水谷則博(みずたに のりひろ)とは、元プロ野球選手である。故人。
OB | |
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水谷則博 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 愛知県名古屋市 |
生年月日 | 1950年4月27日 |
没年月日 | 2001年11月29日 |
身長 体重 |
177cm 73kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 左投左打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1968年 ドラフト2位 |
引退 | 1987年 |
経歴 | |
選手歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
中京高等学校に進学。1年時にはチームの甲子園大会春夏連覇を、2年時には夏の甲子園大会でベスト4を経験したが、控え投手であった水谷に登板機会は無かった。3年時にエースとなり春の甲子園大会に出場したが、1回戦で敗退している。
1968年、中日ドラゴンズから2位指名を受け入団。なお同期には、1位星野仙一、3位大島康徳、9位島谷金二がいる所謂当たり年であった。
1969年、二軍でジュニアオールスターに出場し、一軍では4試合に登板。しかし、中日時代は在籍5シーズンで9試合登板のみと、パッとしない成績に終わっていた。
1973年シーズン途中、投手の駒不足を感じていたロッテオリオンズの金田正一監督からの打診を受け、トレード期限ギリギリでロッテへトレード移籍する。
移籍初年度はリリーフを中心に19試合に登板して3勝を挙げた。
1974年、中継ぎ投手として安定した投球を披露し、2勝1敗1セーブ、防御率2.18と好成績を残してロッテのパ・リーグ制覇、日本一に大きく貢献した。
1975年からは先発投手に転向。同年に9勝を挙げオールスターゲームにも初出場を果たすと、年度ごとに浮き沈みはあったが1977年には8勝、1979年には9勝とロッテの投手陣を支える活躍を見せた。
1980年、初の二桁勝利となる11勝を挙るなど先発ローテーションの軸として活躍し、ロッテの前期優勝に貢献すると、同年から4年連続で二桁勝利を達成。中でも1982年にはパ・リーグ最多の20試合で完投し、14勝を挙げ、防御率2.95と好成績を残した。1983年には2度目のオールスターゲームに出場している。
1983年以降は防御率が4~5点台と打ち込まれる場面も目立った。
引退後はロッテのスカウトに就任。ロッテの主力投手として活躍する吉田篤史・小野晋吾・小林雅英・清水直行・渡辺俊介らを発掘した。
2001年11月29日、急性硬膜下血腫のため死去。享年51歳。
キレのある直球やスライダー、シュート、変化量の違う2種類のカーブなど多彩な変化球を使い分けて活躍した左腕。ポーカーフェイスで淡々と厳しいコースに投げ続けた。
喘息持ちであったためハードなトレーニングを積む事はできなかったが、スタミナは抜群であった。
通算:17年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
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NPB | 476 | 62 | 6 | 108 | 111 | 2 | --- | .493 | 1946.2 | 774 | 952 | 1013 | 868 | 4.01 |
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最終更新:2024/05/04(土) 06:00
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