その時ドアラが動いたとは、2008年1月19日に発見された第1級歴史資料である。
概要
ドアラの日本、及び世界の発展に尽した貴重な資料である。
現在ドアラは中日ドラゴンズのマスコットであるが、
今回の資料発見により歴史の生き証人として、その影響力は計り知れない。
今後のドアラの動向に各界が注目している。
発見された資料
ドアラの歴史
- 慶応4年(1868年)勝海舟・西郷隆盛と三者会談
尾張藩士ドアラは東征軍の西郷隆盛と共に薩摩藩江戸屋敷にて幕府軍の勝海舟と会談。
後の江戸城無血開場へと繋がる重要な交渉を担う。
- 明治4年(1871年)岩倉使節団
使節の108人目として同行。西洋文明に触れ後の近代化への道筋を模索。
- 明治27年(1894年)日露戦争
旅順水師営にて降伏したステッセル将軍と面会。記念写真に臨む。
- 明治38年(1905年)日本海海戦
東郷平八郎大将に同行し指揮の補佐を努める。下士官が行う雑務にも積極的だったという。 このときのドアラの活躍を描いた小説が、「坂の上のドアラ」である。
- 大正8年(1919年)ベルサイユ条約
第一次世界大戦の講和条約時の一時。各国首脳との折衝に臨む。
- 昭和5年(1930年)昭和天皇と満州国皇帝溥儀
千葉にて製造された自動車にてパレードに同行。天皇陛下と共に歓迎の意を示される。
- 昭和9年(1934年)ムッソリーニ・ヒトラーと三者会談
イタリアにて。大日本帝国代表として赴く。
- 昭和16年(1941年)真珠湾攻撃
獅子奮迅の活躍であったという。一説には巨大化したとも。
- 昭和20年(1945年)ヤルタ会談
敗戦を察知したドアラは先手を打ち会談に臨んだという。
- 昭和20年(1945年)昭和天皇の玉音放送
日本降伏に打ちひしがれるドアラ。
- 昭和20年(1945年)ポツダム宣言
昭和天皇の裁可を受けた重光葵、梅津美治郎らと共に連合国への降伏文書に調印した。
- 昭和21年(1946年)天皇人間宣言
アメリカ代表マッカーサー元帥に対し、日本代表として天皇陛下のお側に。
不動の姿勢に鋼鉄の意志を携え臨む。
- 昭和39年(1964年)東京オリンピック
その類稀なる身体能力を評価され、日本選手団の旗手へ抜擢。
また、体操男子ゆかにて連続後方転回からの後方宙返り1回ひねりの技を披露。
- 平成元年(1989年)天安門事件
民衆の流血を避ける為、戦車隊の前に果敢に立ち塞がる。
- 平成元年(1989年)マルタ会談
東西の間を取り持つ為、会談の場を設ける。
冷戦を終結させ、ドアラの多大な尽力が評価された。
日本の教科書ではヤルタ会談からこの会談への流れを”ヤルタからドアラへ”と表記している。
- 平成6年(1994年)ナゴヤ球場に捨てられる
後に中日ドラゴンズのマスコットへ転進。何らかの政治的圧力があったのではとの憶測も。
(マスコットとしての活躍は『こちら』を参照。)
- 平成15年(2003年)第29回主要国首脳会議(通称:エヴィアン・サミット)
既に中日ドラゴンズのマスコットとして活躍していたが、
小泉純一郎日本国総理大臣による強い要請により会議の同行を決断。
長年に亘り日本及び、世界を見てきたドアラに対し各国首脳の信頼は厚く、
ドアラも数々の助言、対策案を示されたと言う。
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