第二次世界大戦 単語

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歴史 このページ歴史についての記事です。 中立的な編集・議論が望ましいです。

第二次世界大戦とは、1939年1945年に勃発した人類史上二度世界戦争である。
ここでは1939年ドイツ軍によるポーランド侵攻から1945年ポツダム宣言受諾までを簡潔に記述する。

  概要
  ・前大戦との比較
  ・参戦国
    ・ナチスドイツ
    ・大日本帝國
    ・イタリア王国
  開戦
  ・ポーランド侵攻
  ・冬戦争
  ・真珠湾攻撃
  終結
  ・イタリア軍降伏
  ・ドイツ軍降伏
  ・日本軍降伏
  戦争が残した爪あと
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  関連項目

概要

- 前 大 戦 と の 較 -

この戦争は、連合アメリカ合衆国ソビエト社会主義共和国連邦中華民国イギリスフランス)と
枢軸国日本ドイツイタリア)間の戦争で、両営合計で全49ヶが参戦、動員兵数が1億1000万人と 人類史上最大の戦争となった。

第一次世界大戦(19141918)との大きな相違点は、

以上の点から、おそらく史上最多の非戦闘員民間人)の死者を出した戦争でもある。

- 参 戦  -

連合
   アメリカ合衆    イギリ    フラン
   中華民    ソビエ    オーストラリ
   カナ    オラン    ニュージーラン
その他多数。



V S
枢軸国
   日    ドイ    イタリ
   ブルガリ    ハンガリ    ギリシ
   タイ王    フィンラン    ルーマニ
その他多数。
※都合上、国旗名は簡潔な物を使用しています。

ヴェルサイユ条約や世界恐慌危機から
広大植民地を持たず、資本主義の基盤が脆弱な国家ナチス・ドイツイタリア大日本帝國
軍事的圧を強め、国際連盟を脱退する。
その後「日独伊三国軍事同盟」が結ばれ、後の「枢軸国」の中心となり、世界を二つに分ける。
枢軸国の名称は、ムッソリーニローマベルリンを結ぶ垂直線を枢軸として際関係は転回すると演説したことに由来する。

   ナチスドイツ

ヴェルサイユ体制やマルクス義の打破、反ユダヤ義を掲げる国家社会主義ドイツ労働者党ナチス)が
1932年共産党の進出を恐れる保守の支持を得て、総選挙で第1党に躍進する。
その後1933年に、ナチスの党首・導者であるアドルフ・ヒトラー首相に就任し、国際連盟を脱退。
翌年には総統となり、ナチスの独裁を敷いた後、 大日本帝國と「日独防共協定」を結び、
その後1940年イタリア大日本帝國と「日独伊三国軍事同盟」を結んだ。

   大日本帝國

日中戦争の進展を狙い、ナチス・ドイツイタリアと「日独伊三国軍事同盟」を結ぶ。
しかし、アメリカ英国などから石油の貿易制限(ABCD包囲網)が掛けられる。
自給自足体制を敷くため期開戦を余儀なくされた日本は、 東南アジアに軍を進めて資を手に入れると同時に、アメリカイギリス中国への支援ルートを遮断するため 東南アジアへと侵出する。

   イタリア王国

1928年に、ベニート・ムッソリーニを議長とする「ファシズム大評議会ファシスト党)」が
政の最高機関となった事で、ファシスト党の独裁体制を確立。反対勢を排除していった。
更に1937年国際連盟を脱退。 1939年に「独軍事同盟」を結び、翌年にイギリスフランス宣戦布告
また、自の発言を高めるため大日本帝國ナチスドイツと「日独伊三国軍事同盟」を締結する。

開戦期(1939年)

ポーランド侵攻


戦地に赴くドイツ軍

1938年ナチス・ドイツオーストリアを併合し、その後チェコスロバキアの解体および併合と保護化を強行した。
ドイツ民族の地域を併合していく先は最終的に東プロイセンとの間にあり、ダンツィヒを含むポーラ ンド回廊に向けられることとなる。

ダンツィヒ及びポーランド回廊第一次世界大戦におけるドイツ敗北によりドイツから奪い取られた領土であった。またポーランド回廊は東プロイセンとの間を埋めるために必要であった。

