トウメイ 単語


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トウメイ

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トウメイとは、1966年生まれの競走馬ながら秋の天皇賞有馬記念を制して1971年度代表に選ばれた名である。みどりのマキバオーを地で行くような成り上がり物語で有名。

な勝ち
1969年:京都4歳特別
1970年:マイラーズカップ
1971年:天皇賞(秋)(八大競走)、有馬記念(八大競走)、マイラーズカップ阪急杯牝馬東京タイムズ杯

1971年啓衆社賞最優秀5歳以上年度代表馬

馬齢はトウメイの活躍当時に合わせ旧表記(現表記+1歳)としています。

概要

シプリアニ トシマンナ メイヂヒカリという血統。
トシマンナは初代中山グランプリ優勝メイヂヒカリ産駒で現役時代は地方で1戦0勝。牝系としては帝室御賞典勝ちマンナのひ孫で近に名トキツカゼ二冠馬クモハナなどがおり、当時としてはそこそこの良血ではあった。ただ体格が小さく、実は最初に種付けに行った名種牡馬トサミドリに断られてしまい、仕方なく当時まだ何の実績いために名だったシプリアニを種付けしたのであった。しかしながらシプリアニは後に八大競走勝ちを3頭輩出する活躍を見せており、後から考えるとトウメイは案外良血のお嬢様であったと言えるのかもしれない。

しかしながら、生まれてみるとこれが気が強いじゃじゃで、しかもどうしたわけかくに成長が止まってえらく小さなになってしまった。後に「ネズミのようだ」とまで言われるほど見栄えがしなかったため、全く売れず、困り果てた牧場が他の2頭のおまけにつけて売りさばこうとすると「他の2頭はそいつはいらん」と言われる始末だった。セリに出してようやく売れたものの均価格の約半額という安値であった。

ようやく競走馬になれると思ったのもつかの間、なんと入厩するはずだった大井競馬場調教師が急逝してしまう。困り果てた馬主は預かり先を捜し歩いたのだがも預かりたがらない。どうにか東の清水茂次調教師にねじ込んで預からせたのだが、その清水調教師も「こんな走りそうもない、頼むから引き取ってくれ」と馬主に泣きつくありさま。

厩舎でも邪魔者扱い。担当厩務員も決まらず、厩舎の前のき地に繋がれていたというのだからなんとも酷い話である。

ところがこれが驚いた事に、デビュー戦で二着。次戦で初勝利を上げる。たまげた厩舎では速担当厩務員を決めたというのだから現金な話だ。5着を挟んで三連勝を決めた頃には「ありゃ、ただのネズミじゃねぇぞ!」と大騒ぎになっていた。

翌年にはを交えた京都4歳特別に勝ち、桜花賞ではなんと一番人気に支持されるまでになった。たった数ヶでずいぶんと成り上がったものである。ちなみに、この桜花賞こそ、かの杉本清アナウンサーが初めて実況したクラシックである。杉本アナウンサー実況中、前のペースが速いのをタイムで確認して「後ろのが届くレース展開になりました」と言ったのだが、その通り、逃げ込みを図ったトウメイはヒデコトブキにあと少しのところで差されてしまう。余計な事を言うな杉本
続くオークスも一番人気を裏切る3着に敗れ、成功物語はここまでか、とこの時は思われた。

この後はオープン戦で2勝するなど好走を続けたが、またもトウメイに試練が襲う。今度は清水調教師が亡くなったのである。佐藤勇厩舎を挟んで坂田正行厩舎に移籍したトウメイ。5歳時にはオープン競争・マイラーズカップを連勝するものの、阪急杯で2着に敗れた上に今度は蹄に腺裂という重度の裂蹄を負ってしまう。これには復帰まで8ヶを要した。

復帰時、トウメイは6歳。「こんな安、しかもをこき使いやがって。く繁殖入りさせてやれば良いのに」というも少なくなかったが、実はトウメイの本当の活躍はここから始まるのである。

復帰戦から5、2、2着した後、破の4連勝。4連勝は昨年敗れた阪急杯だったのだが、この時は58kgを背負っての勝利だった。この頃にはトウメイは「マイル女王」と呼ばれるようになっていた。そして休養とオープン競争2着を挟んで出走した牝馬東京タイムズ杯(後の府中牝馬ステークス)。当時1600mのこのレースでトウメイは驚くべきレースを見せる。

