読売ジャイアンツ 単語

2999件

ヨミウリジャイアンツ

1.9万文字の記事
  • twitter
  • facebook
  • はてな
  • LINE

読売ジャイアンツとは、日本プロ野球セントラル・リーグの球団である。通称は巨人
現在監督阿部慎之助2024年)。

本拠地は東京都文京区東京ドーム会社は読売新聞社。

概要

セントラル・リーグ
読売ジャイアンツ
基本情報
創設 1934年
本拠地 東京ドーム
一般略称 巨人
アルファベッ G
優勝回数
リーグ優 47回
(1リーグ制:9回、セ・リーグ:38回)
日本一 22回
アジアチャンピオン 1回
日韓
クラブチャンピオンシップ
1回
セ・パ交流 2回
永久欠番
経歴
球団組織
運営 読売新聞グループ本社
オーナー 山口寿一
球団社長 今村
プロ野球球団テンプレート

1934年メジャーリーグ選抜チームと対戦するために職業野球チームとして結成された全日本選抜チームがその始まり(読売新聞社長・正力太郎の招待による日米野球1931年から行われており、当初は学生選抜チームが対戦していたが、文部省が学生野球行化を問題視して学生プロの対戦を禁じたため、メジャー選抜と対戦するために職業野球チームを作る必要が生じたのである)。同年、沢村栄治ヴィクトル・スタルヒンなどが参加したその全日チーム体として「大日本東京野球倶楽部」が結成され、翌1935年から「東京巨人軍」と改称した。

戦後1947年から「読売ジャイアンツ」に改称。1949年毎日新聞加盟を巡る2リーグ制への分裂でセントラル・リーグに所属することになり、以後、日本プロ野球を代表するチームとして君臨。現在に至る。

プロ野球全球団の中で最も歴史が長く、優勝回数も最多の47回(2リーグ分立後は38回)、日本一も最多の22回を誇る球団である。1965年から1973年まで9年連続日本一いた(V9時代)。

古くより長嶋茂雄王貞治など数多くの名選手が在籍し、戦後野球人気を大いに牽引。1960年台には「巨人大鵬卵焼き」と子供が大好きなものとして挙げられるほどだった。

12球団中、最も伝統があり、人気も高い球団であるが、近年まではFAなど他球団の力選手を金で引き抜くスタイルをとっており、また江川事件(1978年)など球界を巻き込む騒動の原因となることが幾度となくあったため、アンチが多く存在する球団でもある。

一時期、前者に関しては2005年育成選手制度が採用されると方針を変え、2008年にはFA戦線不参加を宣言するなど、生え抜きの若手を多く輩出する球団となっていた(この間3連覇も成し遂げた)。しかし2011年頃から再びFA戦線に絡むようになった。

本拠地

備考

関係者

首脳陣

※就任、退団などでの異動は球団の正式発表があるまで編集しないでください。

一軍 二軍
三軍 巡回・育成

所属選手

※トレード、自由契約などの異動については、NPB公示exitがあるまで編集しないでください。
ドラフト名を受けた新入団選手は入団発表後に追加してください。

支配下選手
投手 捕手 内野手 外野手
育成選手
投手 捕手 内野手 外野手

球団スタッフ

スカウト

ジャイアンツアカデミー

OB

あ行 か行

さ行 た行

  • --

な行 は行

  • --

  • --

ま行 や行

  • --

ら行 わ行

戦歴

2000年代

詳細

2000年(78勝58敗0分、1位、日本一)監督:長嶋茂雄

江藤智工藤公康ダレル・メイを獲得し、攻守で大幅なパワーアップを遂げる。高橋由伸松井秀喜江藤智ドミンゴ・マルティネスで形成された打線ミレニアム打線で他球団を圧倒し、中盤には前年打撃不振に陥っていた清原和博が復調し、打線の層が厚くなる。9月24日中日ドラゴンズ戦の9回裏に江藤が同点満塁ホームラン、次の打者二岡智宏ライトスタンドサヨナラホームランを放ち、4年ぶりのリーグ優勝を達成。

