなってしまう。そこで毛沢東は各地に革命委員会を樹立することで、国内の統制をはかろうとした。しかし、一部では革命委員会同士での武装対立が巻き起こり、国内は内乱と化してしまうありさまであった。これらは中国軍が出動することで最終的に事態の収拾を図ったのである。
文革も惰性となったころ、それまで後継者とされてきた林彪による毛沢東の暗殺未遂が起こる(林彪事件)。林彪の事故死後、毛沢東の妻、江青を中心とする四人組が文革の主導権を握る。荒廃した国内を立て直すべく文革の終了を目指すがゆえに周恩来は四人組によって非難の対象とされた。(批林批孔運動)
1972年9月、田中角栄首相によって歴史的な日中国交正常化が行われる。この時、毛沢東は日本が払うべき賠償金を放棄したうえ、田中角栄を有能な政治家であると評価している。
1976年9月9日、荒廃した国内の回復をはたさぬまま、毛沢東は息を引き取る(享年82歳)。こうして、中国革命の英雄毛沢東は、自らが建国した国家を疲弊させた独裁者としてこの世を去ったのである。
死後の評価 「功績七分、誤り三分」
毛沢東は次期後継者として華国鋒(かこくほう)を指名していた。※別説あり
彼の政権下では四人組逮捕を実行するものの、毛沢東崇拝は止むことなく文革を継続させる。革新的な政策を実行できずにいた華国鋒は、やがて文革への倦怠感もあって支持を失うはめとなる。かわりに軍の支持を得ていた鄧小平により政権の座を奪われるのであった。こうして、中国を混乱に陥れた文化大革命は、数々の痕跡を残してようやく終幕を迎える。
その後、若干の歴史決議が行われ、死後毛沢東の評価が下された。そこでは「功績七分、誤り三分」とされ、建国者としての偉大なる業績に比べれば、独裁者としての過ちなどほんの些細なことである。という評価が下されたのである。よって、現在もなお中国国内における毛沢東の権威は失われておらず、建国宣言が行われた天安門広場では、巨大な彼の肖像画が堂々と飾られている。
評価
中華人民共和国の建国者であり英雄としての側面もある一方で、彼が強制的に行った粛清や大躍進政策では大量の犠牲者を出し、中国経済の停滞を生じさせた。そのうえ、さらに中国全土を混乱のどん底に陥れた文化大革命を引き起こした張本人であるとして、“残虐な独裁者”としてのイメージが一般的に強い。
一方で戦略面での毛沢東は一流であり、傑出した人物といえる。長征では戦力ゼロの亡命軍を率い、12500kmもの長い距離の間、国民党軍の猛攻を持ちこたえさせた。さらに持久戦論を打ち出し、当初は貧弱そのものだった共産党の勢力を日中戦争で拡大することによりうまく漁夫の利を得る。物質面では圧倒的に有利であったはずの国民党軍を最終的には打ち負かし、革命を成功に終わらせたのである。
このように通常の戦略から考えて、まずありえないことを一代で成し遂げた毛沢東が革命の英雄であることに偽りはない。また、文筆のセンスも兼ね備えており、数々の毛沢東による巧みな文筆で激励された多くの兵士や人民、あるいは紅衛兵を奮い立たせていった。そのため、毛沢東は常に指導者としてのカリスマを保ったのである。
事実、彼が考えた言葉で日本でもよく使われる「反面教師」を始め、「戦争は流血を伴う外交である、外交は流血を伴わない戦争である」「政権は銃口から生まれる」といったような言葉を聞くだけでも、毛沢東によるたぐいまれない文才を感じ取れるであろう。また、同じく日本でも使われる「一辺倒」も毛沢東が使用したことにより世に広く知られるようになった。
こうした様々な要素により、毛沢東は“革命を成功へと導いた英雄”なのか、それとも“中国を混乱のどん底に陥れた独裁者”なのか、今もなおその評価が大きく分かれている巨大な人物である。
毛沢東主義者
毛沢東主義者(マオイスト)とは、要するに1960年代の文化大革命のマネを目指す共産主義者のこと。チャイナは1970年代に文革を止めたが、カンボジアに飛び火してクメール・ルージュを生じた。現在でもインド東部にマオイスト・ゲリラが生き残っている。[1]
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関連商品
関連項目
- 中華人民共和国
- 歴史
- 中国史
- 中華民国史
- 中国史の人物一覧
- 政治家の一覧
- 人民解放軍
- 中国共産党
- 毛沢東語録
- 東方紅(当人のキャラソン)
- 紅衛兵(文化大革命時代の熱狂的な毛沢東ファンの総称)
- 紅いニコニコ動画
- 独裁者
- 英雄
- カリスマ
- 反面教師
- 大躍進
- 文化大革命
- 孫文
- 蒋介石
- 毛沢東スペアリブ
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