馬場。59kgというとしては酷な斤量を背負いながら、東京競馬場の直線。後方から一気の末脚で先行をまとめて切り捨てたのであるが、この時上の清水騎手の手は全く動いていなかったのである。持ったまま。笑ってしまうような強さであった。

その勢いのまま、トウメイは秋の天皇賞(当時はまだ東京3200m)に乗り込んだ。このレースにはダービーダイシンボルガード菊花賞アカネテンリュウが出走しており、幾らマイルで強くてもここはどうだろうということで、トウメイは3番人気だった。

かしこレース。騎乗した清水騎手が「マイルを二回走ってくりゃ良いんだろ」といたように、中後方待機したトウメイは、直線で鋭く伸びて差し切り勝ちを収めたのである。による天皇賞制覇は史上10頭という快挙だった。

続くは有馬記念。トウメイは関西だったので、遠征が入れられる厩舎でレースを待っていた。ところがこの時、関東競馬場インフルエンザが流行するというアクシデントが起こる。トウメイは感染を免れたが、有馬記念に出走を予定していたメジロアサマ(昨年秋の天皇賞で、メジロマックイーンの祖)やアカネテンリュウは感染して出走を取り消す事態となった。

レース有馬記念としては寂しい6頭で行われ、トウメイは直線中ほど一気に先頭に立つと、1身差で優勝した。「トウメイが勝てたのは、有力が回避したからだ」と言われることもあるが、レース内容は素晴らしいもので、メジロアサマが出ても結局はトウメイが勝っていただろうという意見も強い。有馬記念が勝ったのも史上3頭。トウメイの次に有馬記念を勝ったのは37年後(ダイワスカーレット)の事であった。

トウメイはこのレースをもって引退。この年の年度代表馬に選ばれている。31戦16勝二着9回。獲得賞金は一億五千万円に達し、購買価格の実に100倍近くとなっていた。特筆すべきは掲示板(5着以内)を外した事がいことで、出走した全てのレースで賞金を稼いだという馬主孝行もいい加減にしろというであった。

売れ残りの安から年度代表馬に。正に、競馬界のシンデレラストーリーと言うに相応しい競争内容であり、また、大勢の競馬関係者がって「駄」という烙印を押したトウメイがこれほど走ったというのは、いかにの力を見抜くことが難しいかという教訓になり得る話だろう。6歳時の強さから「史上最強」に押す人も少なくない。

引退後繁殖に上がったトウメイは、これほど走ったにしては多い14頭もの産駒を送り出す。その二頭産駒テンメイである。テンメイ1978年秋の天皇賞を勝って、史上初にして未だ一組しかいない天皇賞制覇を達成し、トウメイに新たな伝説を付け加えたのである。ちなみにこのテンメイ引退種牡馬入りしたが、何故か水沢競馬場で走っていたという愉快な?話があってこれはこれでドラマの多いである。詳しくは本の記事を参照。

繁殖生活からも引退したトウメイは、馬主が造った幕別牧場で余生を過ごす。トウメイの馬主近藤夫氏という実業だったのだが、トウメイの大活躍に深く感動彼女彼女たちを育てようと幕別牧場を造ったのである。しかしながら近藤氏は1991年死去。近藤氏は「他のは全て売却しろ。だが、トウメイは一生面倒を見ろ」と遺族と牧場長に遺言したという。

ただ一頭、幕別牧場に残ったトウメイは、牧場長の土井勇氏の情に包まれながらゆっくりと過ごし、1997年静かに死亡した。近藤氏の遺言で既に造られていた墓碑の下に埋葬されたトウメイ。幕別牧場看板は、そのトウメイの墓所の場所を示すためだけに、今も掲げられている。

血統表

*シプリア
Cipriani
1958 黒鹿毛
Never Say Die
1951 栗毛
Nasrullah Nearco
Mumtaz Begum
Singing Grass War Admiral
Boreale
Carezza
1953 鹿毛
Rockefella Hyperion
Rockfel
Canzonetta Turkhan
Madrigal
トシマンナ
1958 栗毛
FNo.1-b
メイヂヒカリ
1952 鹿毛
クモハタ *トウルヌソル
*
ラハ *プリメロ
第四バツカナムビユーチー
トシフジ
1951 栗毛
トキノチカラ *トウルヌソル
*
第六マンナ *シアンモア
マンナ
競走馬の4代血統表

クロストウルヌソル 4×4(12.50%)、Gainsborough 5×5×5(9.38%)

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