日本シリーズ王貞治率いる福岡ダイエーホークスと対戦。4勝2敗でダイエーを下し、日本一を達成した。

2001年(75勝63敗2分、2位)監督:長嶋茂雄

ヤクルトスワローズと首位を争うが、2位に終わり、長嶋茂雄がこの年限りで勇退し終身名誉監督となる。斎藤雅樹槙原寛己村田真一もこの年限りで引退する。

2002年(86勝52敗2分、1位、日本一)監督:原辰徳

前年までヘッドコーチを務めていた原辰徳監督に就任。仁志敏久を2番、清水隆行を1番に入れ替え、仁志が不振に陥ると二を2番に入れ替え。清原和博の故障離脱、江藤智が打撃不振に陥ったが、斉藤宜之を5番に固定。この年に復活を遂げた桑田真澄代打で起用するなど、大胆な起用は的中し、セ・リーグ5球団全てに勝ち越し、2年ぶりのリーグ優勝

日本シリーズでは西武ライオンズと対戦し、4勝でストレート勝ちし、日本一を達成した。

オフ松井秀喜FA権を行使し、ニューヨーク・ヤンキースに移籍し、そのを埋めるためロベルト・ペタジーニを獲得。

2003年(71勝66敗3分、3位)監督:原辰徳

6月々と自力優勝が消滅してしまい、数年ぶりに優勝した阪神タイガースとは最終的に15.5ゲーム差を付けられた。

原辰徳はこの責任をとって辞任。セレモニーは行われなかったが、阪神甲子園球場終戦で異例のセレモニーが行われ、同じくこの年で阪神タイガースを退団する星野仙一から花束を渡された。

堀内恒夫監督に就任。オフには大阪近鉄バファローズからタフィ・ローズ福岡ダイエーホークスから右膝の靭帯損傷で出場がなかった小久保裕紀を獲得し、世間の反を呼ぶ。

なおこの年で引退し、一軍コーチになろうとしていた川相昌弘原辰徳が辞任したことで引退を撤回し、入団テストを経て中日ドラゴンズに移籍した。

2004年(71勝64敗3分、3位)監督:堀内恒夫

史上最強打線を形成し、プロ野球記録259ホームラン記録する。打撃の破壊力は抜群だがセンタータフィー・ローズレフト清水隆行など外野守備にがあり、かつ投手が奮わなかったためチームは3位に終わる。

オフロベルト・ペタジーニが退団。

2005年(62勝80敗4分、5位)監督:堀内恒夫

この年から導入されたセ・パ交流戦では4位と奮闘したが、8年ぶりのBクラスに転落。任期を1年残し、堀内恒夫監督を辞任。元木大介後藤孝志西山秀二引退タフィ・ローズ清原和博が退団した。

2006年(65勝79敗2分、4位)監督:原辰徳

2002年から2003年まで監督を務めた原辰徳監督に復帰。オリックス・バファローズを戦力外になったジェレミー・パウエルFA宣言した豊田清野口茂樹李承燁小坂誠を獲得した。その代わり豊田の人的保障で江藤智西武ライオンズに移籍した。

セ・パ交流戦力選手の故障が相次ぎ失速。入団テスト小関竜也、トレードで木村拓也ジョージ・アリアスを獲得したが、改善とは至らず、最終的に2年連続のBクラスとなった。

オフには仁志敏久をトレードで横浜ベイスターズ放出小久保裕紀FA福岡ソフトバンクホークスに戻り、無償トレード大道典嘉、交換トレードで谷佳知FA小笠原道大門倉健を獲得した。門倉健人的補償として工藤公康放出小久保裕紀人的補償として吉武太郎を獲得した。

2007年(80勝63敗1分、1位)監督:原辰徳

高橋由伸を1番、故障で遅れていた上原浩治クローザーとして起用し、これが成功し、安定した戦いを続けた。5月2日にはプロ野球史上初の5000勝を達成、二軍イースタンリーグ史上初の2000勝を達成した。この年から導入されたクライマックスシリーズの出場権を一番乗りで決め、10月2日に5年ぶりのリーグ優勝を達成。

しかしクライマックスシリーズでは中日ドラゴンズに全敗し、史上初のリーグ優勝しながら日本シリーズに出場できないチームとなった。

2008年(84勝57敗3分、1位)監督:原辰徳

前年度セ・リーグを制覇したにもかかわらずクライマックスシリーズで敗退したジャイアンツは、オフシーズンアレックス・ラミレスセス・グライシンガーマーク・クルーンを補強し、日本一を至上命として2008年シーズンスタートした。

