キングストンタウン(Kingston Town)は、1976年生まれのオーストラリアの競走馬(騸馬)。
史上初にして長らく唯一だったコックスプレート3連覇などGI14勝を挙げて同国史上初の100万オーストラリアドル獲得馬となり、オーストラリア競馬の殿堂には初年度で選出された名馬。
※本項では本馬の調教国に合わせ、8月をシーズンの開始・馬齢の加算として記述する。
父Bletchingly、母Ada Hunter、母父Andrea Mantegnaという血統。
父ブレッチングリーはオーストラリアの大種牡馬Star Kingdomの孫で、1975年のザ・ギャラクシー(現GI、当時はグレード制導入前)勝利を含む5戦4勝2着1回の成績を残した。本馬の世代が初年度産駒である。
母アダハンターは不出走馬。その伯母Tahitiはディアヌ賞を勝っており、同じく伯母のSamandaの牝系から後に*イブンベイ、Ouija Boardなどが出ている。
母父アンドレアマンテーニャは9戦7勝だが、大競走の勝ち鞍は無かった。
Ada Hunterは元々、馬産家でフェデリコ・テシオのファンでもあったオーストラリアの名ゴルファー、ノーマン・フォン・ニダが「(テシオの代表生産馬である)NearcoないしRibotの血を引いていて、Star Kingdom系の種牡馬と相性が良さそうな繁殖牝馬」を目当てに購買してきた馬であった。本馬の生産者で実業家として成功していたデヴィッド・ヘインズが余暇のゴルフ中にフォン・ニダと出会い、Ada Hunterを購買して生産したのが本馬である。なおAda Hunterは脚に湾曲があり、それが遺伝したのか本馬も常に脚部不安を抱えていた。
本馬はかなりの気性難で、1歳セリの前の馴致中には突如縄を振りほどいて暴走し柵に激突するという事故を起こした。幸い後遺症は無かったが、この時の傷跡は生涯にわたって残るほど深いものだった。
セリに出されたが結局主取りとなり、ヘインズとその妻、それからヘインズが権利の半分を売却したモンスボローという夫妻の4人の共同所有馬となった。
現在もT.J.スミスS(GI)にその名を残す名伯楽、トミー・ジョン・スミス師に預けられた本馬だったが、気性は相変わらず酷いものだった。2歳3月に主戦となるマルコム・ジョンストン騎手を背にデビュー戦を迎えたが、出遅れた上に全く前に進まず13頭中13着に終わり、このレース後に早々に去勢された。
6月に復帰し、初戦で単勝34倍の穴を開けて勝利するとその勢いを駆り、シーズンが変わって3歳になっての2戦も連勝。ピーターパンS(GII・1500m)をコースレコード勝ち、グローミングH(GII・1850m)も快勝し、初のGI挑戦となったスプリングチャンピオンS(GI・2000m)では同厩の評判馬Mighty Kingdomに5馬身差をつけて完勝した。
その後メルボルンに遠征し、コーフィールドギニー(GI・1600m)に出走したが重馬場に苦しみ3着、続けて出走したコーフィールドカップ(GI・2400m)とヴィクトリアダービー(GI・2400m)はいずれも手前がスムーズに変わらず4着・ハナ差2着と連敗した。ヴィクトリアダービーの後に前脚の故障が判明したため、しばらく休養することになった。
3ヶ月の間を開けて復帰し、翌年2月のエクスプレスウェイS(GII・1200m)とヘリテージS(1500m)を楽勝。シドニーの名物である3~4月のオータムカーニバル開催を目標とし、脚部不安でカンタベリーギニー(GI)を回避するアクシデントこそあったが翌週のローズヒルギニー(GI・2000m)には出走。ここを4馬身差で完勝した。更には古馬を交えて1番人気に推された翌週のタンクレッドS(GI・2400m)も4馬身半差で勝ち、その翌週のAJCダービー(GI・2400m)も1番人気に応えて3馬身1/4差で勝利した。
16日間でGI3勝を挙げた本馬だが、果敢にも中4日で更にシドニーカップ(GI・3200m)に出走。初の距離に加え大外枠と、日程を鑑みなくても不利な一戦と言えたが、それまで差す競馬で結果を出してきた本馬をジョンストン騎手は先行させ、直線で抜け出して3馬身1/4差で勝利。まる3週間の間にGI4連勝を挙げたことになった。
こんな馬が世代戦に出てきては他馬はひとたまりもなく、グランプリS(GII・2200m)は3頭立てで馬なりのまま2馬身3/4差で楽勝、5頭立てのクイーンズランドダービー(GI・2400m)も2馬身1/4差で楽勝した。
この後に予定されていたブリスベンカップ(GI)は疲労で流石に回避となったが、それでも1979/80シーズンは16戦13勝・GI6勝で年度代表馬に選出された。
