推理小説は、一定の形式を必要とする文学である。それが成功するためには、
1 人工的な謎と、
2 謎を解明する人工的な論理と、
3 それに伴う意外性、
を必要とする。
僕にとって〝本格ミステリ〟というのは、随分と曖昧で語弊のある云い方だとは思いますが、〝雰囲気〟なのです。何と云うか、ミステリというジャンルが、その歴史のなかで育んできた様々な〝本格ミステリ的エッセンス〟とでもいったものがあって、それらがうまく作中で結晶してさえいれば、結晶化の仕方がどれほど既成の〝本格〟と異なっていても、また局部肥大的であったとしても、その作品は僕にとっての〝本格〟である、と思う。
本格ミステリとは何か? それはミステリ作家、評論家、そしてマニアにとって永遠の命題である。
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この項目は独自研究と独自史観を元に書かれています。 信じる信じないはあなた次第です。 本記事は本格ミステリの定義を決めることを目的としたものではありません。あなたの中の本格ミステリのイデアを大切に。 |
広い意味でのミステリー全般についてはミステリーの記事を参照。
また日本のミステリーにおける綾辻行人以降のムーブメントについては新本格の記事を参照。
「本格ミステリ」でGoogle検索するとわかるが、これほど世の中に溢れているジャンルにもかかわらず「本格ミステリとは何か」について端的に説明しているページというのはなかなか見つからない。あってもあやしげないかがでしたかブログとかだし。
さすがにWikipediaには項目があるものの、「本格派推理小説」といういったい誰が使ってるんだその用語?いつの時代の言葉ですか?という謎の項目名で立項されているし、そのWikipediaの内容もはっきり言って「本格ミステリとは何か?」という根本的なことはほとんど何も説明していないに等しい。また、ピクシブ百科事典やアニヲタwikiにも「本格ミステリ」の項はない(2023年5月時点)。
本項初版作成者はニコニコ大百科にて「新本格」とか「叙述トリック」とか「特殊設定ミステリ」とか「クローズド・サークル」とかのミステリ用語の記事を書いてきた者であるが、肝心の「本格ミステリ」の記事をそれらの前に作らずにいたのも、在野のミステリマニアがこんな場末のネット百科事典で迂闊に「本格ミステリの定義」なんぞを語って、検索してきた無邪気な読者に無邪気に信じられても困るし責任も取れないというのがある。
というわけで、まず最初に予防線として、某5ちゃんねるのライトノベル板のTOPに書かれた有名な文言に倣ってこう言っておこう。
あなたがそうだと思うものが本格ミステリです。
ただし、他人の同意を得られるとは限りません。
以上、で終わりにしてもいい気がするが、さすがにそれでは何の説明にもならないので、以下つらつらと説明していく。「何が本格ミステリか」はプロの作家・評論家やマニアの間でも永遠に決着のつかない面倒臭い問題なので、この記事では原理主義的な意見からガバガバ本格認定派まで、幅広く「こういう意見もあるよ」というスタンスで紹介していくことにする。
また、「本格ミステリ」についての見方も時の経過とともに移ろい続けている。一般に流通している「本格ミステリ」についての言説は、90年代~00年代半ばぐらい(あるいはそれ以前)のものがそのままアップデートされずにいるものも結構ある。
この記事は2024年現在、本項初版作成者の「まあだいたい今の本格ミステリ界の『本格ミステリ』に対する主流の認識はこんな感じだと思う」という認識に基づいて書かれているが、そもそも本項初版作成者のその認識が正しいか、これが本当に主流の認識かどうかも定かでは無いので、まあそのぐらいのつもりで、あまり素直に真に受けず、眉を唾でビショビショにする感じで読んでいただきたい(予防線)。
何が言いたいかというと、こんな記事の内容を真に受けて本格ミステリの定義の話をしてミステリマニアと喧嘩になっても、本項初版作成者は責任を取れませんのであしからず、ということである。
結局のところ、「本格ミステリとは何か?」という問いの答えが知りたい人は、こんなニコニコ大百科なんかでお手軽に調べようとするより、世の本格ミステリとされる作品をたくさん読んで、本格ミステリについてのいろいろな文章を読んで、貴方自身で見つけてほしい。楽しいよ!
まあ、それはそれとしてこの記事では「本格ミステリとは何か?」という問題について一応の説明らしきものを試みるわけだが、とりあえず一番最初に説明しておくべきことがある。
あなたは「本格」という言葉にどんなイメージを浮かべるだろう?
