明治天皇(めいじてんのう)とは、その名の通り明治時代の天皇である。
名は睦仁(むつひと)。
経歴などを詳しく調べたい方はwikipediaを参照することをお勧めします。
概要
幕末
嘉永5年9月22日(1852年11月3日)、孝明天皇と側室(典侍)中山慶子の間に生まれた第二皇子(第一皇子は早世)。
8歳で親王宣下を受けるまでは祐宮(さちのみや)、宣下後は睦仁と名付けられた。
祐宮とは孝明天皇の祖父である光格天皇の幼名であり、朝廷権威の向上に務めた祖父にあやかろうと孝明天皇自ら筆で名を書いたという。
4歳にまで外祖父である中山忠能の邸で育てられ、安政3年(1856年)9月から御所に移り住んだ。孝明天皇は祐宮を賀茂祭に随従させたり、宮中行事を盛んに見学させ、早くから後継者として育てた。
万延元年(1860年)5月11日、孝明天皇は祐宮に親王宣下を行う旨を廷臣・京都所司代に伝え、同年9月28日に親王宣下、睦仁の名を与えた。
幼少期はかなりのきかん坊だったらしく、乳母の子で遊び相手だった木村禎之助によると、おもちゃの木馬を廊下で乗り回したり、少し気に入らない事があるとすぐに拳で殴られたという。
教育については読書を儒学者で公家の伏原宣明、習字を皇族の有栖川宮幟仁親王、公家の広橋胤保、生母の中山慶子、和歌に至っては孝明天皇が直々に教授するという、非常に教育熱心な環境で育てられた。
慶応2年12月、孝明天皇が病に冒され25日に35歳で崩御すると、翌年慶応3年1月9日(1867年2月13日)、14歳で践祚(即位)した。
同年10月15日に大政奉還を勅許。同時期、討幕の密勅が中山忠能を通じて明治天皇に密奏され、薩長両藩に下ったとされる(現在では密勅の形式や経緯から密奏は行われておらず、偽勅の疑いが極めて強いとされる)。
12月9日には罪を解かれた岩倉具視が参内し、王政復古の文案を奏上。明治天皇は御学問所にて廷臣や大名を前に王政復古を宣言、新政府を発足させた。当日夜に行われた小御所会議にも臨席し、佐幕派の山内容堂や岩倉具視らの激しい議論を間近で目にした。
翌年慶応4年1月2日、政情不安のため行わなかった元服を5日に行なうことが決まったが、翌日3日、鳥羽伏見の戦いが勃発し延期。錦の御旗を掲げた薩長軍の勝利によって新政府の土台が整うと、15日に漸く元服が行われた。
徳川将軍家に代わり、名目・実質を兼ねた日本の元首を務めることになった明治天皇は、2月から3月にかけて外国公使達を相次いで引見し、それまで外国人達にとって謎に包まれていた『ミカド』の姿を初めて諸外国に現した。
天皇に外国人を拝謁させることを批判する者もいたが、岩倉具視や中山忠能、大久保利通らは明治天皇を新しい時代の元首に相応しい人物像にすべく、次々と前例のない経験をさせていく。
3月14日、明治天皇は紫宸殿に出御、廷臣・大名らを前に『五箇条の御誓文』の奉読に立ち会った。21日には予てより決まっていた大阪行幸に出発し、26日には軍艦を親閲した。御所を出たのも海を見たのも初めてだった明治天皇は物珍しさに殊の外喜び楽しげであったと伝えられる。
8月27日、即位式が行われ、9月8日には慶応から明治へと改元。一世一元と定められた。
明治時代
大元帥睦仁
同年6月、明治天皇の江戸行幸が木戸孝允を中心に計画されはじめた。
9月に日程が定まり、22日に京都を出発。この行幸には岩倉具視や木戸孝允など新政府幹部を含め3000人以上が供奉した。
道すがら琵琶湖を横切り、途中熱田神宮を参拝し、太平洋や富士山を眺め、箱根を経て品川に入り、10月13日に江戸城に到着。既にこの年の7月に江戸は東京と改称されており、江戸城も明治天皇の到着をもって東京城と改称された。一旦京都に戻った後、明治2年(1869年)3月28日に再び東京に入り、以降は東京に常駐した。
岩倉具視、大久保利通、木戸孝允ら維新の元勲達は明治天皇に対し、公家的な柔和なイメージから脱却し、武人的な君主へと成長することを望んだ。
明治天皇自身もそれを受け入れ、乗馬や陸海軍の閲兵を行い、時には自ら操練に参加し、兵を指揮した。明治4年(1871年)から政府入りした西郷隆盛も他の元勲達と同じ思いを持っており、明治天皇をより力強い君主にするため宮中の改革に乗り出した。これにより天皇の側近から公家出身者が外され、代わりに士族出身者が置かれた。
また、女官については大幅に人員を減らし、宮中の旧弊を改めた。
生活スタイルもそれまでの伝統的なものから和洋混淆に置きかわった。髷を切り、洋服を着、西洋料理を食べ、馬車や汽車に乗って行幸する事で、新時代に適応した開明的な君主としての印象を積み上げていった。
明治6年(1873年)には陸軍による野営演習が始まり、これを閲兵。
特に4月29日に習志野で行われた野営では暴風雨の中天幕を張ってそのまま野営に参加して兵士達を感激させ、大久保利通や西郷隆盛もこうした明治天皇の順応ぶりを称賛した。
このように、維新の元勲達の後援を受けながら近代的な国家元首、大元帥としての明治天皇のイメージが形作られていった。