ドイツダンツィヒの編入とポーランド回廊自由通過を要するが、英から独立保障を受けていたポーランドはこれを拒否した。ドイツ陸軍参謀総長フランツ・ハルダーはポーランド侵攻計画「の場合」を起案。攻撃は宣戦布告より前に行われることになっており、空軍陸軍の連携の元に速やかに包囲殲滅を狙った。

そして1939年9月1日ドイツ空軍ポーランド都市ヴィエルニを爆したことにより、ポーランド侵攻作戦は始まった。ポーランド側の計画では、ドイツ軍を足止めしつつ、英同盟の援軍を待ち、動員が了しだい英連合軍に呼応して攻勢をかける手はずだった。

しかし、計画は裏に出た。ポーランド陸軍の兵ドイツとのに細長く引き伸ばされており、しばしばドイツ機甲師団に包囲された。

9月3日ドイツ宣戦布告し、ここに第二次世界大戦が始まる。しかし両国ドイツには宣戦布告したが、救援のためポーランドまで進軍してドイツ軍との交戦は行わなかった。またヒトラーは、以前から宥和政策を実施し、反共義という点で利が一致していた英両国が、宣戦布告してくると想定していなかった。
 

装備、錬度、数的優位に立つドイツ軍に対し、ポーランド軍はソ連とのまで後退を余儀なくされる。
これに対しソ連事前秘密協定に基づきソ連ポーランド不可侵条約を一方的に破棄してポーランドへ東から侵攻。カーゾン線まで達した。一方、ポーランドとの相互援助協定が有るにもかかわらず、英は、ソ連に対し宣戦布告を行わなかった。予想外の攻撃にポーランド軍は壊滅し、中立ルーマニアへ脱出。
よって独ソ両国は、僅か1ヶ後の10月6日ポーランド全域の占領に成功した。

その後ポーランドは独ソ両国分割され、ドイツ軍占領地域から、ユダヤ人ゲットーへの強制収容が始まった。ソ連軍占領地域でもカティンの森事件で25,000人のポーランド人が殺され、1939年から1941年にかけて、約180万人が殺又は外追放された。

冬戦争


ソ連フィンランドへ侵攻

一方ソ連軍は11月30日、多数の戦車航空機を投入し、フィンランド領内へ侵攻を開始した。 対するフィンランド軍は、装備は旧式のままで多くの人々からフィンランドが降するのは時間の問題だと 考えられていた。 しかし、フィンランド軍の士気は非常に高く、火炎瓶カモフラージュを用いた狙撃ソ連軍は多大な被害を負った。 これを受けてヒトラーは、スターリンの大粛清によりソ連軍の錬度が落ちているというドイツ諜報部の情報を確信した。

また、戦闘の準備を十分にしていなかったソ連軍を容赦なく襲った。 それでもなおソ連軍の物量に抗することはできず、ついにフィンランドは肥沃な都市部であったカレリア地帯を割譲すると言う屈辱的な講話を余儀なくされる。後に彼らはヒトラーと手を結んで一度は領土奪回を帰するが、21世紀現在になっても返還されていない。

なお、冬戦争によりソ連国際連盟を除名された。日本ドイツイタリアに続き、ソ連国際連盟から脱退・除名となり、相次いで大が抜けたことで、国際連盟はますます形骸化した。

枢軸国の攻勢期(1940年~1941年上半期)

まやかし戦争からフランス降伏まで

1939年ドイツポーランド侵攻を機にイギリスフランスドイツ宣戦布告した。
しかし、ポーランド戦争中は独仏国があるはずの西部戦線では大規模な戦闘はほとんど行われず、ファニーウォー(まやかし戦争)と呼ばれる着状態が続いた。
とはいえ、停滞気味な陸上べ、上ではラプラタ沖海戦のように活発な戦闘行為が行われていた。


パリに入するドイツ軍

1940年4月ドイツ中立であったデンマークノルウェーに突如侵攻し占領した(ヴェーザー演習作戦)。しかし、ノルウェー侵攻で脆弱なドイツ海軍は多数の水上艦艇を失った。5月10日西部戦線のドイツ軍は、戦略的に重要なベルギーオランダルクセンブルクベネルクスに侵攻。オランダ5月15日に降し、政府は王室ともどもロンドン亡命。またベルギー政府イギリス亡命し、5月28日ドイツと休戦条約を結んだ。なおアジアにおけるオランダ植民地亡命政府に準じて、連合側につくこととなる。同じ日、イギリスではウィンストン・チャーチル首相に就任し、戦時挙一致内閣が成立した。