たとえば「本格中華」であれば「本場の」とか「ちゃんとした」とか「正統な」とか「(ただの「中華」よりも)よくできた」とか、そんなイメージを抱くのではないだろうか。
その上で、これはたいへんよくある誤解というか語弊なのだが、少なくとも現在において、
「本格ミステリ」の「本格」とは、そうした「本格的」という意味ではない。
単なるジャンル区分の用語である。なので「本格」の一語だけでも本格ミステリを指す。
ここで「え?何言ってんの?」と思った人もいると思うが、そういう人はたぶん「ミステリー」を「殺人事件が起きて名探偵がトリックを暴いて犯人を指摘するやつ」ぐらいのイメージで捉えており、「本格ミステリ」という言葉を「それの本格的な(≒しっかりした、真っ当な、作者が力を入れて書いた)やつ」だと思っている人だろう。
もちろん「ミステリー」に対する「殺人事件が起きて名探偵がトリックを暴いて犯人を指摘するやつ」という認識自体は全く間違っていないのだが、そもそも貴方がイメージしているそれは広い意味での「ミステリー」の中で「本格ミステリ」と呼ばれるジャンル特有の形式である。
つまり「ミステリー」⊃「本格ミステリ」であり、一般的に「ミステリーのお約束」として認識されているものは「本格ミステリ」のそれにあたる。
ジャンルとしての「ミステリー」は、謎解き要素のない冒険小説やサスペンスなど、もっと幅広いジャンルを含有しており、「本格ミステリ(本格)」はその中の1ジャンルの名前なのだ。
「いやいや、どこの馬の骨ともわからんニコ百の編集者ごときが勝手なことをぬかすな」という方のために、現代日本を代表する本格ミステリ作家・有栖川有栖の文章も引用しておこう。
本格ミステリというのは「オーソドックスな謎解きを中心にしたミステリ」の意なのだが、「作者が本腰を入れて書いたミステリ」と誤解されがちである。そのように誤解させたがっているのか、と疑いたくなる本の宣伝文句も以前はよく見掛けた。
なお、Wikipediaの項目名の「本格派」というのは、そういう「本格ミステリ」を好んで書く作家のことを、だいたい昭和の頃まで「本格派」と呼んでいたのにおそらく由来する。後述する「社会派」ブームから「新本格」以前の時期は、「本格」にこだわる作家が少なかったため、そういう物好きな作家を分類する言葉として「本格派」があった。しかし本格ミステリ作家が山ほどいる現代では「本格派」はド死語である。
なのでWikipediaの項目名は明らかにおかしいのだ。「本格派」はそのジャンルにこだわる作家のことであって、作品やそれを含むジャンルのことを「本格派ミステリ」とは普通は言わないのである。せめて項目名を「本格推理小説」にしろ。
閑話休題。
というわけで「本格」は本来ジャンル名でしかないのだが、出版業界では、特に80年代~90年代ぐらいに宣伝文句として「本格的」ぐらいの意味合いでの「本格推理小説」というワードが濫用された。現代でも「本格的」ぐらいの意味合いで「本格ミステリー」という言葉が使われることはままある。
そして、そういう意味合いで「本格推理小説」「本格ミステリー」と呼ばれる作品の中には、ジャンルとしての「本格ミステリ」に該当する作品も、そうとは言いにくい作品も混在しがちである。
なので「本格推理小説」「本格ミステリー」は「本格ミステリ」の意味で使われることもあるが、「本格推理小説」「本格ミステリー」が全て「本格ミステリ」を意味するわけではない、とかいう一般読者にとっては全く意味のわからないであろう事態が生じている。
なにがなんだかわからない、お前は何を言っているんだ、と思われた方も多いと思うが、このへんの用語の混乱に関しては、そうなるに至った歴史の説明をしないといけないので、まあちょっと面倒臭いミステリマニアの解説に付き合っていただきたい。歴史の話はどうでもいいという人は次の節まで飛ばしてください。
さて、本記事冒頭に引用した3つの文章は、それぞれ日本の探偵小説の父・江戸川乱歩、戦後の昭和に本格派の作家として活躍した土屋隆夫、そして「新本格」の始まりとなった綾辻行人という3人の作家の、本格ミステリの定義に関する文章である。……え、「乱歩と綾辻は知ってるけど土屋隆夫って誰?」って? 今はほとんど忘れられたけど昔は偉い作家だった人です。現代のミステリを読む上では別に知らなくても特に不自由はないけど……。
それぞれ「探偵小説」「推理小説」「本格ミステリ」について語っているが、まあ基本的にこの3つはどれも同じジャンルに属する小説について語っている文章として受け取っていただいて構わない。そのジャンルというのがこの記事で説明する「本格ミステリ」である。
ただし、広い意味の言葉としては「探偵小説」=「推理小説」=「本格ミステリ」ではない。今同じものって言ったじゃん、お前は何を言っているんだ、と言われそうだが、これについては現在「ミステリー」と呼ばれているジャンルの小説に対する用語の変遷が絡んで来る。