しかし開幕から球団ワースト記録の5連敗を喫し、その後も怪人や不調者が続出して6月半ばまで負け越しを続けるなど低迷する。それでも一方、大幅な負け越しは避けていた為順位は中盤をキープしていたジャイアンツ。その苦しい時期になんとかチームを支えていたのが木村拓也大道典嘉藤田宗一ら他球団出身のベテランサブプレーヤー達であり、新外国人選手達であった。また力選手が多数抜けた事は、山口鉄也越智大祐東野峻ら若手選手に出場の機会を与え彼らの台頭を呼び起こし、こうした他球団出身者、新外国人選手のめざましい活躍、若手選手の積極起用など近年のジャイアンツにはない戦い方は、交流戦以降のジャイアンツ反転攻勢の流れを確実に作り出していった。

その流れは場の、小笠原道大全復調、打線であった坂本勇人の加速度的な成長、北京オリンピックによる他球団の力選手不在などの要因により強まっていき、一時13ゲーム差あった首位阪神タイガースとのゲーム差は、8月末には6ゲーム差にまで縮まった。9月以降は不調が続いていた上原浩治李承燁復活。中盤には12連勝、対阪神タイガース7連勝など驚異的なペースで勝ち続け、そして10月10日、首位阪神タイガースとのセ・リーグ史上最大ゲーム差をひっくり返し、セ・リーグ2連覇(メークレジェンド)を達成した。

クライマックスシリーズでは、リーグ3位ながらも第2ステージ進出を果たした中日ドラゴンズと対戦。前年の屈辱をらすように、3勝1敗1分(うち1勝はアドバンテージによるもの)で中日を打ち破り、日本シリーズへの進出を果たした。
しかしながら埼玉西武ライオンズとの日本シリーズでは第7戦までもつれ込むも3勝4敗と破れ、6年ぶりの日本一を果たすことはできなかった。

2009年(89勝46敗9分、1位、日本一)監督:原辰徳

文句なしの優勝街道まっしぐら。2位との差を10ゲーム以上付けていた時期があったが、一時期2位中日に2ゲーム差まで付けられていた。しかし、若手の坂本勇人亀井義行らを中心に若手が大活躍。特に松本哲也中井大介らが成長し、生え抜きの選手層も前年以上に分厚くなった。

投手にはマイケル中村(登録名:M.中村)らを補強し、相変わらずのセス・グライシンガーの活躍、育成選手から支配下登録された・オビスポ、新外国人投手ディッキー・ゴンザレスなどの補強で投手面でも更に強化され、去年以上の戦力が充実している。

クリーンナップは既に小笠原道大アレックス・ラミレスの3番4番は固定されてはいるものの、5番が若干固定出来ない部分が去年から続いていたが、亀井を5番に起用して成功させた。

既に8月27日優勝マジック(M27)が点し、2位と5ゲームどころか9ゲーム差をつけて9月23日優勝が決定。3年連続、33度優勝と、3が並んだ。まるで長嶋茂雄にこの優勝げているかのようだ。

クライマックスシリーズ中日ドラゴンズと対戦。中日を得意とするゴンザレスのまさかの乱調により初戦敗北するが、その後は3連勝で日本シリーズ出場権を獲得。
日本シリーズでは北海道日本ハムファイターズと対戦。4勝2敗で勝ち抜き、7年ぶり21度日本一「奪回」を果たした。

11月14日に行われた日韓クラブチャンピオンシップでは、韓国王者の起亜タイガースと対戦。
序盤は起亜のペースで試合が進むが、7回に打者一巡の猛攻で7点を奪い9-4で撃破。巨人史上初となるアジア王者いた。

2010年代

詳細

2010年(79勝64敗1分、3位)監督:原辰徳

シーズン中継ぎを支えた山口先発転向するも不調、更に先発外国人3選手(グライシンガーオビスポゴンザレス)がなかなか勝ちを挙げられず、クルーンも抑えきれない等シーズンを通して投手崩壊が立った。それでも木佐貫洋とのトレードで加入した高木康成シーズン途中で楽天から移籍した朝井秀樹が活躍。生え抜きでは久保裕也シーズン通してフル回転するなどる部分もあった。

野手では小笠原ラミレスドラフト1位長野久義今期新人王)、怪から復帰した高橋由伸と昨年よりも戦力が充実。しかし、松本が開幕々離脱、亀井スランプに陥るなど、投手同様一年間通して苦しい戦いが続いた。ホームラン数は多い(ラミレス49本、阿部44本、小笠原34本、坂本31本)が、チャンスタイムリーヒットが中々でなかったのも苦戦の要因の1つであった。