ドイツ軍は、フランスとの沿いに、ベルギーまで続く外からの侵略を防ぐ楯として期待されていた巨大地下要塞・マジノ線回。侵攻不可能と言われていたアルンヌ地方の深いをあっさり突破して、フランス東部に侵入。電撃戦く間に制圧し、英連合軍をドーバー海峡に面するダンケルクへ追い詰めた。

一方、イギリス海軍は英連合軍を救出するためダイナモ作戦を展開。その際、ドイツ軍が消耗した機甲師団を温存し妨作戦に投入しなかったため、またイギリス空軍の活躍により、約3万人の捕虜と多くの兵器類は放棄したものの、陸上部隊は撤退に成功。6月4日までにダンケルクから約34万人もの英連合軍を救出した。

敗色濃厚なフランス軍は散発的な抵抗しか出来ず、6月10日にはパリを放棄した。同日、フランス敗北濃厚になったのを見てムッソリーニイタリアも、ドイツ勝利に相乗りせんとばかりに、イギリスフランスに対し宣戦布告6月14日ドイツ軍は戦禍を受けていないほぼ傷のパリに入した。6月22日フランス軍はパリ近郊コンピエーニュのにおいてドイツ軍への降文書に調印した。なお、降に際して第一次世界大戦ドイツ軍が降調印した際に使用した客博物館から取り寄せ、調印した時と同じ場所に据えた。その後、ドイツによるフランス全土に対する占領が始まった直後、講和フィリップペタ元帥率いるヴィシー政権立される。

一方、ロンドン亡命した元防次官兼陸軍次官のシャルル・ド・ゴールが「自由フランス民委員会」を組織する傍ら、ロンドンBBC放送を通じて対独抗戦の継続独的中立政権であるヴィシー政権への抵抗民に呼びかけ、イギリスアメリカなどの連合の協を取り付けてフランス内外の抵抗運動支援した。

7月3日イギリス海軍部隊が、、ドイツ側戦になることを防ぐべくフランス植民地アルジェリアメルスエル・ケビールに停泊していたフランス海軍を攻撃し、大損を与えた(カタパルト作戦)。アルジェリアフランス艦艇は、ヴィシー政権揮下にあったものの、ドイツ軍に対し積極的に協する姿勢を見せていなかった。それにも拘らず連合軍が攻撃を行って多数の艦艇を破壊し、多数の死傷者を出したために、ヴィシー政権のみならず、ド・ゴール率いる自由フランスさえ、イギリスアメリカの首に対し猛抗議を行った。また、イギリス軍と自由フランス軍は9月フランス領西アフリカのダカール攻略作戦(メナス作戦)を行ったがフランス軍に撃退された。

ゼーレヴェ作戦とバトル・オブ・ブリテン

ヨーロッパから連合駆逐したドイツ軍イギリス本土の制圧に乗り出す。このイギリス本土上陸作戦をゼーレヴェ作戦と呼ぶ。なお、「ゼーレヴェ」とはドイツ語アシカを意味する。

1940年7月16日付の総統アドルフ・ヒトラー作戦実施の最低条件を以下のように提示した。

(Wikipedeiaより引用)

このように、イギリスに上陸し、ロンドンを制圧するためにはドーバー海峡およびブリテン南部の制権・制権が必要だった。


バトルオブブリテン

ドイツイギリス上陸を決め込むと制権確保のための独英航空戦が本格化した。チャーチル首相演説引用して、これをバトルオブブリテンと呼ぶ。

まず上陸作戦の前戦として、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリングは、8月13日から本格的に爆を開始するよう。この頃、イギリス政府ドイツ軍の上陸と占領に備え、王室と政府カナダへ避難する準備と、都市爆撃化に備えて疎開を実施。イギリス民と共に、国家を挙げてドイツ軍の攻撃に抵抗した。

イギリス空軍は、スピットファイアハリケーンなどの戦闘機や、当時実用化されたばかりのレーダーを駆使してしい中戦を展開。ドイツ空軍は、 He 111や Ju 88などの爆撃機で、当初は軍需工場空軍基地、レーダー施設などの軍事施設を爆撃していたが、ロンドンへの誤爆とそれに対するベルリンへの報復爆撃を受け、最終的にロンドンへと爆撃標を変更した。しかし、 Bf 109戦闘機の航続距離不足で爆撃機を十分護衛できず、爆撃隊は大損を被り、また開戦以来、電撃戦で大戦果を上げてきた急降下爆撃隊も大損を被った。その結果、ドイツ空軍9月15日以降、間のロンドン襲を中止した。

