リボー(Ribot)とは、1952年生まれのイタリアの競走馬。
凱旋門賞連覇を含む16戦16勝という恐るべき戦績を残した名馬で、競走馬でありながらイタリアの「20世紀を代表するスポーツ選手」第4位に選ばれている。
父Tenerani、母Romanella、母父El Grecoという血統。
簡単に説明すると、父テネラニはセントサイモン直系で、3歳時にはダービーを筆頭とするイタリア国内の大レースを総ナメにした名馬。
母ロマネラは7戦5勝でイタリア最優秀2歳牝馬となったが故障のためそのまま繁殖入りしている。
母父エルグレコはリットリオ賞(現:イタリア共和国大統領賞)勝ちなど21戦17勝の活躍馬。
生産者は「ドルメロの魔術師」と呼ばれたイタリアの天才馬産家フェデリコ・テシオ。この男はネアルコを筆頭に現在のサラブレッド血統に重大な影響を与える名馬を何頭も生産したとんでもない人物なのだが、その最高傑作が他ならぬリボーであった。
何となれば、サイアーラインはテシオが生前「生涯最高の馬」と呼んだ曽祖父カヴァリエレダルピーノに至るまでテシオの生産所有馬で、母父もテシオの生産馬であり、祖母バーバラブリーニもテシオが繁殖牝馬として購入した馬なのである。リボーはまさしくフェデリコ・テシオという大馬産家の手塩にかけた集大成と呼ぶに相応しい馬だったと言えよう。
ちなみにリボーは父も母もテシオの生産馬なのでイタリア産馬と思われそうだが、テネラニはリボーが生まれる前年に英国に売却されており、そこにロマネラを送って交配して生まれたのがリボーなので、一応リボーは英国産馬である。テシオは血の偏りを防ぐためにあまり自分の所に種牡馬を置かない主義だったため、父母共にテシオの生産馬という馬がテシオの手によって生産されることは稀だったので、リボーはテシオの生産馬の中ではかなり特殊な馬と言える。
テシオは自分の所有馬に芸術家の名前を付けるのを常としていたが、最晩年にはネタが無くなったのか、リボーの元ネタである19世紀のフランスの画家「テオデュール・オーギュスタン・リボー」はリボーが活躍した50年代の雑誌ですら「忘れられた」とハッキリ書かれるレベルで現代では忘れられた人物である。一応同国の名誉勲章であるレジオンドヌール勲章を受賞した当時の写実主義の代表的画家ではあるが、現在ではまず間違いなく馬の方が断然有名であろう。
仔馬の頃は「イル・ピッコロ(『ちびすけ』という意。緑色のあの人は関係無い)」と呼ばれたくらい小さかったリボー。テシオは生産馬主だけではなく調教もやった人なのでテシオの厩舎に入厩したのだが、その時担当に立候補したのが、後年深い絆で有名になるマリオ・マルチェシ厩務員(あの配管工は関係無い)だった。ちなみに成長するにつれてリボーは大柄になっていったが、体重は一番重いときでも410kg程度のヒョロッとした馬だったという。
幼少期のリボーについてはテシオが「どうにも良く分からんけど、いずれひとかどの馬になる気がする」と言っていたという説もあるし、クラシック登録しなかったぐらいだから実はそんなに期待していなかったという説もあるが、明確な文献に残らないままテシオはリボーのデビューの2ヶ月前に亡くなったため、リボーの幼少期の評価は謎に包まれている。
さて、テシオとともにドルメロ牧場を経営していたマリオ・デラ・ロチェッタ侯爵とリディア未亡人の共同所有となったリボーはウーゴ・ペンコ厩舎の所属となり、全戦でコンビを組むことになるエンリコ・カミーチ騎手とのコンビで2歳7月に競馬場に登場。デビュー2戦を逃げ切り勝ちしてその素質の高さを垣間見せる。
次戦となった2歳最強馬決定戦のグランクリテリウムでは距離が少し長いからと鞍上が抑えようとしたため気を悪くして折り合いを欠いたが、なんとかアタマ差で辛勝し、2歳戦を3戦3勝で終えた。これ以降、リボーのレースはリボー任せが基本となる。
ここまででも十分凄いのだが、3歳を迎えていよいよその強さはその凄みを増すことになる。何しろ初戦から6馬身、10馬身と圧勝続き。次戦こそ球節の痛みと呼吸器疾患による休養明けだったのが響いたためか1馬身差だったものの、次戦では10馬身差で再び圧勝した。
クラシック登録が無いリボーには、逆に言えばクラシックレースを目指すという縛りがなかった。なので、亡きテシオが生前一度も果たせなかった凱旋門賞制覇を3歳の大目標と定め、7戦7勝の戦績で10月のフランスに遠征。この頃にはもう「ちびすけ」の面影はない堂々たる馬体に成長していた。
その凱旋門賞では7戦無敗ながら3番人気だった。というのも当時はイタリア競馬自体がナメられており、「イタリアで7戦無敗だからって本場で通用するとは限らないよね」的な見方をされたのである。1番人気になったのはフランスの最優秀2歳牝馬に輝いた4歳牝馬コルドヴァをはじめとした当地の名馬産家マルセル・ブサックの所有馬4頭のカップリング(欧州競馬では馬券を売る際、同一馬主の馬はまとめて1頭という扱いにすることが多い)、2番人気はジョッケクルブ賞(仏ダービー)を勝った*ラパスで、その他にも仏グランクリテリウムを勝っているこの年のセントレジャー3着馬*ボウプリンス、前年の愛ダービー馬*ザラズーストラなどが参戦していた。
