アーレイ・バークとはアメリカ海軍軍人。第二次世界大戦に参加。最終階級は大将、海軍作戦部長を3期6年にわたって務めた。
戦後、日本との関係も深く、海上自衛隊創設及びその発展に援助を惜しまなかったことでも知られる。
同名の駆逐艦については「アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦」を参照のこと。
1901年10月19日生まれ。スウェーデン系移民の子孫であり、バーク家のもともとの苗字はビョーグレンだったが移民時にバークと改めたという。さほど裕福ではない開拓農民を営む親から大学の授業料・生活費を出してもらうこと難しいと察したバークは、ウェストポイント陸軍士官学校を目指すものの、推薦枠に開きがなく、結果的にアナポリス海軍兵学校の門をくぐることとなる。
1923年に海軍兵学校を卒業。成績は卒業生413人中71位。卒業後、そのままの足で兵学校に入学すると同時期に付き合い始めたロビータ(ボビー)と結婚。彼女は海軍士官として任地を変えることが多いバークの良き妻として生涯を共に過ごすことになる。
少尉として戦艦<アリゾナ>に乗り組み勤務。このころから勤勉かつ熱心な士官として頭角を現し知られ、周囲からは「50になる前に死ぬだろう。もし死ななければ海軍作戦部長になるだろう」と言われていたらしい。
1929年、働きぶりもありアナポリスで幹部教育を受ける。ミシガン大学で化学を学び工学修士にもなっていた。
この当時から将来、日本との衝突を予期していたとされる。
太平洋戦争開戦時、ワシントンで内局勤務のまま中佐だった彼の再三の要望が通り、戦争中盤に南太平洋海域に配属され、駆逐隊、水雷戦隊司令を歴任。ソロモン海を中心に日本海軍と戦いを繰り広げることになる。この功績などもあり大佐に昇進。1943年10月には第23駆逐隊群<リトル・ビーバーズ>司令として着任する。
ブーゲンビル島沖海戦に参加。そしてセント・ジョージ沖海戦ではレーダーを生かした戦いで日本海軍のお家芸でもある夜戦において勝利を得る。
この戦いでバーク率いる水雷戦隊は、バーク立案の戦術のもと日本海軍駆逐艦3隻(<巻波>、<大波>、<夕霧>)を撃沈せしめた。ちなみに<大波>艦長は、吉川潔中佐(この戦いで戦死)。前<夕立>艦長として第三次ソロモン海戦で勇名をはせた名駆逐艦長であった。
このころ、後々のバークの異名ともなる"31ノット"・バークと呼ばれることとなる。
当時の駆逐艦隊の規定速度が30ノットにもかかわらず「31ノットで航行中」と打電したから、という話があるが実際のところは、当時日本海軍の新たな動向を察知した司令部により、付近を航行していたバーク率いる駆逐群に、艦隊速度と到着時間を問い合わせる電文を出す。
これにバーク大佐が(当時の駆逐艦は35ノットまで出るが、所属駆逐艦の一隻に機関トラブルがあり)「31ノットで航行中」と返電。さらにバークの友人であった司令部所属の大佐が「31ノット・バーク、(中略)敵と遭遇せし時ははなすべきことをなせ」とハルゼー名義で電文を出したことが報道陣に知れてから、という話が伝記にあるという。
ソロモン海での激戦を戦いぬいたこの時期、4ヶ月間22回の戦闘に参加したという記録が残っており、巡洋艦一隻、駆逐艦九隻、潜水艦一隻を撃沈とアメリカ海軍は評価。その優秀さは高く評価された。
その後、第5艦隊・第58任務部隊(空母機動部隊)参謀長としてマーク・ミッチャー中将を補佐。航空機畑のミッチャー中将としては水上艦畑のバークの参謀長就任を快く思っていなかったとされるが、その後の関係からいってもすぐに互い打ち解けていたのではないかと思われる。
1945年4月。大和以下第二艦隊が出撃したことを察知したミッチャー艦隊は、空母艦載機による波状攻撃を行い、大和、矢矧らの艦を撃沈(坊の岬沖海戦)。日本海軍の艦隊水上特攻を防ぐ。
この後、沖縄戦での航空支援に従事するものの、5月11日に乗艦していたバンカー・ヒルに特攻機が突入。ミッチャー、バークは助かるものの幕僚数名が死亡。損害を受けたバンカー・ヒルから旗艦をエンタープライズに移すものの、その二日後に再度特攻機突入による攻撃を受けるなど苦闘を強いられている。
太平洋戦争後、内局勤務後ほどなくして1946年にミッチャー中将の引きもあり、大西洋艦隊参謀長として就任。しかしミッチャー中将の健康状態が思わしくなく、翌年ミッチャー中将が死去すると任を離れて、1948年、軽巡ハチントンによるアフリカ及び南アメリカ航海の任につく。その後、アメリカ国防科学委員会(DSB)などの内局勤務につく。
この時期、アメリカ海軍は大揺れに揺れていた。核兵器の実用化に伴い、従来の空母機動部隊の有効性に疑問符がなげかけられるとともに、(当時、陸軍から独立したばかりの空軍の)戦略爆撃が優位であるという意見が優勢を占めていた。