というわけで歴史の話になるのだが、そもそも日本における「ミステリー」の歴史は、明治維新の開国によって欧米の文化が流入してきたことに始まる。エドガー・アラン・ポー「モルグ街の殺人」が発表された1841年は日本では天保12年、大塩平八郎の乱が起きた年である。アーサー・コナン・ドイル『シャーロック・ホームズの冒険』が「ストランド」誌に連載されたのが1891年から1892年、日本では明治24年~25年のことだ。
この頃、海外の小説を翻案[1]して日本に紹介していたのが黒岩涙香。『モンテ・クリスト伯』を『巌窟王』、『レ・ミゼラブル』を『噫無情』と題して紹介したのが有名だが、そうした涙香の翻案作品の中にはあちらの「Detective Novel(あるいはDetective Story)」が含まれていた。その訳語として充てられたのが「探偵小説」という言葉である。涙香は自身でも『無惨』という創作探偵小説を手掛け、これが日本初の創作探偵小説といわれている。
大正時代に入ると海外の探偵小説は当時のインテリ向けの知的でモダンな読み物として人気を集め、創刊当初は都会のインテリのための硬派な評論誌だった雑誌「新青年」は翻訳探偵小説を載せはじめた結果、すっかり探偵小説専門誌になってしまった。
そんな「新青年」から1923年、短編「二銭銅貨」でデビューしたのが江戸川乱歩である。乱歩の登場で、それまで海外作品の翻訳が主体だった探偵小説は、日本人作家による創作が盛んになっていった。
ただ、何しろ大元の乱歩の作風がアレなので(念の為に付記しておくが、乱歩自身は謎解き重視の探偵小説を指向していた。そっちでも天才だったけれど、それ以上にあまりにも怪奇幻想方面に才能がありすぎただけで……)、そうした創作探偵小説は昭和初期のエログロナンセンスの風潮と合流し、謎解きの要素よりもエログロや怪奇幻想に主軸を置いた作品も多くなっていき(例:夢野久作『ドグラ・マグラ』)、また今でいえばSFや冒険小説に該当するものも含め、それらが全部ひっくるめて「探偵小説」と呼ばれていた。
そもそも当時の日本にはまだ謎解きを中心とするミステリ創作の方法論が根付いておらず、みんな欧米の作品を原書で、もしくは当時のわりといい加減な翻訳や抄訳で読みながら手探りで書いていたので、「本格」に該当する作品自体が少なかった。これはまあ致し方ないところである。
しかしそうした風潮に対して「いかんでしょ」ともの申したのが甲賀三郎という作家。この人は当時の有名どころの探偵小説作家であり、ゴリゴリの謎解き原理主義者だった。彼は探偵による謎解きをメインとする探偵小説を「本格探偵小説」、そうでない作品を「変格探偵小説」と読んで区別するべきだ、と主張した。これがミステリー小説の歴史における「本格」という語の登場である。
というわけで「本格」という語はそもそも最初からジャンル区分のための用語である。これは現代も変わらない。単なるジャンル区分なので「本格」と「変格」の間にも優劣はないのだが、語感から「本格こそが正統」というニュアンスを感じ取ってこの語を嫌う作家や使うことを避ける評論家もいる。まあ実際、語義的にもそういうニュアンスがあることも確かだし……。
さて、戦時中は当局の検閲で探偵小説は事実上書けなくなってしまっていたが、終戦を迎えると横溝正史が相次いで力作を発表し、高木彬光や鮎川哲也といった新人の登場で探偵小説は復活することになる。戦前の探偵小説は短編が中心だったが、戦後は長編が多く書かれるようになり、本格ものの長編の名作が多数書かれた。日本の本格ミステリはこの時期に最初の黄金期を迎えたと言われることもある(一方、「変格」の方はSFや幻想文学など、それぞれのジャンルに細分化されていった)。
……のだが、1946年に制定された当用漢字表から「探偵小説」の「偵」の字が外されてしまった。新聞などで「探てい小説」と表記しなくてはいけなくなってしまったのである。これはさすがに字面が間抜けすぎるということで、「探偵小説」に替わる用語として使われ始めたのが「推理小説」であった。
それでも50年代ぐらいまでは業界用語として「探偵小説」の方がまだ主流だったのだが、1958年に松本清張『点と線』がベストセラーになると、いわゆる「社会派」ブームが到来する。このリアリティ重視のミステリーという新潮流に「推理小説」という新しいワードがぴたりとハマった。それまでの乱歩・横溝ラインの古臭い「探偵小説」に対して、現代的な新しい「推理小説」という表記が主流に取って変わることになる。これは1947年に乱歩らによって設立された作家団体の「探偵作家クラブ(日本探偵作家クラブ)」が、1963年に現在の「日本推理作家協会」に改称したことに象徴される。