ところがレースでは蓋を開けてみると2番手から直線で一気に抜け出して独走。ノーステッキ、しかもゴール前ではカミーチ騎手が抑える余裕を見せながら、2着*ボウプリンスに3馬身差をつけて楽勝したのだった。
この圧勝は当然ヨーロッパ中で大騒ぎとなり、アメリカからも当時最大級の競走・ワシントンDCインターナショナルの招待が届いたのだが、陣営はこれを辞退。そして僅か2週間後、母国イタリアの大レース・ジョッキークラブ大賞に登場したリボーはこのレースを前々年・前年と連覇していたノルマンを15馬身ちぎって圧勝。6戦全勝で3歳シーズンを終えて当然最優秀3歳牡馬となり、最強馬の地位を確かなものにした。
近年ならこれで引退しても良いほどの戦績だが、リボーは4歳になっても現役を続行。手始めにイタリア国内で4・12・8・8馬身差で4連勝して、デビューからの連勝記録を13に伸ばした。この内最後のレースは当時のイタリア最大のレース・ミラノ大賞で、その対戦相手にはリボーの引退後にイタリア国内の大レースを総ナメにするティソットも含まれていた。
リボーは続けてキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスステークス、通称「キングジョージ」を目指してイギリスに向かった。というのも前年の凱旋門賞のレベルに英国では疑問符がつけられ、英タイムフォーム社のレートは3歳時に短距離戦線で8戦全勝の成績を残して引退したパッパフォーウェイより6ポンドも低かったりと、なかなかリボーの強さが認められなかったからである。
このレースでは単勝1.4倍の圧倒的支持を受け、それに応えてリボーは楽勝。2着との着差5馬身は1971年に6馬身差で勝利したミルリーフが更新するまでのレース記録であり、古馬となると2010年に11馬身差で勝利した*ハービンジャーが現れるまで半世紀以上にわたって保持された記録であった。こんなパフォーマンスを見せられては、流石に「競馬はイギリスこそNo.1だ!」と息巻くイギリス紳士たちもぐうの音も出なかったといい、普通は王室所有の馬が勝った時にしか行われない「脱帽しての敬礼」が行われたそうである。
タイムフォーム社の元記者2人が1999年に執筆した「A Century of Champions」という書籍における歴代のキングジョージ勝ち馬のランキングの中で、かのニジンスキーや*ダンシングブレーヴなどの6頭を抑えてただ1頭最高位となる「Greatest」というランクを与えられていることからも、そのインパクトは窺い知れよう。
さて、秋初戦となる自国のピアッツァーレ賞を8馬身差で圧勝した後、リボーは連覇を目指して凱旋門賞に向かった。この年は前年以上の超豪華メンバーとなり、
などが対戦相手となった。
しかしながら、所詮イタリア最強馬止まりの内弁慶とナメられた前年と違い、この年のリボーは単勝1.6倍の1番人気。過去に連覇した3頭はいずれも地元馬だったためイタリア国内の記者が「連覇を阻止するための妨害があるんじゃないか」と懸念を示していたが、そんな妨害を受けることもなく3番手を追走。リボーを一目見ようと詰めかけた大観衆が見守る中、直線であっさり抜け出すと、ただの一度もムチを入れられることなく、1頭だけ違う生き物のような脚で独走。カミーチ騎手はそのままリボーを全力で追い続け、公式発表6馬身、実際には推定8馬身半という凱旋門賞史上最大の着差で連覇を達成。レース直後のリボーはすぐに呼吸を整えてケロリとしており、鞍上はその凄まじさを「無尽蔵のエンジンを持った馬」と讃えた。発射台から打ち出されたミサイルのようだと謳われた末脚を是非、関連動画で確認して欲しい。
リボーはこれを最後に史上4番目タイの無敗連勝記録である16戦16勝というパーフェクトな戦績を残して引退。本国イタリアはおろか英仏でも最優秀古馬牡馬のタイトルを受賞し、タイムフォーム社のレーティングでは現在でも史上屈指となる142ポンド[1]の高評価が与えられ、「A Century of Champions」での20世紀の名馬ランキングではシーバード、セクレタリアトに次ぐ3位に選ばれている。彼の戦績は現在よりもさらに遠征が難しい時代にイタリアからキングジョージや凱旋門賞(しかも連覇)といった英仏の大レースを制するという桁違いの内容であり、本国では今もなお20世紀最高の競走馬として群を抜いた評価を受けている。
2着馬との合計着差は99馬身+アタマ差(凱旋門賞を公式記録通りの6馬身差とした場合)にも達し、接戦と呼べるレースはアタマ差で勝ったデビュー3戦目くらいのものだった。映像が残る2回目の凱旋門賞のレースぶりからはその恐るべきスピードがありありと伝わってくる。