このように当初はドイツ空軍が優勢だったが、イギリスの物量と最新鋭レーダー網、イギリス人の耐強さにより、戦況は徐々にイギリスに傾いていく。
これに加え、バトルオブブリテン後半に基地よりも戦略的価値のない都市差別爆撃を行うようになったというドイツ空軍戦略失敗したことも大きな原因である。
特にドイツ空軍によるロンドン大空襲はイギリス人の戦意を挫くどころか、逆に彼らの復讐心を煽り、彼らを一致団結させた。

こうしてドイツ空軍は制権を獲得出来なかった。
また、英独海軍にもともと大きな差があるだけでなく、デンマークノルウェー侵攻の際に多数の駆逐艦を失ったことで制権の確保、イギリス海軍拘束という上陸作戦実施の条件を何一つ果たせなかった。

権・制権を確保できず、ゼーレヴェ作戦は期限延期(事実上の断念)となった。

戦線の拡大期(1941年下半期)

バルバロッサ作戦からの独ソ戦開始

1941年に入るとドイツ軍バルカン半島々を次々と占領し、ソ連を接し、関係が悪化する。

短期決戦どころかイギリスとの戦闘が泥沼化したドイツソ連を屈させれば対英交渉も有利に持ち込めると考えるようになった。何より東方への生存圏拡大をしてきたヒトラーにとってソ連は倒さなければならない宿敵であった。

6月22日ドイツは不可侵条約を破棄し、バルバロッサ作戦を発動、独ソ戦が始まった。

北はフィンランドから南は黒海に至る線から、イタリアルーマニアハンガリーなど他の枢軸国と共に約300万の軍で対ソ侵攻作戦バルバロッサ作戦)を開始した。6月26日冬戦争以来の因縁からフィンランドソ連宣戦布告継続戦争も併行して勃発した。開戦当初、赤軍(当時のソ連軍の呼称)の前線部隊混乱し、膨大な数の戦死者、捕虜を出し敗北を重ねる。歴史的に反共感情が強かったウクライナバルトなどに侵攻した枢軸軍は共産主義ロシアの圧政下にあった諸民族からは解放軍として迎えられ、多くの若者武装親衛隊に志願することとなった。また、西ヨーロッパ各地からもフランス義勇軍 などの反共義勇兵が枢軸国軍に参加した。

ドイツ軍7月16日にスモレンスク、9月19日キエフを占領。さらに北部のレニングラードを包囲し、10月中旬には首都モスクワに接近。内では一時混乱状態も発生し、約960km離れたクイビシェフへの政府の一部疎開を余儀なくされた。しかし、急な侵攻を続けていたドイツ軍は、その頃から泥まみれの悪路に悩まされ、加えて補給の滞りから進撃の速度が緩んだ。またソ連軍の新T-34戦車KV-1戦車カチューシャロケットなどに苦戦。そしてに備えた装備も不足したまま、11月には例年より冬将軍の到来で厳しい寒さに見舞われる。

8月9日イギリスアメリカは領土拡大意図を否定する大西章を締結し世界に発表した。8月25日ソ連イギリス連合軍は中立イランに南北から進撃すると直ちに占領下においた(イラン進駐)。イラン国王中立アメリカ連合軍の攻撃を止めさせるよう訴えたが、ルーズベルト大統領は拒絶した。イランを占領下においたことでペルシア回廊を確保したイギリスアメリカソ連への大規模軍事援助を行うことに成功した。

ポーランドフィンランドへの侵攻、バルト三国併合などの理由で、それまでソ連距離をおいていたイギリスアメリカは、独ソ戦開始後、ソ連イギリス側に受け入れることを決定。武器貸与法にしたがって膨大な物資の援助が始まる。一方、ドイツ日本に対し、東から対ソ攻撃を行うよう働きかけるが、日本独ソ戦開始前の1941年4月13日には日ソ中立条約を締結していた。また南方の資確保をした日本政府は、東南アジアなどの南方面進出を決め、対ソ参戦を断念する。