もちろん「社会派」も「本格」も単なるジャンル区分である以上、本来は対立項ではないはずなのだが(「社会派」かつ「本格」の作品も当然ある)、「社会派」ブームを主導した松本清張が「探偵小説を「お化屋敷」の掛小屋からリアリズムの外に出したかったのである」と述べているように、「社会派」自体が従来の「本格」を含む「探偵小説」に対するアンチテーゼという側面があったこともまた事実であり、その結果として謎解き重視のジャンルとしての「本格」という言葉は、大元の「探偵小説」と一緒くたに古臭いものとして影が薄くなってしまった。
その後、社会派推理小説は推理要素が形骸化し、風俗小説化したことで徐々に勢いを失ったものの、70年代に入って森村誠一などが凝ったトリックを導入することで推理要素の復権を図ったりしたことで持ち直し、「リアリティのある事件」+「トリック」というのが「推理小説」のひとつのフォーマットとして定着する。
こうして「推理小説」という言葉は一般に浸透し、出版社サイドは「力作」ぐらいの意味で「本格推理小説」という言葉を使うようになっていく。
さて、そんな中の70年代、ルシアン・ネイハム『シャドー81』の邦訳をきっかけに、冒険小説を中心とした翻訳エンターテインメント小説のブームが到来する。このとき始まったのが、雑誌「週刊文春」による年間のミステリーランキング企画「週刊文春ミステリーベスト10」であった。
この週刊文春の企画の偉大だったところは、最初の1977年のベスト10のラインナップを見ればわかるように、ジェイムズ・ヤッフェ『ママはなんでも知っている』や梶龍雄『透明な季節』のような謎解きものから、ネイハム『シャドー81』のような冒険小説、スティーヴン・キング『呪われた町』のようなホラーまで全部ひっくるめて「ミステリー」と呼んで同列に並べてランキング化したことだった。このミステリーベスト10は以降毎年の恒例となり、1989年にはこの企画に対するカウンターとして宝島社の「このミステリーがすごい!」が始まり、謎解きものからハードボイルド・冒険小説・SF・ホラーまでなんでもありの「ミステリー」というジャンル表記が、徐々に「推理小説」に取って変わっていくことになる。これが現代の「ミステリー」というジャンルにそのまま繋がっている。
その一方、70年代には角川文庫のメディアミックス戦略で空前の横溝正史ブームが起きたりして、昔ながらの探偵小説の価値が見直されはじめてきた。そんな中、島田荘司と講談社の編集者・宇山日出臣の仕掛けによって、1987年に講談社ノベルスから綾辻行人『十角館の殺人』が登場、いわゆる「新本格」ムーブメントが始まる。これについて詳しいことは「新本格」の記事に譲るが、これによって清張以降やや影の薄かった「本格」というジャンルが活況を取り戻し、現在に繋がっていく。
この「清張以降、新本格以前」の時期を「本格冬の時代」とも言うが、「本当に『冬の時代』なんてあったの?」という議論もある。これについても詳しくは「新本格」の記事で。
並行して上記のようになんでもありのジャンル全体を示す言葉が「推理小説」から「ミステリー」に入れ替わっていったわけだが、「ミステリー」という語の指す範囲が広くなりすぎたこと、前述の通り出版社側が「力作」という意味合いで「本格推理小説」というワードを使っていたため、こうしたジャンルとしての「本格」を「本格推理小説」や「本格ミステリー」と呼称すると、語弊や誤解が生じかねないという状況にあった。
そんなわけで、意味が広くなりすぎた「ミステリー」に対し、狭い意味での謎解き中心の作品を指すワードとして「ミステリ」が使われるようになり、ジャンルとしての「本格」はより明確に「本格ミステリ」という語に集約されることになった。
以後、1997年から本格ミステリ限定の年間ランキング「本格ミステリ・ベスト10」が始まり、2000年には作家団体「本格ミステリ作家クラブ」が設立され、翌年から年間の最優秀作を表彰する「本格ミステリ大賞」が始まって、現在に至る。
ということである。ただし、本記事冒頭の乱歩や土屋隆夫は明らかに「探偵小説」や「推理小説」を、狭い意味での謎解き重視のジャンルとしての「本格ミステリ」の意味合いで使っている。また、「本格推理小説」や「本格ミステリー」を「本格ミステリ」の意味で使う人もいる(島田荘司とか)。このあたりはどういう意味合いでその言葉を使っているかは、文章のニュアンスから判断するしかない。
そしてまた『金田一少年の事件簿』や『名探偵コナン』の大ヒットによって、マニアではない一般層にも「名探偵が犯人の仕掛けたトリックを見破り、何人かの容疑者の中から犯人をズバリと指摘する」という本格ミステリ特有の形式が「ミステリー」の定型として受容された結果、一般読者も「ミステリー」という言葉を(意識せず)狭い意味での「本格ミステリ」の意味で使ってたりするし、後述の通りその「本格」の範囲もまた人によって違っているので、言葉の意味ははてしなく混乱していくわけである。
Q:ぜんぜんわからん。なんでそんな言葉の意味がふわふわしてるの?
A:結局みんなその場のノリと自己流のイメージで言葉を使ってるので……。
Q:もうちょっとちゃんと意味と用法を定義したら?
