江川卓とは、かつて読売ジャイアンツで活躍したプロ野球選手である。現在は野球解説者を務めている。
概要
プロ入り前
作新学院高等学校時代はエースとして活躍し、「怪物江川」と呼ばれ、注目を集めた。1973年、3年春の選抜大会で通算60奪三振の大会記録。この記録は今でも塗り替えられていない。夏の予選では登板した5試合のうち、3試合でノーヒットノーランを達成。練習試合も含め140イニングも無失点という驚異的な成績を残す。甲子園では一回戦で初失点を喫し、延長15回の長期戦の末に勝利。大会史上2位の23奪三振を記録した。2回戦は169球目が押し出し四球となってしまい、敗退した。秋には阪急ブレーブスから1位指名を受けたが、入団を拒否。
慶応義塾大学受験に失敗したが、法政大学に進学。1年の頃から最年少でベストナインを受賞するなど活躍。打撃でも好成績を残していた。1977年、4年時にクラウンライターライオンズからドラフト1位指名を受けたが拒否。大学卒業後は作新学院職員としてアメリカ留学。
1978年ドラフト会議二日前に日本に帰国し、ドラフト会議前日に読売ジャイアンツ(以下巨人)と契約した。しかし、セ・リーグ事務局はこの契約を無効としたが、巨人が反発。後日に行われたドラフト会議では南海ホークス、近鉄バファローズ、ロッテオリオンズ、阪神タイガースが1位指名し、阪神が交渉権を獲得。ドラフト会議の結果はそのまま反映された。しかし1979年1月に「阪神と入団契約を交わした上で、トレードで巨人に移籍させよう」というコミッショナーの強い要望により、小林繁とのトレードで巨人に移籍。(江川事件)
プロ入り後
背番号19を提供されたが、小林繁の背番号だったゆえに拒否し、昭和30年生まれという理由で30を背負う。一連の騒動から、開幕から6月まで出場を自粛した。1981年には投手5冠、MVPに輝いたが、沢村賞は西本聖が受賞。以降西本をライバルとして意識する(投球練習の際にはお互い意地になって330球も投げ合った)。
1983年に再び肩を痛めた。1984年、オールスター第3戦で8連続奪三振を記録。1985年、ランディ・バースに対し、真っ向勝負を挑んだ(江川が引退した際、バースは江川を「最高の投手」と称えた)。1987年に右肩が限界に達していたため、現役を引退。
引退後
日本テレビの野球解説者に就任。巨人の監督候補に名前が挙がることがあるが、そのたびに否定している。
小林繁とは先述の経緯から会話がほとんどなかったが、2007年の黄桜のCMで対談し、わだかまりはなくなった。
投手としての特徴
豪速球、コントロール、鋭い変化球、投球テンポの速さ、と4拍子揃った好投手だった。
肩を痛める前は、「ノビがある」「球が浮き上がってホップしているように見える」と表現される速球を真ん中高めに投げて、それで三振を取れる投手だった。
1982年オールスター休みの際のCM撮影で、機材が右肩に落下し、肩を痛めてしまう。それ以来肩の痛みが徐々に悪化し、速球は影を潜めていった。この肩の痛みは相当なものだったらしく、オゾン注射、レーザー光線治療、酒マッサージ、などあらゆる治療法を試してみたが上手くいかなかった。最後に辿り着いたのが中国鍼で、これは効き目があったが、しだいに効果が薄くなっていったという(『たかが江川されど江川』)
コントロールの良さは入団当初からだった。暴投を初めて記録したのがプロ入り5年目、押し出しを初めて記録したのがプロ入り9年目。
ストライクゾーンぎりぎりにぴったり決まるカーブを投げ込んでみたり、落差の大きいカーブを投げてみたりと、カーブの切れ味も一級品であった。
投球テンポも速く、彼が登板すると午後8時台前半に試合終了してしまうことが多かった。
雑記
父親の仕事の関係で、小学生から中学2年生になるまでは、静岡県浜松市天竜区(旧磐田郡佐久間町)に住んでいた。隣の町の佐久間小学校に片道40分掛けてバス通学していたので、近所の子どもたちと一緒に遊ぶのも少し難しい。ゲーム機のような娯楽もない時代だったので、近くの天竜川の河原に行って石投げをして遊ぶようになった。この石投げを繰り返すことで地肩が鍛えられていった(『たかが江川されど江川』)
天竜川での石投げをしているとき、投げた石が空気に乗って浮くことがあった。それを体験したからか、ボールに生きた回転を与えれば必ず浮き上がらせることができる、と固く信じ、指を上手く使って投球するように努めた。高校1年のころには球にバックスピンを掛ける投げ方が完成したという(『実録たかされ』)
江川の活躍で日本全国に名をとどろかせた作新学院には、全国各地から「江川と対戦してみたい」と招待試合の申し込みが殺到した。金曜日に栃木を発ち、土日に3試合ほどをこなして、月曜日に戻るといった過密スケジュールが続く。招待試合の申し込みを断ろうとすると、招待試合の入場料を収入としている高野連から横やりが入った(『実録たかされ』)。こうした高校時代における登板過多が後の肩痛の遠因となったとされる。
江川卓の父二美夫さんは古河鉱業に勤める優秀な鉱山技師だったが、高卒だったため出世が遅れてしまった。息子たちにはことあるごとに「必ず大学に行け」と言っており、それゆえ大学進学を選択することになった。(『たかが江川されど江川』)
法政大学野球部では無意味なシゴキとイジメを受けていた(『実録たかされ』)。江川が大学時代のことを語りたがらないのはそのためである。
1975年、大学2年生の時に肩を疲労骨折している。ただし当時その事実は外部には伏せられ、六大学のリーグ戦にも通常通り登板していたため気づかれることはなかった。江川によればそれ以後右肩の調子が100%に戻ることはなかったという(『たかが江川されど江川』)
大騒動の末に入団した巨人では、江川のことを快く思う選手は少なかった。選手たちが江川包囲網をつくり、キャッチボールをしない、話しかけないといったイジメをしていたが、江川は用具や他の選手の洗濯物を率先して片付けたり、挨拶をきちんとおこなったりと大卒選手に似つかわしくない行動をとっていて他の選手をびっくりさせた。入団2~3週間でその包囲網は自然崩壊していったという(『実録たかされ』)
脚力に非凡なものがあり、盗塁王の松本匡史に100メートル走で勝っていた。(週刊ポスト2015年5月8・15日号)
1987年2月のグアムキャンプで恒例の30メートルダッシュを行ったとき、初めて若手選手に負けた。絶対的な自信を持っていた脚力が衰えつつあることに強い衝撃を感じ、引退の決意を固めるきっかけになった(『たかが江川されど江川』)
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