アーレイ・バークとはアメリカ海軍軍人。第二次世界大戦に参加。最終階級は大将、海軍作戦部長を3期6年にわたって務めた。
戦後、日本との関係も深く、海上自衛隊創設及びその発展に援助を惜しまなかったことでも知られる。
同名の駆逐艦については「アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦」を参照のこと。
概要
1900年10月19日生まれ。1923年に海軍士官学校を卒業、少尉として駆逐艦、戦艦などに勤務。
若いころから勤勉な士官として知られ、周囲からは戦死するよりも先に過労死するだろうといわれたこともある。工学修士にもなっていた。
太平洋戦争中盤、中佐になったころ(彼の努力もあり)南太平洋海域に配属され、駆逐隊、水雷戦隊司令を歴任。ソロモン海を中心に日本海軍と戦いを繰り広げることになる。この功績などもあり大佐に昇進。1943年10月には第23水雷戦隊<リトル・ビーバーズ>司令として着任する。
当時の駆逐艦隊の規定速度が30ノットにもかかわらず「31ノットで航行中」と打電したことで、"31ノット"バークとも呼ばれたのもころころで、セント・ジョージ沖海戦ではレーダーを生かした戦いで日本海軍のお家芸でもある夜戦において勝利を得る。
この戦いでバーク率いる水雷戦隊は、バーク立案の戦術のもと日本海軍駆逐艦3隻(<巻波>、<大波>、<夕霧>)を撃沈せしめた。戦死者の中には<大波>艦長吉川潔中佐(前<夕立>艦長として第三次ソロモン海戦で勇名をはせる)もいる。
この時期、4ヶ月間22回の戦闘に参加したという記録が残っており、巡洋艦一隻、駆逐艦九隻、潜水艦一隻を撃沈。その優秀さは高く評価され、その後、空母機動部隊参謀長としてミッチャー中将を補佐。沖縄戦では乗艦(バンカー・ヒル、エンタープライズ)に特攻機突入による攻撃を受けている。
太平洋戦争後、大西洋艦隊参謀長として就任。以後ワシントンなどで内局勤務をつとめ、戦後アメリカ海軍の大混乱を引き起こした『提督たちの反乱』(海軍提督らによる爆撃機B-36<ピースメイカー>の開発・配備および空母<ユナイテッド・ステーツ>建造キャンセルなどの軍備計画に対する反対事件)においては研究グループ"Op-23"の中心となって、B-36の性能および運用評価において疑問を投げかけるなどの活動をしている。
このため海軍のキャリアが危ぶまれたものの、時の海軍作戦部長フォレスト・シャーマンのとりなしもあり、無事キャリアに傷つくことなく朝鮮戦争勃発と前後して日本に極東艦隊参謀長として1950年に赴任した。
太平洋戦争での苦い経験(友人を日本軍との戦いで失う)などからか、日本人に対して…正直言えば悪い…印象を持っており「ジャップ」「黄色い猿」と呼び、日本を毛嫌いしていたというが、赴任したあと様々な経験を重ね一転、親日家となったあとは日本の再軍備に伴う海上自衛隊創設やそれ以後の装備貸与など様々な内容ついて親身になり相談、便宜をはかっていたことで知られる。
(その一方で、朝鮮戦争停戦交渉などの結果を受けて共産主義に対する強い警戒感があったことも指摘しなければならないだろう)
その後、1955年、アイゼンハワー大統領就任後に海軍作戦本部長に昇進。大統領支持のもと異例の3期6年の長きにわたって勤めることとなる。
この背景には、当時核兵器による戦略爆撃機全盛だった時代において、MAD(相互確証破壊)成立による核均衡下になりつつあるなか、海軍の存在意義確立をはかるためにバークの見識と指導力が求められ続けていたことも一因であった。
彼の就任時代において海軍は原子力推進を積極的に艦艇に導入。原子力潜水艦およびこれによる核攻撃などの確立のみならず空母などの開発も着手することとなった。
1961年、ケネディ大統領就任後に発生したピッグス湾事件においては統合参謀本部(JCS)のスタッフとして作戦に反対の立場であったが、結局はGoサインをださざるを得なかったとされ、その後のインドシナ半島をめぐる問題についても意見があったものの、事件後に大統領らスタッフに信任されることはなかったといわれる。
1961年、 任期満了にともない海軍を退役する。
1991年、彼の名をつけられたイージス・システム搭載「アーレイ・バーク」級駆逐艦が就役。生前に名前をつけられたのはめずらしく、「アーレイ・バーク」の就役式典にはバーク提督も参加した。
1996年に死去。大統領命令に基づき、イージス艦「アーレイ・バーク」他、「アーレイ・バーク」級駆逐艦全隻が彼に哀悼の念をあらわすため、1分間31ノットで航行したという逸話が残っている。
日本に纏わるエピソード
以下のエピソードは雑多で数が多いので、箇条書きとしている。
- 当初は日本に赴任後、朝鮮半島へ出張などを繰り返したためホテル暮らしだったという。前述したように日本人に対して悪い印象しかなかったため日本人とは距離を置こうとしたが、ホテルでうけた親身な対応の数々に感銘を受けて、考え方を変える一因になったという。