種牡馬入りしたリボーは1957年からイギリスでリース種牡馬として供用され、2年間供用されてイタリアに帰国。地元で1年間種牡馬生活を送った後、5年間で135万ドルというリース契約でアメリカに渡ったが、期間が満了してもリボーがイタリアに戻ることはなかった。アメリカに渡ってから環境の変化のせいか気性が極めて悪化し、些細なことで暴れるようになったらしく、このためにアメリカからイタリアに帰る際の保険の引き受け先が見つからず、そのせいでイタリアに帰れなかったのだという。
ちなみに最初にチラッと書いたがリボーはセントサイモン直系である。ここではこれ以上言わない。
さて、リボーの種牡馬成績はどうだったかと言うと、これが競走成績と同等に大成功で、英愛リーディングサイアーに輝くこと3回、勝ち馬率59%、ステークスウイナーは66頭に上った。
凱旋門賞親子制覇を成したモルヴェドやプリンスロイヤル、無敗のアメリカ三冠に王手をかけたマジェスティックプリンスに生涯唯一となる黒星をつけてベルモントSを勝った1969年アメリカ年度代表馬アーツアンドレターズなどもさることながら、アメリカで輩出したトムロルフやグロースターク・ヒズマジェスティ兄弟は種牡馬として大成功を収めた。
その代表格がトムロルフの孫でリボー以来の凱旋門賞連覇を達成したアレッジドであり、他にもヒズマジェスティからはこれまた名種牡馬となった米二冠馬プレザントコロニーが登場。現在でこそ直系は衰退傾向にあるものの、サラブレッドの血統に大きな爪痕を残している。
日本に馴染みのあるところで言えばタップダンスシチーの4代父がリボーである。
「リボーの一発」という格言がある。リボー系はG1を人気薄で勝つだとか、実績の乏しい種牡馬がいきなり大物を出すだとか、そんな意味合いで使われる言葉である。しかしそれは裏を返せば安定感がないということであり、今日に至るまでリボー系が主流血脈になれていない要因ともなっている。
1972年に20歳で死亡。その威光は死後も衰えず、イタリアのスポーツ雑誌「ガゼッタ・デッロ・スポルト」誌の「20世紀を代表するスポーツ選手」でなんと4位に選出されている。イタリアといえばサッカーや自転車や自動車レースが盛んな国だというのに。
仔馬の頃、また成長してもレースでない時には人懐っこく、物を隠すなどいたずら好きの馬であったそうである。引退式では騎手を振り落としたとか聞くとどこぞの三冠馬に似ているようでもある。しかしながらレースにおいては完全に従順とも言えないところがあり、無理に言うことを聞かせようとすると途端にやる気を無くしたそうである(折り合いを欠いて危機一髪の状況となった3戦目がその証左だろう)。このため騎手の仕事はいかにリボーの邪魔をしないかだったとか。
「ドルメロの魔術師」フェデリコ・テシオの最高傑作は、テシオの想像を遥かに超えるスケールに達したかもしれない偉大な名馬であった。
Tenerani 1944 鹿毛 |
Bellini 1937 鹿毛 |
Cavaliere d'Arpino | Havresac |
Chuette | |||
Bella Minna | Bachelor's Double | ||
Santa Minna | |||
Tofanella 1931 栗毛 |
Apelle | Sardanapale | |
Angelina | |||
Try Try Again | Gylgad | ||
Perseverance | |||
Romanella 1943 栗毛 FNo.4-l |
El Greco 1934 栗毛 |
Pharos | Phalaris |
Scapa Flow | |||
Gay Gamp | Gay Crusader | ||
Parasol | |||
Barbara Burrini 1937 鹿毛 |
Papyrus | Tracery | |
Miss Matty | |||
Bucolic | Buchan | ||
Volcanic | |||
競走馬の4代血統表 |
Ribot 1952
|Ragusa 1960
||*ロンバード 1968
|||メジロファントム 1975
|Tom Rolfe 1962
||Hoist the Flag 1968
|||Alleged 1974
||||*ワイズカウンセラー 1983
|||||スターマン 1991
||*アレミロード 1983
|||ベラミロード 1996
|Graustark 1963
||*ジムフレンチ1968
|||バンブーアトラス 1979
||||バンブービギン 1986
|His Majesty 1968
||Pleasant Colony 1978
|||Pleasant Tap 1987
||||*タップダンスシチー 1997
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最終更新:2024/11/08(金) 22:00
最終更新:2024/11/08(金) 21:00
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