それでも首位の座をキープしていたが、場に失速。中日ドラゴンズ阪神タイガースとの三つの争いの末、3位となり4年連続リーグVを逃した。

クライマックスシリーズではファーストステージ阪神に連勝。その勢いで中日もといきたかったが、投手から得点が奪えず、敗れた。

オフドラフトで意中の中大澤村拓一投手を獲得。今季不調だったオビスポ放出し、須永紺田敏正を獲得。さらに外国人3選手を解雇、更に来季から3軍の導入など大幅なチーム改造を行った。

2011年(71勝62敗11分、3位)監督:原辰徳

東日本大震災で、初めての地方球場での開幕となった。統一球ホームラン減し、打撃が不調に陥り、前半戦をBクラス折り返した。

後半戦では久保裕也を抑えに固定した事でチームは安定し、最終的には首位と3.5ゲーム差の3位でレギュラーシーズンを終えた。

藤村大介盗塁王長野首位打者澤村が新人王を獲得。史上初の4年連続の新人王輩出となった。

クライマックスシリーズではヤクルトに1勝2敗で敗退した。

オフには最多勝を獲得したD.J.ホールトンFA宣言した杉内俊哉村田修一を獲得した。

2012年(86勝43敗15分、1位、日本一)監督:原辰徳

前年オフの内紛や契約過問題などがあったものの、大補強により前評判は非常に高かった。しかし、2番に据えたジョン・ボウカーが開幕々不振に陥ると、それにつられる形で打線が機不全に陥ってしまい、4月は2度の5連敗を喫し、最大借金7、一時は最下位に落ちるなど、大方の予想に反する最悪のスタートとなった。

それでも1番に長野久義、3番に坂本勇人を置く打線改造を行うと、これが当たりチーム状態は徐々に上向いていき、交流戦に入ると前半は無双状態で勝ちまくり、後半も好調を維持してセ・リーグ初となるセ・パ交流戦優勝を果たした。交流戦MVP内海哲也

この間に杉内俊哉東北楽天ゴールデンイーグルス戦でノーヒットノーランを達成、スコット・マシソン山口鉄也西村健太朗勝利の方程式スコット鉄太朗」、ルーキー高木京介田原誠次福田聡志高木康成を加えた12球団屈リリーフを形成し、久保裕也越智大祐の長期離脱のを埋めることに成功した。

レギュラーシーズンに戻るとマシソンが離脱したが、3割バッター3人(阿部慎之助坂本勇人長野久義)を擁し、2年間不調だった松本哲也復活先不調だったホールトンが安定、小山雄輝ら若手先発の活躍、西武を戦力外になっていた石井義人代打として活躍する。

さらにこの年は元々高いレベルにあった阿部慎之助覚醒。史上最多タイとなるシーズン3度のMVPを受賞。自身初のタイトルとなる首位打者打点王を獲得。シーズン打率.340捕手としてはNPB史上最高、打点王セ・リーグ捕手として初獲得本塁打は惜しくもこの年2位に終わり三冠王とはならなかったがチームを大いに盛り立てた。

そしてチームはそのまま調子を落とすことなく2位中日を引き離し、8月下旬にマジック30が点すると、順調にマジックを減らしていき9月21日に3年ぶり43回セ・リーグ優勝を決めた。

クライマックスシリーズでは、エース吉見らを欠く中日相手に初戦からまさかの3連敗を喫し土俵際に追い込まれるも、そこから3連勝で中日を退けて日本シリーズ出場を決めた。

日本シリーズでは北海道日本ハムファイターズと対戦し、4勝2敗で3年ぶり22度日本一いた。

アジアシリーズも制覇し、初のアジアチャンピオンき、セ・パ交流戦リーグクライマックス日本シリーズアジアシリーズの全てを制覇した。

2013年(84勝53敗7分、1位)監督:原辰徳

開幕から7連勝と快調なスタートを切る。一度は阪神に首位を明け渡したが、すぐに首位を奪還した後は最終戦まで首位をキープし、9月22日に2年連続44回リーグ優勝を決めた。