A:いまさら無理だと思います。ふわふわ定義の緩さがジャンルの多様性を支えている面もあるし……。
余談だが、どこで半端に聞きかじったか、現代でも「本格以外のミステリを『変格』と呼ぶんだよ」とか言っちゃう人がいるが、前述の通り「変格」はそこに内包されていた各ジャンル(SF、ホラー、幻想小説など)がそれぞれ独立してひとつのジャンルとして確立されていったため、少なくともジャンル区分としての「変格」はほぼ半世紀以上前には滅んだド死語である。現代でそんなこと言ってたらナウなヤングもチョベリバである。
現代で「変格」という言葉をあえて使うとすれば、「戦前の探偵小説の雰囲気のある変なミステリ」ぐらいの意味になるだろう。
もひとつ余談として、「本格」と「新本格」を何か別のジャンルだと思ってる人もいるようなのだが、「新本格」は歴史的な区分のことであって、新本格もジャンルとしては「本格ミステリ」である。「本格ミステリ」でGoogle検索すると「本格 新本格 違い」というサジェストが出てきたりするが、「本格」と「新本格」って何が違うの?という質問は、「日本」と「平成」って何が違うの?と訊いてるようなものなので、答えようがない。
まあ新本格にはある種一定の「新本格らしさ」があるのは事実だし、また一時期の新本格の作品の中に明らかにジャンルとしての「本格」からはみ出した作品が結構あったのも事実で、それで業界がどったんばったん大騒ぎしたこともあるのだが、それらについては「新本格」の記事で。
いやもうホントに人によって何を本格と見なすかは差がありすぎて千差万別なので、定義しようとするとどうとでも取れるようなクソ雑定義にならざるを得ない。
実際、21世紀になってからも東野圭吾『容疑者Xの献身』を巡って不毛な大論争が勃発したこともあるし、本格ミステリ大賞でも、綾辻行人『Another』が候補に挙がった際には投票者の間で「どう考えても本格じゃないから候補に入ってること自体間違ってる」と候補作選びに文句を言う人から「めっちゃ面白い本格だ!」と喜んで投票する人まで様々であった(ちなみに結果は受賞作に1票差で落選)。
漫画化・アニメ化され人気の城平京『虚構推理』なんかも、1作目で本格ミステリ大賞を受賞しているが、1作目の刊行当時から「(本格)ミステリではない」という人も結構いた。
まあそれでも本格ミステリファンが100人いればまず100人とも本格だと認めるだろう作品もある。たとえばエラリー・クイーンの国名シリーズや、島田荘司の『占星術殺人事件』を(好みや作品評価は別として)「そもそも本格ミステリではない」と言う本格ミステリファンというのは、仮にいたとしてもよほど何か変にこじらせた奇人の類いになるだろう。
その一方で、普通は本格ミステリと見なされない作品に対して「いやこれも本格だ」と本格ミステリ的な楽しみ方を見出すタイプの本格ミステリファンもいる。北村薫とか。
というわけで、以下に「これが含まれる作品は本格ミステリと見なされることがある」という主要な要素を思いつくままに列挙してみる。他にもあるかも。
その人が何を本格ミステリと見なすかは、これらの要素のどの部分を重視するかによる。
たとえば原理主義的なマニアであれば、1・3・4を特に神聖視し、真相に至るための手がかりが不足していたり、ちょっとした描写のミスがあったりすると即座に「本格ではない」「本格とはいえない」と言い出したりする。
その一方、2や7を重視する人であれば、名探偵が出てきて密室やアリバイの謎を解く話は全部「本格」になる。
5・6・8を重視する人であれば、鮮やかな伏線回収や叙述トリックのある作品は全部「本格」である。別ジャンルの作品を本格認定するのが好きなマニアはこのタイプが多い。
実際のところ、「本格ミステリが好き」という人は1・2・7を様式美として愛している人、またそれに加えて3・4・5・6を成立させようという目的意識が作品にあるかどうかを本格か否かの判断基準として置いている、という感じの人が多いんじゃないかと思う。
これらの要素が全部入っていれば、まあ100人中ほぼ100人が納得する本格ミステリになると思うが、これもあくまで本項初版作成者の私見に過ぎない。100人の本格ファンがいれば100通りの本格ミステリの定義があると思ってほしい。
もちろん、「本格ミステリと見なせること」と「本格ミステリとして優れていること」は別である。誰がどう見ても本格ミステリだがつまらない本格もあるし、全く本格ミステリに見えないにも関わらず優れた本格ということもある。SFでもそうだがこの点をごっちゃにして「俺が考える理想の本格でなければ本格ではない」というタイプのマニアが一番面倒臭く思われがち。さすがに現代ではそういうタイプはあまり見ない気がするけど。あ、特定個人を批判するものではありません。
ミステリーの祖国たる欧米では、日本でいう「本格ミステリ」にあたるジャンルはほぼ滅亡している。……というのが定説。
その歴史に関しては「ミステリー」の記事でも簡単に解説されているが、ミステリーという小説ジャンルは、エドガー・アラン・ポー「モルグ街の殺人」(1841年)を祖とし、アーサー・コナン・ドイル『シャーロック・ホームズの冒険』(1891年~1892年)の爆発的ヒットで後追いの作品が大量に生まれたことでひとつのジャンルとして確立された。
その後、1920年代~1930年代にかけて英米でアガサ・クリスティ、エラリー・クイーン、ジョン・ディクスン・カーなどが活躍する「本格ミステリ黄金時代」が到来したが、第二次大戦後は欧米のミステリーの中心はハードボイルド、犯罪小説、冒険小説などに移行していき、謎解き中心の「本格」は退潮していった。
