悪魔の証明(ラテン語:probatio diabolica)とは、次のことを指す。
ここでは3について述べる。1,2についてはリンク参照。無知論証の意味で使う人もいる。
概要
もし何の手がかりもなく、1羽1羽手当たり次第に見て確認するしか方法が無ければ、「いる」証明も「いない」証明も非常に効率が悪く、運が悪いと一生終わらない。
しかし実際はそのような事は少ない。持つ情報により探す労力の見積もりは変わる。
遺伝子的にいてもごく少数だと考えているとか、生まれてから一度も見たことがない、という人の場合を考えてみる。確率とは今持つ情報から決まるものだから、このような人にとって「いる」確率は低い。調べる労力はものすごく大変で非現実的という見積もりになる。
一方、自分の住む町では見た人がいるとか、お年寄りが昔見たと言っている、といった手がかりを持つ人にとっては、「いる」確率は高い。情報から探す場所も絞りこめるので、調べる労力は現実的なものになる。また遺伝子的に100羽も調べれば1羽はいるはずと考えられるなら、当てずっぽうでも探す気になる。
そうした情報を共有できればいいが、今出せる証拠材料がないとか、うまく知識が説明できないとか、相手の話が信用できないなどの理由で、それが難しい場合もある。
そういう場合は「いる」と考えている人が、直接確認するなり、間接証拠を集めるなり、遺伝子についての情報を整理するなりした方が効率がよく現実的である。間接証拠でも「いない」派が納得するものを出せれば、白いカラス探しに合理性が出てくる。
逆の場合もある。「いる」と思っていたのに、いそうな地域を実際に探したらまったく痕跡も見つからないとか、聞いた話は別の鳥との混同らしい、とかがわかってくる場合も考えられる。
いずれにせよ、無いと思う側がそれを証明しようとするのは手がかり無く動くことになり、無駄が多く非現実的である。
一般的な意味での「悪魔の証明」が言おうとしているのは、以上のような事と考えられる。
「悪魔の証明」と詭弁
「悪魔の証明」という語の意味するところは上記のとおりである。一方で、「悪魔の証明」には、「無い事の証明は必要ない」とか「証明は無いことを否定する側がすべき」とか「有ることが示されるまでは無いとしてよい」とか、ましてや「有ることが示されないのが無いことの証拠」といった意味は含まれていない。悪魔の証明から言えることは「無いことを証明するのは大変だけど、頑張って無いことを証明しましょうね」なのである。
そのため本来は「悪魔の証明」という言葉そのものは詭弁ではないのだが、悲しいことに、実際には「悪魔の証明」という言葉が使われているのは、ほとんどの場合が詭弁においてとなっている。例えば、次の様な場面を見てみよう。
この場合、根拠を示す責任があるのはAの側であって、Bに「****がある」ことを示す義理はない。もっとも、字面ではなく根拠の有無に注目してみれば、この場合も「悪魔の証明」として説明することはできる。すなわち、Aは言外に「『****がない』とする根拠が有る」と主張しており、Bは「『****がない』とする根拠が無い」と主張しているからだ。
無い事の証明
学問や裁判(後述)といった公的な場では『悪魔の証明』という泣き言は通用しない。特に学問の場では「無い事の証明」を求められるのは実にありふれたことである。「無い事の証明」には、例えば背理法が使われたりする。「無い」と証明したい事を「有る」と仮定してから正しい論理のみで議論を進めて前提と矛盾する結論を導きだし「結論が矛盾するのは『有る』とした当初の仮定が間違っていたからに違いない」と結論づける論法である。背理法の記事に幾つかの実例が載っているので参照してほしい。
さて、「無い事の証明」からは外れてしまうが「有る事の証明」についても少し。たった一つの実物さえ示すことができなかったとしても、それが有る事だけを証明することはできる。つまり「それを誰も見たことが無いし、どこにあるのかも分かっていないが、確実にあることだけは分かっている」ということである。例えば現在「見つかっている中で最大の素数」というものが存在する。そして今のところ、これより大きな素数は見つかっていない。にもかかわらず、これより大きな素数は必ず存在するのである。それがなぜ分かっているのかといえば、それは「最大の素数というものは存在しない」ことが既に証明されているからなのである。
裁判における立証責任について
日本の裁判においては、民事では「自己に有利な法律効果の発生を求める者」、刑事では「訴追側」に立証責任がある(参照)。ただし民事刑事いずれにおいても例外的に反対側に立証責任が生じる規定がある。
もし裁判と同様に考えるなら、主張が認められる事で利益を得る側、または不利益を与える側が立証責任を負うのが原則になるだろう。ただし、これは何かしら利害関係がある場合の話である。
利害関係がなく純粋に何かを知るための議論では「新たな知識を得るのに役立つか」「面白い議論になるか」などの基準が考えられるが、議論の関係者たちが決めることである。
注意点
無い事の証明は難しい。しかし、悪魔の証明という言葉だけにとらわれて、知識と論理で議論を先に進められるのに、最初から無い事の証明を諦めてしまうのは生産的でない。
無い事の証明が非現実的なほど大変になるのには「広大な領域を片っ端から直接調べていくしかない場合」という条件がある。この条件が崩せる場合は、概要で述べた事は当てはまらない。
まず、そこまで広大な領域を調べなくてもいい場合。例えば、捕獲された1万羽のカラスの中に白いカラスがいるかを調べるのなら、手間はかかるが確認は十分可能である。
また、捕獲したカラスを大人しくさせることができれば、上から写真を撮って画像解析すればさらに容易になる。一度に調べる範囲を技術的に大きくできれば、調べる範囲が小さくなったのと同じである。このような方法で、調査の規模を現実的なレベルに減らせる場合もある。
そして、ある程度の確証が得られれば十分なら、直接確認しない方法もある。知られている事実と明らかにつじつまが合わないものは、直接確認するまでもなく「まず無い」と言える。例えば低温で生存不能な生物は、寒冷地には生息しないと判断できる(連れて行ってもすぐ死んでしまう)。カラスで言えば、遺伝子的にカラスという種は白くなりえないとわかるかもしれない。知識や理論と照らし合わせて、広大な領域をまとめて判断できる場合もあるという事である。
関連動画
リンク
関連項目
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