この年は村田修一フォームを変えて覚醒7月打率.406、20打点8月打率.422、27打点セ・リーグ記録間46安打を達成(惜しくもイチローが持つ日本記録に2安打足りず)。変えたフォームが内川聖一に近かったため彼が乗り移ったのかとネタにされた。

クライマックスシリーズで3位から勝ち上がってきた広島をも全勝で下し、日本シリーズ初出場を果たした東北楽天ゴールデンイーグルスと対戦する。

しかし日本シリーズでは坂本阿部が深刻な打撃不振に陥り、2勝3敗と追い込まれた。第6戦、この年敗だった田中将大からホセ・ロペスが同点ホームラン高橋由伸が勝ち越しタイムリーを放ち、菅野智之山口鉄也スコット・マシソンリードを守りきり、ついに前年から28連勝中の田中を付け、3勝3敗のタイに持ち込んだ。しかし第7戦では美馬学則本昂大に抑えられ、最後は前日160球投げた田中将大に抑えられ、楽天に初の日本一を献上。40年ぶりの2年連続日本一を逃した。

2014年(82勝61敗1分、1位)監督:原辰徳

詳細はプロ野球2014を参照

2015年(75勝67敗1分、2位)監督:原辰徳

詳細はプロ野球2015を参照

2016年(71勝69敗3分、2位)監督:高橋由伸

詳細はプロ野球2016を参照

2017年(72勝68敗3分、4位)監督:高橋由伸

詳細はプロ野球2017を参照

2018年(67勝71敗5分、3位)監督:高橋由伸

詳細はプロ野球2018を参照

2019年(77勝64敗2分、1位)監督:原辰徳

詳細はプロ野球2019を参照

2020年代

2020年(67勝45敗8分、1位)監督:原辰徳

詳細はプロ野球2020を参照

2021年(61勝62敗20分、3位)監督:原辰徳

詳細はプロ野球2021を参照

2022年(68勝72敗3分、4位)監督:原辰徳

詳細はプロ野球2022を参照

2023年(71勝70敗2分、4位)監督:原辰徳

詳細はプロ野球2023を参照

2024年(77勝59敗7分、1位)監督:阿部慎之助

詳細はプロ野球2024を参照

年度別球団成績









東京巨人軍
1936年 藤本英雄 7 2 5 0 .287
1936年 1 27 18 9 0 .667
1937年 1 56 41 13 2 .759
1937年 2 48 30 18 0 .625
1938年 2 35 24 11 0 .686
1938年 1 40 30 9 1 .769
1939年 1 96 66 26 4 .717
1940年 1 104 76 28 0 .731
1941年 1 86 62 22 2 .738
1942年 1 105 73 27 5 .730
1943年 1 84 54 27 3 .667
1944年 2 35 19 14 2 .576
1946年 藤本英雄
中島治康
2 105 64 39 2 .621
読売ジャイアンツ
1947年 中島治康
三原修
5 119 56 59 4 .487
1948年 三原修 2 140 83 55 2 .601
1949年 1 134 85 48 1 .639
1950年 水原茂 3 140 82 54 4 .603
1951年 1 114 79 29 6 .731
1952年 1 120 83 37 0 .692
1953年 1 125 87 37 1 .702
1954年 2 130 82 47 1 .636
1955年 1 130 92 37 1 .713
1956年 1 130 82 44 4 .646
1957年 1 130 74 53 3 .581
1958年 1 130 77 52 1 .596
1959年 1 130 77 48 5 .612
1960年 2 130 66 61 3 .519
1961年 川上哲治 1 130 71 53 6 .569
1962年 4 134 67 63 4 .515
1963年 1 140 83 55 2 .601
1964年 3 140 71 69 0 .507
1965年 1 140 91 47 2 .659
1966年 1 134 89 41 4 .584
1967年 1 134 84 46 4 .646
1968年 1 134 77 53 4 .592
1969年 1 130 73 51 6 .589
1970年 1 130 79 47 4 .627
1971年 1 130 70 52 8 .574
1972年 1 130 74 52 4 .587
1973年 1 130 66 60 4 .524
1974年 2 130 71 50 9 .587
1975年 長嶋茂雄 6 130 47 76 7 .382
1976年 1 130 76 45 9 .628
1977年 1 130 80 46 4 .635
1978年 2 130 65 49 16 .570
1979年 5 130 58 62 10 .483
1980年 3 130 61 60 9 .504
1981年 藤田元司 1 130 73 48 9 .603
1982年 2 130 66 50 14 .566
1983年 1 130 72 50 8 .590
1984年 王貞治 3 130 67 54 9 .554
1985年 3 130 61 60 9 .504
1986年 2 130 75 48 7 .610
1987年 1 130 76 43 11 .639
1988年 2 130 68 59 3 .535
1989年 藤田元司 1 130 84 44 2 .656
1990年 1 130 88 42 0 .677
1991年 4 130 66 64 0 .508
1992年 2 130 67 53 0 .515
1993年 長嶋茂雄 3 131 64 66 1 .492
1994年 1 130 70 60 0 .508
1995年 3 131 72 58 1 .515
1996年 1 130 77 53 0 .492
1997年 4 135 63 72 0 .538
1998年 3 135 73 62 0 .554
1999年 2 135 75 60 0 .592
2000年 1 135 78 57 0 .578
2001年 2 140 75 63 2 .543
2002年 原辰徳 1 140 86 52 2 .623
2003年 3 140 71 66 3 .518
2004年 堀内恒夫 3 138 71 64 3 .526
2005年 5 138 62 80 4 .437
2006年 原辰徳 4 146 65 79 2 .451
2007年 1 144 80 63 1 .559
2008年 1 144 84 57 3 .596
2009年 1 144 89 46 9 .659
2010年 3 144 79 64 1 .552
2011年 3 144 71 62 11 534
2012年 1 144 86 43 15 .667
2013年 1 144 84 53 7 .613
2014年 1 144 82 61 1 .573
2015年 2 143 75 67 1 .528
2016年 高橋由伸 2 143 71 69 3 .507
2017年 4 143 72 68 3 .514
2018年 3 143 67 71 5 .486
2019年 原辰徳 1 143 77 64 2 .546
2020年 1 120 67 45 8 .598
2021年 3 143 61 62 20 .496
2022年 4 143 68 72 3 .486
2023年 4 143 71 70 2 .504
2024年 阿部慎之助 1 143 77 59 7 .566
通算:90年 6343 4599 365 .580