前述の通り日本では「新本格」によって「本格」が再興したわけだが、海外では「新本格」が起こらなかったため、現在では「本格」らしい海外作品は、黄金時代の作家を敬愛する物好きな少数の作家の作品がぽつぽつ入ってくる程度(ポール・アルテとか、アンソニー・ホロヴィッツとか)。ミステリー全般を扱う『このミス』や『週刊文春ミステリーベスト10』が海外作品にもそれなりにページを割いているのに、本格専門の『本格ミステリ・ベスト10』では海外作品のページがめちゃくちゃ少ないのがその証拠である。
そんな状況のため、日本の「本格」作品が海外で翻訳され「Honkaku」と呼ばれるという逆転現象も起きたりしている。
「新本格」初期の頃には「海外でとっくに滅んだ古臭い本格に今さら戻ってどーすんだ」的な、「ミステリーはパズル的な謎解きものから人間を描いた犯罪小説や冒険小説へ進化する」という進歩史観に基づいた批判も結構あったようだが、さすがに現代ではそういうことを言う人はそんなにいないと思う。
なお、中国語圏では島田荘司が新人賞を作るなど本格ミステリの普及に尽力したこともあってか、華文ミステリは日本の新本格の影響を受けた本格ミステリが多く見られる。
また、実は欧米でも「本格」に該当する作品は今でも結構書かれているのだが、翻訳出版される水準に達した作品がほとんど無いので、ほとんど日本に入ってこないだけ……という話もある。実際のところどうなのかは、欧米のミステリマニアに聞くしかないのかもしれない。
とりあえず本格ミステリが好きな人は、本格ミステリがいっぱい書かれ、たくさん出版されている日本に生まれたことを喜べばいいんじゃないかな。
日本では伝統的に、一般層まで非常に根深く蔓延している認識として「ミステリーには何らかのトリックがなければならない」という認識がある。さすがに現代では減っている気もするが、創作をやっている人がミステリーを書く(描く)ことに苦手意識を持っている場合、「トリックが思いつかない」ということを理由にしている可能性は結構高い(と思う)。
密室トリックやアリバイトリックなどが本格ミステリの大きな魅力であり華であることは間違いないし、「トリックは作家の命」とすら言われていた時代もある。しかし同時に、「ミステリのトリックは既に出尽くした」という言説はもう半世紀以上前から言われ続けている。さらに「既出のトリックの再利用はNG」という倫理意識も根強くあるため、「トリックが出尽くしたのでもう本格ミステリは終わり」なんて雑な意見が大真面目に語られたりもする。そもそも現実問題として古今東西のあらゆるミステリーのトリックを網羅して被りを避けるなんて、現代では物理的に不可能である。
この「トリック」という概念自体、どこからどこまでが「トリック」なのかがまた一概には定義しにくい問題で、用語の定義と意味が拡散・混乱しがちなのだが……。
実際のところ、70年代には都筑道夫が「トリック無用論」を唱えているように、本格ミステリにトリックは必須のものではない(いやいやそんなわけないやろ、とお思いの方は、たとえば北村薫の名作「砂糖合戦」(『空飛ぶ馬』収録)を読んでみてほしい。謎があり、論理的で意外な解決のあるあの作品に「トリック」はあるだろうか?)。
まあ、「トリックがなければ本格ではない」という見方もひとつの本格観ではあるが、少なくとも現代でそれが本格ミステリ界の支配的な見解とは言えないだろう。
なのにどうしてこれほど根深く「本格ミステリにはトリックが必須」という考え方(トリック中心主義)が一般まで根強く定着しているかというと、これはもうだいたい江戸川乱歩と松本清張と島田荘司のせいである。日本の本格ミステリ史の節目となったこの3人の作家がいずれもトリック中心主義者だったせいと言っていい。
探偵小説のトリックを愛しすぎた乱歩の「類別トリック集成」が後世に与えた大きすぎる影響は言うまでもない。もちろん、欧米の「黄金時代」の本格が数々のトリックとそのバリエーションを創出することで発展したのは事実だし、それを分類整理して後の作家の手引きとした乱歩の功績は偉大すぎるほど偉大なのだが、この乱歩的なトリック中心主義が、乱歩自身の存在感と影響力があまりにも大きすぎた故に、日本のミステリを呪縛してしまったことは否めない。「新しいトリックを考案すれば大乱歩の『類別トリック集成』に自分が新しい項目を付け加えられる」というのは、当時のミステリ作家たちにとってあまりにも魅力的なモチベーションだったわけであるからして。
実際、「社会派」ブームで乱歩的な探偵小説を駆逐した清張も「ミステリーには何らかのトリックが必要」という乱歩の認識を強く受け継いでいた[2]。清張の起こした「社会派」ブームは推理味の希薄な作品の濫造で勢いを失うが、70年代にそれを再興させた森村誠一もまた「社会派」に凝ったトリックを導入するという形で推理要素の復活を目論んだため、「本格」=「トリック小説」というイメージはますます強固になった。
さらに「新本格」を仕掛けた島田荘司も、あまりにもトリックメーカーとしての才能がありすぎたために必然的にトリック中心主義の考えを引き継ぎ、乱歩のトリック中心主義は実に21世紀まで永きに渡って一般的な認識として日本のミステリーに刻み込まれることとなる。
もっとも、乱歩自身ですら「もうトリックという坑道は掘り尽くされている」的なことを言っており、トリックに頼った本格ミステリの限界は早くから認識されていた。だからこそ清張の「社会派」以降、トリック一辺倒の古い「本格」は批判されてきたわけである。実際、70年代頃の森村誠一や斎藤栄といった「社会派」+「トリック」路線の推理小説を、都筑道夫は「昨日の本格」と呼んで批判している。
