安達泰盛(1231~1285)とは、鎌倉時代に活躍した武将である。
蒙古襲来絵巻に登場するため意外と有名人でもある。
概要
父親は安達義景、母親は小笠原時長の娘。叔母・松下禅尼は北条時頼の生母。彼の妹、もしくは娘である堀内殿は北条時宗の妻、と前代の将軍派と執権派の争いの中で三浦氏に代わり安達氏が執権の外戚となり権勢を得た中で育った。そのため得宗・北条時頼及びその子北条時宗に重用される。1253年には家督を継ぎ、秋田城介、評定衆、越訴奉行、陸奥守などを歴任した。
蒙古襲来を受けて寄合衆として活躍するが、次第に寄合衆に加わってきた御内人と政権構想をめぐって対立する。彼は幕府の権力を拡大し将軍を中心とした「大きな幕府」を目指したのだが、得宗政治の拡充を目指す「小さな幕府」を目指す平頼綱らと対立したのである。
やがて三度目の元寇が起きるのではないかという緊張感の中1284年に北条時宗が亡くなり、幼い北条貞時が得宗を継承すると、安達泰盛によって弘安徳政が推進される。しかしこれは平頼綱らの望む幕府の在り方ではなかった。
その結果ついに両者は衝突し、1285年に泰盛が貞時の館へ出向こうとすると御内人らに襲撃され、霜月騒動が生じた。この結果、安達泰盛や嫡男・安達宗景、弟・安達重景、安達長景、安達時景らは没したほか、全国的にも安達派は一斉に襲撃され、金沢顕時といった北条氏一門もその例外ではなかったのである。
こうして安達氏は一時は見る影も亡くなったのだが、平禅門の乱で平頼綱が滅びると安達泰盛の又甥・安達時顕が復権し、以後北条氏とその最期を共にすることとなる。
関連項目
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