紫式部(むらさきしきぶ、970?~?)とは、平安時代中期の女流作家・歌人である。
概要
日本最古の長編小説「源氏物語」の作者。百人一首57番の作者で、中古三十六歌仙の一人。
地方の国司を歴任した中流貴族・藤原為時の娘。藤原定方・藤原兼輔は曾祖父、藤原公任は又従兄(はとこ)にあたる。実名は不明で、「香子」という説が有力だが確証には至っていない。宮中では、藤原氏の出であることと、父・為時が式部丞の官位に就いていたことから、当初は「藤式部(とうのしきぶ)」と呼ばれていたが、藤原公任との逸話(公任の記事参照)から「紫式部」の名が定着した。
幼少期から文才に恵まれていたようで、次の逸話がよく知られている。漢学者でもあった為時が、紫式部の弟(もしくは兄)の藤原惟規に司馬遷の「史記」を教えていた時、そばで聞いていた紫式部は暗誦して惟規より早く内容を覚えてしまった。これを見た為時は「娘が男に生まれていたら、立派な学者になれただろうに」と残念がったと言われている。
20代の中頃に、山城守だった遠縁の藤原宣孝と結婚し、宣孝との間に一人娘の賢子(大弐三位)が生まれるが、宣孝は当時流行した伝染病にかかって間もなく病死した。宣孝は紫式部よりかなり年長で、他にも多くの女性を掛けていたことから、紫式部の結婚生活は不安定なものだったらしい。夫と夫婦喧嘩したことが、交わし合った和歌によって現在まで伝えられている。
源氏物語の執筆を開始したのは、宣孝の死後まもなくと言われている。当初、源氏物語は紫式部が個人で作っていた、今で言うところのオリジナル同人誌であったが、口コミで次第に広がり、藤原道長とその妻・倫子の目にとまった。一条天皇に娘の彰子を入内させていた道長は、彰子のサロンの教養を高めようと、紫式部を彰子の女房として呼び寄せた。宮中の生活で紫式部は源氏物語の執筆と並行して、「紫式部日記」を書き始める。藤原道長の愛妾だったという話もあるが、紫式部が有名だったことから後世の人々が考えた作り話と考えられる。
紫式部の晩年は生没年同様、よくわかっていない。彰子が産んだ敦成親王が後一条天皇として即位した頃に、史料から姿を消し、入れ替わるように娘の大弐三位が宮中に出仕している。このことから、この前後に亡くなったとも、娘に宮仕えをバトンタッチして引退したとも言われている。この頃、兄弟の惟規や「紫式部日記」に頻繁に登場する親友の小少将の君など、親しい人間が相次いで亡くなっていることから、出家して彼らを弔いながら余生を送ったという説もある。
百人一首には「めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲隠れにし 夜半の月かな」が収録されている。紫式部が幼友達と久しぶりに出会ったが、すぐにその友達と別れてしまったことを詠んだ歌である。この歌の解釈は二通りあり、一つは実際に会って積もる話が十分にできないまま帰ってしまった、もう一つは偶然すれ違って確かめようとする間もなく相手は去ってしまったというもの。前者の方が一般的だが、学研まんが版百人一首や、漫画「うた恋い。」では後者の解釈に基づいている。
紫式部の性格
明るく社交的だった清少納言とは対照的に、紫式部は人前で目立つことを嫌う内向的な人物だったらしい。漢文にも秀でた紫式部だったが、その才能を妬んだ女房達からは「日本紀の局」と陰口を叩かれていた(紫式部への嫉妬という面もあっただろうが)。これは元々、一条天皇が紫式部の学才をほめたたえた呼称なのだが、紫式部はこの呼び名を嫌がっていたという。当時女性はかな文字、男性は漢文を読み書きするのが普通であり、女性が漢文を読んだり、男性がかな文字を使うのは、恥ずかしいこととされていたり、自分の才能をひけらかすように思われていた(紀貫之がネカマになって土佐日記を書いたのも、このような背景がある)。このため、紫式部は屏風の漢詩を本当は読めるにもかかわらず、わざと読めないと言ったり、奈良から届いた八重桜を受け取る役目を辞退して、後輩の伊勢大輔に譲るなど、努めて目立ちすぎないようにしていたと言う。だが、少女時代は勝気で率直な性格で、学者の父にその才を認められた誇りと優越感から、内向的な面はそれ程なかったといわれる。それが宣孝の死別により、わずか二年余りで結婚生活が崩れ去り、人生に暗い影をさし始める。夫の死別と未亡人の身での宮仕え生活が、内向的な性格を形成されるに至ったとも考えられる。
なお、紫式部が歴史オタクだったことはほぼ間違いないが、腐女子というのは正しくない(提唱する人たちは、源氏物語で光源氏が空蝉の弟に手を出していることを理由にしている)。なぜなら、平安時代に男色は普通に行われており、現在のように異端視されていたわけではないからである(それをわざわざ日記にカミングアウトした藤原頼長は、異例かもしれないが)。
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関連項目
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