- プロ野球選手一覧 > 宮本賢治
概要
OB | |
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宮本賢治 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 兵庫県神崎郡市 |
生年月日 | 1959年9月9日 |
身長 体重 |
179cm 73kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1981年 ドラフト1位 |
引退 | 1996年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
東洋大学附属姫路高等学校に進学。当初は内野手であった。控えの野手に甘んじていた1年の秋、他校のアンダースロー投手対策のため、打撃練習時に打撃投手として下手で投げるよう命じられ投げ続けていたところ、これが上手くハマり、以降はアンダースローの投手としてプレーすることになった。3年時にはリリーフ投手として夏の甲子園大会優勝を経験している。
卒業後、東洋大学ではなく亜細亜大学へ進学。チームのエースとして活躍し、3・4年時には2季連続で最高殊勲選手、最優秀投手、ベストナインを獲得、通算で200奪三振を奪い、東都大学リーグ歴代4位となる35勝を挙げた。
1981年ドラフト会議にて、ヤクルトスワローズに入団。同期入団には小川淳司がいた。
初年度の1982年、ルーキーながら先発・リリーフ双方で起用され、4勝6敗1セーブ、防御率3.80という成績を残す。
以降も先発・リリーフ両方で起用され、毎年30試合以上に登板。翌1983年は7勝を挙げたが、1984年は4勝10敗、防御率6.52、1985年は2勝10敗、防御率6.26と伸び悩む。
その後も負けが先行し、防御率も4点台とパッとしない成績が続き、1989年には肘を故障し1勝に終わっている。
1989年オフ、新監督として野村克也が就任。頭打ち状態であった宮本に対し、野村監督は「ボールを長く持て」とアドバイスを送る。このアドバイスを受け、投球フォームについて意識するようになり、腕を少し上げたサイドスロー気味の投球フォームに改良。
1990年、投球フォーム改造によりボールのキレや変化量が改善。先発投手として11勝を挙げ、防御率も3.16と好成績を残した。
1991年は4勝に終わり、1992年は肘の状態が悪化したため一軍登板なしに終わった。
1993年も故障の影響で出遅れたが、終盤戦に復帰すると、4勝1敗、防御率2.39と安定感を発揮し、チームのセ・リーグ連覇に貢献。日本シリーズでも先発登板を果たした。
1994年は谷間の先発や中継ぎ投手として起用され、2勝3敗、防御率3.21。
1995年はセットアッパーとして起用され、2勝2セーブ、防御率3.43を記録し、セ・リーグ制覇に貢献。日本シリーズでは、2試合にワンポイントリリーフとして起用されている。
引退後はスポーツライターを務めた後、ヤクルトの投手コーチ補佐に就任。
2001年からはスカウトに転身し、青木宣親や館山昌平、田中浩康といった選手たちを担当。
その後、フロント入りし、編成部を担当した後、2016年に二軍監督を務めた。
人物・エピソード
アンダースローからキレのある直球とカーブやスライダー、シュートなどを駆使して打者を打ち取った右腕。若手時代はカーブがほとんど曲がらなかったというが、曲がらないカーブを上手く打者を使い打ち取っていた。
大洋ホエールズ戦では抜群の強さを見せたことから「大洋キラー」として知られた。
変則投手ということで野村監督から重宝され、台所事情が厳しい時期には、投手として登板した後、外野を守り、その後再び登板するという、野村監督が阪神時代に用いた『遠山・葛西スペシャル』のような起用も何度か試されてる。
通算成績
投手成績
通算:14年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
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NPB | 378 | 19 | 3 | 55 | 71 | 7 | --- | .437 | 1131.2 | 337 | 521 | 592 | 551 | 4.38 |
関連動画
関連項目
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