明治六年の政変
明治6年(1873年)、朝鮮との国交問題で西郷隆盛が交渉に赴く案が建議された。
留守政府を任されていた太政大臣・三条実美は朝鮮やその背後に居る清国との戦争になる可能性を憂慮し、海外視察中だった岩倉具視ら使節団を帰国させる事にした。
8月17日に開かれた閣議で、西郷は三条に対し、朝鮮への使節派遣をすみやかに決定するよう迫った。西郷の気迫に押された三条は、岩倉が帰国してから再度評議するという条件で使節派遣を内定する。
19日、三条は明治天皇が休養中だった箱根に向かい、使節派遣の奏上を行い裁可を受けた。明治天皇も三条と同様に使節派遣には不安を感じていたため、岩倉帰国後に十分検討した上で再度奏上するよう命じた。
9月13日、岩倉が帰国。10月14日に閣議が開かれ、岩倉と大久保利通は使節派遣に反対・西郷、板垣退助、江藤新平、副島種臣、後藤象二郎らが賛成を主張し、議論が紛糾した。翌15日に開かれた閣議では西郷が出席せず、西郷の辞任を恐れた三条は使節派遣を決定。これにより岩倉、大久保、木戸が辞表を提出する事態になり、政府は機能不全に陥った。
動揺した三条が心労で倒れたため、明治天皇は三条の邸に行幸して見舞うと、そのまま岩倉の邸にも行幸し、三条の代わりに太政大臣代理として自分を補佐するよう命じた。この行幸は岩倉と大久保が侍従のルートを通じて明治天皇と図ったのではないかとされる。
天皇と宮中を岩倉に掌握された事を察知した西郷は、岩倉に天皇への使節派遣の裁可を仰ぐよう要求したが、岩倉は両論を奏上するとして譲らず、西郷は辞表を提出した。板垣、江藤、副島、後藤らも順次辞表を提出し、西郷を慕う桐野利秋、篠原国幹ら薩摩藩出身の軍人らも辞表を出した。
明治天皇は桐野らを呼び、これまでどおり職務に尽くして欲しいと伝えたが留めることは出来ず、多数の軍人や政府関係者が西郷と共に鹿児島に帰っていった。後に西南戦争として知られる内戦の、始まりであった。
富国強兵
1894年の日英通商航海条約、1902年の日英同盟といった条約締結を踏まえ、富国強兵政策が開始されると、軍人勅諭を発布して軍の規律を説いた。特に日本軍は天皇の軍であると言い渡し、のちに何かと面倒な問題となる統帥権は事実上この時に確定された。また教育勅語を発し、国民の道徳のありかたを説いた。
日清・日露戦争では、広島の大本営で指揮を執る。特に、旅順攻略に手こずっていた乃木希典の解任を許さなかったのは、陛下によるご英断として語られる。
最終的に日本は清、ロシアといった大国を相手に善戦した実力を認められ、不平等条約の撤廃に成功する。かくして、日本は一等国として欧米列強とならぶことができたのである。
現在
しかしこれはあくまで通説であり、実は殉死した乃木希典とともに宇宙へと旅立たれたのであった。
(詳しくは「明治天皇宇宙の旅」の動画を視聴していただきたい)
その御姿こそは表さないものの、今もどこかで我々の住む日本を見守っている。
逸話
- 日常生活は質素を旨とした。天皇にして国家元首である自身を厳しく律し、寒い日でも暖房は火鉢一つで過ごし、夏でも軍服をきっちり着込んだまま執務に当たっていた。
- 記憶力が抜群であった事が知られている。目にした書類は内容を全て覚え、前言の違いが多かった伊藤博文はたびたび注意を受けて難儀していたという。
- その伊藤博文とは衝突こそあったが信を置いており、世辞を言わない性格と私財を持たない潔さを好ましく思っていた様子。ただし女好き・遊び好きについては「程々にするように」と苦言を呈している。
- 西洋化が進む時代においても、有職故実を疎かにする事はなかった。自身が蹴鞠を好む一方、後継者が減っていた蹴鞠を保存するよう勅命と下賜金により、伝統ある飛鳥井家の蹴鞠を伝える蹴球保存会を発足させた。
- 私生活では茶目っ気ある性格で、女官に対しても気さくに接していた。また正室の美子(昭憲皇太后)の鼻筋がくっきりしている事から「天狗さん」とあだ名で呼んでいたという。
- 熱心な刀剣愛好家としても知られている。明治14年(1881年)の東北巡幸では山形県の旧藩主・上杉家に立ち寄った折、上杉謙信以来の名刀を前に夢中になって翌日の予定を取りやめてしまった。後に旧大名家からの刀剣の献上が相次ぎ、多くの名刀が御物として納められ、結果として散逸が防がれる事に繋がった。特に好んだのは「小竜景光」「水龍剣」で、軍刀拵にして佩刀にしていた。
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関連項目
121代 | 122代 | 123代 |
孝明天皇(こうめいてんのう) 1846~1866 |
明治天皇(めいじてんのう) 1867~1912 |
大正天皇(たいしょうてんのう) 1912~1926 |
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