順位

シーズン最高成績(チーム)

シーズン最低成績(チーム)

関連動画

商品検索

関連項目

外部リンク

この記事を編集する
関連記事

親記事

子記事

兄弟記事

掲示板

  • 6206 ななしのよっしん

    2024/12/18(水) 18:12:43 ID: f8w9JeH5x3

    ムエンゴだった復帰1年は同情出来るがそれ以降は理があるからな
    いくら菅野と同じ保存療法とはいえ菅野みたいに復活する算段がつくとは考えにくい

    外野だったから他人事みたいに笑ってたのにまさかうちが引き取るとはなぁ
    中田みたいに勝手に出て行ってくれれば良いけど居座りそうだから困る

  • 👍
    0
    👎
    0
  • 6207 ななしのよっしん

    2024/12/18(水) 22:34:06 ID: HTBtE2Djm4

    >>6205
    だから他球団は田中を獲りたくなかったのと、これから伸びる若手が辟易しすぎて成長できないんじゃッて危惧もあって先にお断りしますってしたんだと思うよ。
    菅野埋め的もあったとは思うが、菅野の代わりは務まらんでしょここ数年の成績だと。

  • 👍
    0
    👎
    0
  • 6208 ななしのよっしん

    2024/12/20(金) 21:20:29 ID: Eg37OM8wV5

    とりあえずある意味一番のたんこぶだったのがに召されたわけだが、少しは球団もまともになるのかねぇ?
    巨人OBとか色々と面倒なのはまだいるにはいるんだけども

  • 👍
    1
    👎
    0

おすすめトレンド

ニコニ広告で宣伝された記事

記事と一緒に動画もおすすめ!
街風めい[単語]

提供: セバス茶ン

もっと見る

急上昇ワード改

最終更新:2024/12/22(日) 11:00

ほめられた記事

最終更新:2024/12/22(日) 11:00

ウォッチリストに追加しました!

すでにウォッチリストに
入っています。

OK

追加に失敗しました。

OK

追加にはログインが必要です。

           

ほめた!

すでにほめています。

すでにほめています。

ほめるを取消しました。

OK

ほめるに失敗しました。

OK

ほめるの取消しに失敗しました。

OK

ほめるにはログインが必要です。

タグ編集にはログインが必要です。

タグ編集には利用規約の同意が必要です。

TOP