ソ連はリヒャルトゾルゲなど日本に送り込んだスパイ情報により、この情報を察知し、極東ソ連軍の一部をヨーロッパに振り分けることができた。ドイツ軍は厳寒の中、11月半ばにはモスクワへの進攻を再開し、モスクワ近郊約23kmにまで迫ったが12月5日赤軍は反撃を開始してドイツ軍150km以上も撃退した。ドイツ軍は開戦以来、かつてい大敗北を喫した。


当初赤軍スターリン1930年代に行った大粛清によって弱体化していた上に、ドイツ軍の侵攻に準備していなかった。むしろ、精鋭部隊は、満州国シベリア境線に配置していたことから、日本との開戦を想定していた模様。これは、日ソ中立条約は結んでいたものの、ノモンハン事件など、日ソ関係は消して良好とはいえなかったからである。
そのためにドイツ軍は快進撃を続け、モスクワ郊外まで迫った。(ただし近年、赤軍ドイツへの先制攻撃または限定的な予防戦争を含めた西方への進出を企図していたという見解も出されている)
しかし、例年よりも冬将軍が到来し、ソ連軍の焦土作戦により補給が厳しくなったドイツ軍は後退を始めた。

日本の真珠湾攻撃とアメリカの参戦

詳細は「真珠湾攻撃」「大東亜戦争」および「太平洋戦争」の記事を参照。


パールハーバー

1941年10月東條内閣が成立。 その2ヶ後、1941年12月大本営連合艦隊真珠湾攻撃準備を命する。 そして12月8日日本海軍機動部隊から出撃した航空部隊が、ハワイ・オアフ真珠湾に奇襲を掛ける。 真珠湾攻撃太平洋艦隊は艦艇5隻が沈没し、米国民間人68人と、軍関係者2336名が死亡した。 12月7日、「宣戦布告なしに奇襲するのは卑怯だ」という世論を後ろに、アメリカ大統領ルーズベルト日本に対し宣戦布告する。
これにより、大東亜戦争(当時)が始まった。また、この数日後、独米国宣戦布告し、戦線は全世界に広がった。
ちなみに、日本ドイツの快進撃にされて宣戦布告をしたが、奇しくも12月といえば、ドイツモスクワを後退し始めた頃である。

戦局の転換期(1942年)

それまで破の勢いだった日独両国は、1942年ごろから徐々に戦線を後退させるようになった。

ドイツ

「土台が腐った納屋は入り口を一蹴りするだけで倒壊する」とヒトラーが語ったという逸話があるように、ドイツ(というかヒトラー)はソ連も短期決戦勝利できると想定していたが、前述の通り、モスクワを占領できず、シベリアに配置していた大軍がモスクワへ帰還したため、短期決戦を諦め、持久戦へと切り替えた。しかし、もともと「持たざる」のドイツにとって、持久戦はジリ貧を招く以外の何物でもなかった。
1942年南方カフカース田を占拠するために、ドイツ軍は「ブラ作戦」を発動した。
当初はスターリングラード標ではなかったが、ヒトラーの一言で、作戦は変更された。
同年6月28日にかの有名な「スターリングラード攻防戦」が開始された。約8ヶ続いたこの戦いでは、国家元首の名前が冠されるこの地での赤軍の奮闘っぷりが、ドイツ軍の予想を大いに裏切り、建物1つを争うほどの戦区となった。
当初はドイツ軍スターリングラードを包囲していたが、後に逆包囲された。ヒトラーの絶対死守命により降を許されなかったドイツ軍はこの戦いで多くの戦死者を出し、この頃からドイツの敗戦は徐々に色濃くなってきた。

日本

日本は、英領シンガポール米国植民地であったフィリピンを占領するなど、まさに連戦連勝であり、東南アジアの占領地を増やし、戦線を拡大させた。
しかし、4月米国軍から東京襲を受けたことは、軍部に衝撃を与えた。これを受けて、米海軍機動部隊叩き太平洋方面へ戦線を拡げるために、ミッドウェー攻略を決める。

1942年6月、ミッドウェー派遣された日本の機動部隊米国の機動部隊に大敗を喫した(ミッドウェー海戦)。この結果、日本空母4隻を失ったが、何より熟練搭乗員を多く失うこととなり、量はともかく質的な意味で機動部隊は失った戦回復することはできなかった。
当初優位に立っていた日本が虎の子の空母を熟練搭乗員を多く失った一方で、物量の面で圧倒的に優位だった米国は、この戦い以後も空母をどんどん投入し、次第に戦局の導権を握ることとなる。そのため、この戦が太平洋戦争でのターニングポイントと呼ばれる。
なお、この戦いの結果は民には日本海軍勝利と伝えられた。この頃から民に対しての戦果を伝える状態が続くようになる。