じゃあ本格ミステリはどっちに向かうべきなんだ、という話では、小説である以上人間を描くべきである、という話から、推理小説は「動機」を重視する「心理の謎」の方に向かうべきである――という論調が古くからあったわけだが、その「動機」を重視したはずの「社会派」が推理要素の形骸化で衰退し、トリック小説に回帰してしまったこともあってか、いまいち定着しなかった。
「新本格」が初期に当時の評論家や年配のマニアからバッシングを受けたのも、それが「トリック小説」としての「本格」への回帰と見なされ、「トリック一辺倒の本格に未来はない」という当時の「良識ある」ミステリ観が認識が影響していたと言えるのではないだろうか。
しかしこうしたトリック中心主義の呪縛は、「新本格」の勃興後、有栖川有栖や法月綸太郎といったエラリー・クイーンの影響を強く受けたロジック派の新人が登場し、評論活動の活発化や、北村薫による「日常の謎」の確立、西澤保彦による特殊設定ミステリの方法論の確立といった経緯を経て、徐々に薄まっていくことになる。島田荘司が『本格ミステリー宣言Ⅱ』での新本格批判で自分が送り出した作家たちから総スカンを食らい、影響力が低下したことも大きかったかもしれない。「21世紀本格」とかもう誰に訊いても「そういえばそんなもんあったね」でしかないだろうし。
そしてゼロ年代、本格ミステリ業界では、本格ミステリの形式を借りて本格から逸脱するメフィスト賞系の作品群が斯界に混乱を巻き起こし、ジャンル内に「本格とは何か」という根源的な問い直しを改めて促した(その行き着いた先が『容疑者Xの献身』論争。前述の通り詳しくは「新本格」の記事で)。
それ以降、本格ミステリ界では多重解決や特殊設定ミステリのブームという形で「本格ミステリにはロジックが必須」「ロジックの面白さが本格の魅力」という(都筑道夫が70年代に唱えていた)ロジック中心主義が主流になっている(と思う)。
乱歩の「難解な秘密が、論理的に、徐々に解かれて行く経路の面白さ」という定義の意味するところが、21世紀になってようやく本格ミステリ界の一定の共通認識になったと言えるのかもしれない。
そんなわけで「トリック」を売りにした本格ミステリは令和の現在、明らかに減少傾向にある。もちろん、「トリック」と「ロジック」は別に対立項ではない(「社会派」と「本格」が対立項ではないのと同様に)ので、ロジックが中心になればトリックが全く不要になるかというと、そんなこともない。
現代の本格ミステリも様々な趣向を凝らしたトリックを編み出しているが、現代の本格ミステリの評価基準は、そのトリックを使う必然性や、シチュエーションとトリックが有機的に絡んでいるかどうか、そしてそのトリックを解明する手がかりや論理に充分な説得力があるか――といった部分に重心が移っている。結果、「トリックそのものの斬新さ」が本格ミステリの評価において占めるウェイトはかなり小さくなり、ミステリの売り文句として「斬新なトリック」が使われることも少なくなった。
要するに現代の本格ミステリにおいては「ロジックを伴ったトリック」を、ロジックを中心に評価する、という評価軸が主流になっている(と思う)。
結局のところ、優れたトリックに優れたロジックが伴っていれば一番いい、というのは当たり前の話とも言えるだろう。「それができれば 苦労はしねェ!!!」と言いたくなるかもしれないが、現代の本格ミステリで高い評価を得ようとしたらそのぐらいの苦労はしないといけないので作家も大変である。
じゃあもうトリックの斬新さを追求するトリックものは古びて滅ぶだけなのかというと、トリック主体の本格が減少した結果、一周回ってトリック中心の本格が今の読者にはかえって新鮮になっているような節もあり、トリックを愛する本格ミステリ作家がいる限り、まだまだトリックものも滅びないだろう。
本格ミステリに対して未だに言われることがあるのが、「動機なんてどんな可能性だって考えられるんだから、本格ミステリに動機は不要」という、いわゆる「動機不要論」である。
これは正確に言うと、「犯人当てにおける容疑者の絞り込みにおいて犯行動機の有無を推理の材料に用いるべきではない」ということであり、他者の内面を正確に知る術が人間には存在しない以上、これ自体はまあ本格ミステリの作劇手法としてひとつの正論であると言える。
ただ、この問題をややこしくしているのが「動機」という言葉の意味である。
なぜなら、本格ミステリにおける「動機」という言葉の指すものは、「その行為の原因・理由・背景」としての「動機」と、「その行為のもつ合理性」としての「動機」の2パターンが存在するからだ。
そして動機不要論で否定されているのは、前者の「原因・理由・背景」の方だけである。
前者の「原因・理由・背景」としての「動機」とは、いわゆる追いつめられた犯人が崖の上で告白する悲しい過去の類い。犯人がその犯行を為すに至った原因であり、理由であり、きっかけとなった出来事のことである。ちなみに「社会派」ブームを牽引した松本清張は「探偵小説は動機を重視すべきである」と主張したが、清張の言う「動機」は概ねこちらの意味を指している。
これは「家族・恋人を殺されたから」から「太陽が眩しかったから」までどんな理由でも設定できる以上、論理的な推理の材料とすることは難しい。
一方、後者の「合理性」としての動機とは、「その行為をすることに犯人にとってどんなメリットがあったか」ということを問うている。本格ミステリにおいては、こちらの「動機」を考えることは必須と言える。たとえば密室トリックひとつをとっても、「現場を密室にすることで犯人にどんなメリットがあるのか」という「犯人の行動のもつ合理性」をしっかりと固めておくことは、論理的な推理の有力な材料となり、真相の説得力を大いに高める効果がある。読者も「なんとなく密室を作ってみたかった」より、「こういう理由で密室にすることに大きなメリットがあった」という真相の方が納得できると感じられるだろう。