4歳時は8月末のウォーウィックS(GII・1400m)から始動してこれを勝利すると、チェルムスフォードS(1800m)は単勝1.05倍の圧倒的人気に応えて、3年前のコーフィールドカップ優勝馬Ming Dynastyに5馬身差をつけ圧勝。STCカップ(GIII・2400m)も勝利して3連勝とし、前シーズンからの連勝を11に伸ばした。
その後メルボルンに遠征し、コーフィールドS(GI・2000m)に出走したが、直線で外にヨレてしまい、前年のメルボルンカップを勝ったHypernoにクビ差で敗れ連勝ストップとなった。続くコーフィールドカップでもMing DynastyとHypernoの後塵を拝し3着に終わった。
メルボルンに遠征して出走した左回りのレースでは5戦5敗となり、左回り適性が不安視されたが、陣営は更にコックスプレート(GI・2040m)への出走を決定した。リスグラシューが遠征した際にも話題となったようにコーナーが急で最後の直線も173mというトリッキーなコース形態のムーニーバレー競馬場で行われるレースではあるが、調教中も急コーナーならスムーズに曲がれていたことから、陣営はチャンスと見ていたようである。そしてその読みは的中し、3番手で直線を向くと一気に他馬を交わし、そのまま突き放して5馬身差で圧勝した。
中9日のメルボルンカップでも期待を集める存在となった本馬だが、前脚の靭帯に損傷が発覚し、シーズンの残りは全休となった。4歳時は約2ヶ月の間に6戦4勝を挙げた。
5歳時は8月にプリミエールS(GIII・1200m)で復帰するとこれを快勝し、ウォーウィックS、チェルムスフォードS(この年からGII)ではいずれも2歳上のAJCダービー馬Belmura Ladを2着に破って勝利した。総獲得賞金100万オーストラリアドル到達がかかった次走STCカップも4馬身差で楽勝し、オーストラリア競馬史上初めて100万オーストラリアドルを獲得した競走馬となった。
続けて出走したジョージ・メインS(GI・1600m)も1:34.3のレースレコードで勝利し、再びメルボルンへ向かいコーフィールドSに出走した。早め早めの競馬でスムーズに走れないロスを補おうとしたジョンストン騎手の作戦も当たり、ゴール前で並びかけてきたSovereign Redを差し返して1馬身半差で勝利した。続くコックスプレートはジョンストン騎手の騎乗停止のためロン・クイントン騎手に乗り替わったが、3/4馬身差で勝利し史上7頭目の連覇を達成した。
この勢いでマッキノンS(GI・2000m)に出走したが、フレミントン競馬場の長く続くコーナーに苦戦したか前年のこのレースの勝ち馬でもあるBelmura Ladに1馬身半差を付けられ、No Peerとの2着争いをハナ差で制するのが精一杯だった。更に悪いことに脚部不安が再発し、中2日のメルボルンカップは獣医の検査でOKが出たため出走こそしたものの22頭中20着に終わった。その後は調教には一度復帰したものの再び脚部不安が出たため、結局メルボルンカップ以降はこのシーズンの出走はなかった。5歳時は約3ヶ月で9戦7勝の成績を挙げた。
6歳時は初戦ウォーウィックSを勝って同レース3連覇としたが、続くチェルムスフォードSでは失速した逃げ馬が壁になって4着に敗れ、デビュー戦以来22戦ぶりに地元シドニーでの敗戦を喫した。更に4頭立てとなったヒルS(GII・1750m)ではマークが集中したこともあって、本馬より11kgも軽い48kgの斤量で出走した3歳馬Cossack Princeにアタマ差で敗れた。
この敗戦で限界説も囁かれたが、ジョージ・メインSとコーフィールドSを連覇したことで悪いムードも消え去り、史上初の3連覇を目指してコックスプレートに駒を進めた。連続でない3勝を達成した馬もおらず、本馬が達成すれば史上初の快挙となるという注目の一戦は、この年のコーフィールドギニーとヴィクトリアダービーを制したGrosvenor、この年のコーフィールドカップの勝ち馬Gurner's Laneらが相手となった。
騎乗停止となっていたジョンストン騎手に代わって前走から騎乗していたピーター・クック騎手が手綱を執る本馬は道中中団を追走。勝負どころでも中々動きが見られず、実況アナウンサーに「Kingston Town can't win」と早々に言われてしまうほど手応えが悪く映った本馬だったが、4角で外に出されると直線を向いて一気に加速。残り100mを切ったところで先頭を奪うGrosvenorを更に上回る勢いで大外から一閃、30m地点で先頭に立つとそのまま半馬身差で勝利し、ムーニーバレーは拍手喝采の嵐となった。
コックスプレート3連覇はその後、2015~18年にWinxが4連覇するまで長らく本馬だけが持つ記録となっていた(本馬以降に同馬以外で3連覇に挑戦したのもSunlineのみ)。