…殺風景な部屋の様子をいくらかでも華やかにしようと慰みとして花を一輪コップの中に差していたところ、花が毎日変わるのに彼が気がついた。ひそかなもてなしに関心したバーク提督がフロントに尋ねたところ、そんな指示は出しておらずルームメイクを担当していた女性のポケットマネーによるものだったという。その女性は戦争で…しかも戦争中バークが活躍したソロモン海の戦いで夫を亡くした未亡人だという。彼は金銭面でのお礼を申し出たが彼女は丁寧な口調で断ったという。あわせて夫を失ったのは自分のせいかもしれないというバーク提督の謝罪の言葉に彼女は毅然と、提督は軍人としての勤めを果たしただけであり、悪いとすればそれは戦争ですと答えたという。
…朝鮮半島の出張から戻り、汚れた惨めな格好で夜中に帰ってくると、ホテルのフロント職員たちが彼を暖かく出迎えてくれたという。またいつも使っていた部屋が変わったところ、元の部屋まで彼の荷物を送り届けていたボーイが現れ、当然のように元の部屋へと斡旋してくれたという。このようにホテルの客にしか過ぎない彼(しかも元敵国軍人だというのに)に対してホテルの職員たちは親身に接していたという。
以上のような話が続き、彼は日本人に対する考え方を改めていったという。
- 日本に派遣後、このようなホテルでの出来事から、極東地域における歴史や日本人の価値観などを理解するために、海軍時代良識派としても知られた旧日本海軍大将、野村吉三郎の紹介をうける。初めて出会う敵国の将官は彼に正座で座るようにいい、朝鮮半島の歴史などを講義しはじめた。
慣れぬ正座のせいで脚が痺れたと訴えるバーク提督に野村提督は真剣に話を聞いていれば脚の痺れは気にならないはずだと諭し、その後も様々な話…日本の歴史、価値観など様々なことを説明したという。バーク提督は野村提督の知性、教養に触れ、その後も一週間に一度は彼の元を訪れ、数多くの示唆を受けたという。
また朝鮮戦争の推移と、中国の参戦の可能性について問ねられた野村提督の答えはその後の戦争の推移とピタリと一致したという。
その後、野村提督の薫陶を受けた元海軍士官らの日本海軍再軍備化計画(後の海上自衛隊創設)を後押しすることになる。のちにバーク提督が離日するさい、野村提督は公共機関を乗り継ぎ、最後は歩いて飛行場まで赴き、別れをつげたという。その後も野村提督の間に終生友情が絶えることはなかったという。
- 太平洋戦争時、バーク提督が活躍したソロモン、南太平洋海域での日本側指揮官、元海軍中将草鹿任一が戦後、工事現場で人夫となって働くまで身をやつしたと聞き、最初は無視していたが、 後にさすがに困窮を見かねて食料を送る。ところが、この施しにも似た行為に草鹿提督が激怒。オフィスに乗り込んで食料を突っ返すという事件が起きる。のちにバークは増長した施しにも似たこの行為を反省。草鹿ら元日本海軍将官を食事に招く。当初は双方とも堅い表情だったというが次第に打ち解け、お互いに任務を良く果たしたとを理解したうえで自らの能力不足により目の前の提督を倒せなかったものの、そのかわりこの良き席にて酒を酌み交わしたことに感謝する乾杯を行ったという。以後彼らとも友情を深めたという。
- 朝鮮戦争時代、韓国陸軍の白善燁と歓談。日本海軍再軍備の理由を問われ、「オーシャン・ネイビー(外洋艦隊)を建設するには1世紀という長い時間がかかるものなのですよ。日本海軍が滅びるのはもったいない(大意)」と発言し、日本海軍の存続と再生について協力を惜しまなかったという。また当時、請われれば海上自衛隊士官への訓示なども行っていたほか、海上自衛隊装備の貸与などについても様々に便宜をはかるなど物心両面にわたって協力していた記録も残っている。彼が手配したものには護衛艦「あきづき」「てるづき」そして哨戒機P2V-7(16機)やS2F-1(60機)などがある。
その後、海上自衛隊創設25周年を期して纏められた本の序文に寄稿も行っており、野村提督をはじめ様々な旧海軍将官と日本の海上防衛戦力(つまり海自)について語り合ったことは自分にとっても楽しかった経験の一つであると書き残している。
- 異例の三期六年の海軍作戦部長を務めたあと退役後は静かな余生を暮らしていたというが、歴代の海上自衛隊幕僚長は訪米する際は彼の元へ挨拶へうかがったといわれるほか、ワシントンの日本大使館に派遣される海上自衛隊士官らも同様だったらしく、提督の誕生日には必ず花を自宅まで届けていたという。また退役後も海上自衛隊の練習艦隊が東海岸に訪れたときには請われて若き士官たちに訓示なども行ったという。こういったこともあってか本人曰く「アメリカ海軍より海上自衛隊のほうが大切にしてくれる」と言ったともいう。
- 海上自衛隊創設に尽力した経緯から勲一等旭日大綬章(外国人で初)を送られているが、アメリカで盗難にあう。落胆したバーク提督を見かねた日本の旧海軍・海自関係者の尽力もあり、勲章の再授与があったという。
- 彼が亡くなった際、棺に納められたとき胸につけていたのは自国を始めとする諸外国から送られた数多の勲章の中から一つだけ、日本の旭日大綬章だけだった。葬儀に参列した海上自衛隊幕僚長がそのことを提督の副官に問うと、棺に納める際の彼の遺言だったという。
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関連項目
- 軍人の一覧
- アメリカ
- アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