導権を握り始めた米軍は、日本軍の飛行場があったガダルカナル島を制圧した。以後、このを巡って、日本軍米軍の間でガダルカナル島の戦いや第1次・第2次ソロモン戦が起き、日本軍は戦を大きく消耗し、戦線の後退を始めた。

 終戦

イタリア軍


イタリア軍

ヒトラー政権の崩壊

投下された原爆

1943年7月25日議会国王によるクーデターにより、ムッソリーニが失脚。
7月25日イタリア・バドリオ政権は連合無条件する。
ムッソリーニは一度はドイツ軍に救出され北イタリアに傀儡政権を立するが、1945年4月、戦局の悪化に伴い中立スイスに向かう途中、コモ畔の小でパルチザンに発見され、同28日に殺される。
死体ミラノの広場にさらされた。

ドイツ軍

1945年4月30日首都ベルリンへのソ連軍侵攻を前にして、前日結婚した愛人エヴァブラウンと共に自決
同年5月7日ベルリンソ連軍に占領されて後継導者のデーニッツ率いるドイツ軍無条件。ここにナチ党・ヒトラー政権は消滅したのであった。

日本軍

イタリアドイツの降により、日本に降を迫った「ポツダム宣言」が連合側から発せられる。 ポツダム宣言には「国体の護持」(天皇制の維持)が明記されていなかったため、日本政府および軍の首の間で、宣言を受諾すべきか否かにつきかの議論が20日間繰り返され、その間も、米軍による襲は続けられた。また、この間日本政府中立であったソ連を通じた和工作を模索していた。
7月28日日本政府は重大な価値がある物と認めず、ポツダム宣言を「黙殺」すると発表した。
土が焦土化された現状を見ても、若者を中心とした当時の民の士気が非常に高かった。このままポツダム宣言を受諾した場合は、「あくまで戦う者」と「敗戦を受け入れる者」の間で幕末期の尊王攘夷のような大きな内乱になる事が容易に想像出来たからである。ちなみに大本営内部でも意見はっ二つに分かれたという。
その後、アメリカ合衆国8月6日広島に ついで8月9日には長崎原子爆弾を投下した。 これらは世界で初の、そして現時点では最後の実戦における核攻撃である。
また、8月9日にはソビエト連邦が日ソ中立条約を一方的に破棄し宣戦を布告した。
8月9日、御前会議で「国体の護持」を条件に受諾を決定し、8月10日連合に打電。
8月15日に、昭和天皇による「玉音放送」が流され、9月2日に降文書に調印した。
ここに人類史上最大の戦争は幕を閉じた。

戦争が残した爪あと

この大戦の被害余りにも大きく、全世界での死者総数は5000万人から6000万人と推定されている。

具体的な犠牲者数は現在でも特定はされておらず、下記統計も参考程度とご理解下さい。

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掲示板

  • 1191 ななしのよっしん

    2024/09/22(日) 20:11:33 ID: N4DBm0qBkL

    独ソ戦はどっちかと言うと当初のソ連側の杜撰作戦のせいで
    駄に犠牲者増えたせいもある

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  • 1192 ななしのよっしん

    2024/09/26(木) 10:17:13 ID: fL2t3c1pCn

    >>1183
    >イデオロギーの違いなんかが戦争の理由になったりしないだろ
    それは戦争定義による

    の戦いのみを戦争と捉えるなら、確かに純にイデオロギーが開戦理由のものは少ないが
    内戦とか含めれば話は別
    19世紀ヨーロッパとか、封建制(絶対義)支持者と自由義者による内戦がそこら中で起こっていたぞ

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  • 1193 ななしのよっしん

    2024/10/31(木) 19:54:39 ID: Dp1vUpt3YD

    ずさんじゃなくて最初から人命をコスト計算から外した上での合理的計算で特攻の同じなんだが必死と違って陸続きの丘の上だし生き残る率が高くて実際生き残るのが多いから別物と思われるけど
    それが今までも成功してきたから今もやってるじゃん

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