この「合理性」そのものを問うのが、いわゆる「ホワイダニット」(Why done it)、すなわち動機探しのミステリである。一見して不可解であったり不合理であったりする行動が、ある一点から見ると実は合理的な行動であった、という認識の転換に驚きが生じるのがホワイダニット・ミステリであり、これ自体がひとつのサブジャンルとして確立されている。
というわけで、本格ミステリにおける「動機」について語る際には、「原因・理由・背景」としての動機についての話なのか、それとも「合理性」としての「動機」についての話なのか、ということをしっかり区別しておきたい。
マニアではない一般読者に非常にありがちな誤解として、いわゆる「ノックスの十戒」を現代でも守らねばならないミステリのルールだと思っているというものがある。これ自体は「ノックスの十戒」について解説される際に、決まり文句として「ミステリーを書くときのルール」として紹介されるので致し方ない面はある。
しかし、別にノックスの十戒はスポーツのルールのような、それを守らないとそもそも競技が成立しないというような厳密な概念では断じてない。同じような(そして十戒より知名度の低い)「ヴァン・ダインの二十則」もそうだが、あれらは当時の「つまらないミステリにありがちな要素」を列挙しているだけである。あれらを守っておけば、少なくともそういうダメなミステリになることだけは避けられるよ、という程度のものでしかない。
断言してもいいが、現代のミステリ作家でミステリを書くときにノックスの十戒を念頭に置いて遵守しようと努める作家はいない。そもそも十戒が発表されたのは約100年前であり、十戒に書かれているようなことはミステリ作劇の基本中の基本テクニックの部分でしかない。十戒を日本に紹介した江戸川乱歩も『幻影城』で「謂わば探偵小説初等文法であって、(中略)現在ではもう戒律などの時代を通りすぎている」と述べている。
要するに十戒とは1950年代にはもう時代遅れになっていた代物であり、十戒を守るとか守らないとかいう100年前の水準で考えているようではそもそも現代でミステリ作家にはなれない、と言うべきだろう。
野球で例えれば、ノックスの十戒で定められているようなことは「バッターは打ったら一塁に走らねばならない」というようなゲームを成立させる根本的なルールではなく、たとえば「ランナーがいないのに送りバントをするべきではない」というような類いのもの。別にルール上はそうすることを禁止されてはいないけれど、悪手だから合理的に考えればやらない方がいい、という種類のものである。
そして野球にセーフティバントという戦術があるように、上手い使い方をすれば十戒破りで作品を面白くすることだっていくらでも可能である、ということは(セーフティバントの概念を知らない野球選手が存在しないように)ミステリを書く者にとってはわざわざ言うまでもない当たり前のことに過ぎない。
現代のミステリ作家が十戒を意識するとすれば、十戒をネタにした作品を書くときだけであろう。
これらは要するに「現実に存在しない超自然的要素を持ち出したら読者が真相を推理しようがなくて納得してもらえないからダメだよ」という提言である。この「本格ミステリに超自然的要素はNG」という考え方は現代でも一般読者の中にしぶとく生き残っていたりする。
しかし、たとえば参加者の中の誰が人狼なのかを推理する人狼ゲームにおいて、「人狼なんて現実に存在しないから推理しようがない」と言う人はいないだろう。「人狼が参加者の中にいる」という前提をルールとして共有すれば、それに基づいて推理を展開することができる。
こうした考え方から、本格ミステリにファンタジーやSFの要素を組み込んで、現実にはない特殊なルールの中での謎解きを展開するタイプのミステリも現代では珍しくない。特殊設定ミステリの項で詳しく触れているのでそちらを参照。
なので「この作品は超自然的要素が出てくるから(「本格」の意味での)ミステリーじゃない」というようなことを言う人もいるが、少なくとも現代ではその見解は時代遅れである(前述の通り、その作品が本格として優れているかどうかはまた別の話になる)。
というわけでどの作品が本格ミステリかを勝手に認定するわけにもいかないので、ミステリーや新本格、本格ミステリ大賞や本格ミステリ・ベスト10の記事を参照。
掲示板
16 ななしのよっしん
2023/07/16(日) 20:27:27 ID: ABJdl3TY/+
ガワがSFのハイファンタジーに対するセンスオブワンダーとかハードSFみたいなもんか
17 ななしのよっしん
2024/01/14(日) 13:47:34 ID: PLeDNR4GHE
素晴らしい内容。
18 ななしのよっしん
2024/11/17(日) 00:03:29 ID: g2ypdQefvR
中国ミステリは「島田流」つって殺人をするためにやけに大がかりなトリックを作るのが近年の流行らしい
言うまでも無く『斜め屋敷の殺人』『占星術殺人事件』の島田荘司が元ネタだ
確かに「ミステリ」という言葉で思い浮かぶのは、警察小説よりもハードボイル探偵小説よりも暗黒犯罪小説よりも、
一人の人間を殺すために大金を投じて訳分からん屋敷を作る狂人の物語だ
「人間一人殺すためにこんなトリック使うなよw」って笑ってツッコミながら読める、そんなミステリが推理小説復権のために重要なのではなかろうか
提供: 狩猫
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最終更新:2025/03/13(木) 20:00
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