ところで、先述の「Kingston Town can't win」という実況は本馬がそれを覆して勝利したことにより、デカデカと実況を印字したシャツが作られる、オーストラリア競馬の大手放送局であるRacing.comの公式Facebookで「あなたにとって最も印象的な実況は?」というアンケートの回答例に出される
など、日本の「高低差200mの坂」もかくやという有名なネタと化してしまった。
閑話休題、コックスプレートの次走は前年全く良いところがなかったリベンジを果たしたいメルボルンカップとなったが、一旦先頭に立ったところをGurner's Laneに差され、クビ差の2着に惜敗した。続けてパースカップ(当時GI)を目指して西海岸に向かい、馬場慣らしも兼ねて出走したウエスタンメールクラシック(GI・1800m)を快勝したものの、ここでまたしても脚部不安が悪化しシーズン終了となった。6歳時は3ヶ月で8戦5勝となった。
今回の脚部不安はかなり重く、例年なら復帰出来ていた8月になっても回復の兆しが見えず、コックスプレート4連覇にも挑戦することが出来なかった。
それから更に4ヶ月が経った1984年2月、アメリカに移動して靭帯の治療を行い、改善されたためチャールズ・ウィッティンガム師の調整を受けて復帰を目指した。ここで復帰が叶えば9歳にして復活していた古豪John Henryとの対戦も実現していた可能性があったが、復帰直前に脚部不安が再発し帰国を余儀なくされた。
更にじっくり休養を取った上で、1985年9月にSTCカップのレース前パレードに参加した後、フレミントン競馬場のリンリスゴーS(GII)を目標にし、調教中に400mを24.5秒で走破するほど態勢が整ったが、前日に降雨による馬場の悪化のためこれを回避。陣営も諦めず、シドニーのフェスティバルHを目標に態勢を立て直していたが、レース1週間前にまたも脚部不安を発生。ここに至ってとうとう引退となった。結果的にラストランとなったウエスタンメールクラシックから約3年後のことであった。
引退後は生まれ故郷であるキングストンパークスタッドで功労馬となったが、1990年末、放牧中に他馬と遊んでいた際に膝を骨折。予後不良級の負傷ながら本馬の功績を鑑みて隔離治療が行われ、何とか歩けるくらいの小康状態に入ったが、1991年3月に負傷した脚で壁を蹴り上げるという事故を起こしてしまった。今度の骨折は流石に手の施しようが無く、14歳で安楽死措置となり、遺体はキングストンパークスタッドに埋葬された。
通算成績は41戦30勝2着5回3着2回・GI14勝。度重なる脚部不安の影響で1980/81シーズン以降は3シーズン続けて8~11月(1980年に至っては10月末)という僅かな期間しか走れていないことを考えれば、非常に濃密なキャリアだったと言えるだろう。
2001年、オーストラリア競馬の殿堂の初年度殿堂馬5頭の中に、グレード制導入後に走った馬として唯一名を連ねた。最後のレースとなったウエスタンメールクラシックはその後何度かの改称を経て、2007年から本馬を称えて「キングストンタウンクラシック」という名称で開催されている。
Bletchingly 1970 黒鹿毛 |
Biscay 1965 栗毛 |
Star Kingdom | Stardust |
Impromptu | |||
Magic Symbol | Makarpura | ||
Magic Wonder | |||
Coogee 1959 鹿毛 |
Relic | War Relic | |
Bridal Colors | |||
Last Judgement | Fair Trial | ||
Faustina | |||
Ada Hunter 1970 鹿毛 FNo.12-b |
Andrea Mantegna 1961 鹿毛 |
Ribot | Tenerani |
Romanella | |||
Angela Rucellai | Rockefella | ||
Aristareta | |||
Almah 1957 栗毛 |
Alycidon | Donatella | |
Aurora | |||
Gradisca | Goya | ||
Phebe | |||
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最終更新:2025/03/23(日) 08:00
最終更新:2025/03/23(日) 08:00
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