当時の核兵器(核爆弾)は巨大であるため、それを運搬する航空機も必然と大型化せざるをえなかった。
空母の有効性を持続させるためには、艦載機も大型化させ、かつそれを運用させるしかない。
海軍は通常動力型空母として空母<ミッドウェイ>よりもさらに巨大な空母<ユナイテッド・ステーツ>建造を行おうとしていたが、これには巨額の予算が必要で国防費削減を望む政府及び陸軍、空軍の猛反発を受け、心労がたたったのか国防長官のフォレスタルが倒れると、後任のジョンソン国防長官の独断により建造が中止するという出来事が起きる。
この一連の動きの中で、アーレイ・バーク大佐引きいる研究グループ"Op-23"は、空軍(というよりカーチス・ルメイが主導する戦略航空軍団SAC)が導入しようとしていた爆撃機B-36<ピースメイカー>の批判的資料を集め、性能及び運用評価において疑問を投げかけるなどの運動を行っていた。
結果的に国防長官の不正などを指摘する怪文書まで飛び交うだけではなく、一連の動きに反対した海軍上層部の数多くの将官(提督)らが辞任、あるいは解任・更迭される事態となり、一連の騒動は『提督たちの反乱』と呼ばれることとなった。
この騒動の結末はカール・ヴィンソン下院議員主導による(喧嘩両成敗的な)取り成しが行われ、海軍よりである議員の尽力もあり、空母をはじめとする艦隊は存続を許されることとなる(結果的にこの正しさは朝鮮戦争で証明された)。
この一連の動きの中でバーク大佐にとっては海軍のキャリアが危ぶまれたものの、時の海軍作戦部長フォレスト・シャーマンのとりなし(トルーマン大統領の指示もあったといわれる)もあり、無事キャリアに傷つくことなく朝鮮戦争勃発と前後して日本に極東艦隊参謀長として1950年に赴任することとなる。
(やりすぎちゃったのでほとぼり覚ますまでちょっと現場送りになったようなものかどうかは不明ではあるが)。
朝鮮戦争において連合国軍による反攻作戦(スレッジハンマー作戦)開始に伴い懸念された大量の機雷掃海のために、太平洋戦争終戦後、GHQによる占領下においてもアメリカ海軍がGHQの反対を押し切る形で残していた日本海軍の残滓でもある掃海部隊(当時は海上保安庁所属)を用いようとしている。
バーク大佐は吉田茂首相に対して朝鮮半島沿岸部に設置された機雷掃海を要請(事実上の命令)を行った。
要請を渋る吉田首相の「この件はマッカーサー元帥も了承しているのか」という問いに頷く。もっとも事実は違い、この件はバーク大佐の独断であったらしい(後日、海上自衛隊創設期の話を聞き取りにきた米国士官にそこの説明は少しボカしてくれ。と要請している)。
結果的にきこの回答により吉田首相は掃海部隊の派遣を決意。ごくごく秘密裏にこの派遣が行われることになる(詳しくは海上自衛隊・掃海艇の項を参照)。
太平洋戦争での苦い経験(友人を日本軍との戦いで失う、特攻機の攻撃を受ける、上官が日本嫌い)などからか、日本人に対して…正直言えば悪い…印象を持っており「ジャップ」「黄色い猿」と呼び、日本を毛嫌いしていたというが、赴任したあと様々な経験を重ね一転、親日家となったあとは日本の再軍備に伴う海上自衛隊創設やそれ以後の装備貸与など様々な内容ついて親身になり相談、便宜をはかっていたことでも知られる。
この経験については後述の「日本に纏わるエピソード」を参考のこと。
(その一方で、朝鮮戦争停戦交渉などの結果を受けて共産主義に対する強い警戒感があった故もあるかもしれないと指摘しなければならないだろう)
その後、1955年、アイゼンハワー大統領就任後に海軍作戦本部長に昇進。大統領支持のもと異例の3期6年の長きにわたって勤めることとなる。
この背景には、『提督たちの反乱』以後、戦略爆撃機が有効だと信じられていたはずが蓋をあけてみれば、冷戦下においては限定戦争という形となり、なお通常航空兵力を運用する空母機動部隊が有効性が確立されている一方、米ソによるMAD(相互確証破壊)成立による核均衡下のなか、さらなる海軍の存在意義確立をはかるためにバークの見識と指導力が求められ続けていたことも一因であった。
彼の就任時代において海軍は原子力推進を積極的に艦艇に導入。原子力潜水艦およびこれによる核攻撃などの確立のみならず原子力空母などの開発も着手することとなった。
1961年、ケネディ大統領就任後に発生したピッグス湾事件においては統合参謀本部(JCS)のスタッフとして作戦に反対の立場であったが、結局はGoサインをださざるを得なかったとされ、その後のインドシナ半島をめぐる問題についても意見があったものの、ヒッグス湾事件後は大統領らスタッフに信任されることはなかったともいわれる。
1961年、慰留されたものの海軍作戦部長任期満了にともない退任。さらに海軍を退役する。
1991年、彼の名をつけられたイージス・システム搭載「アーレイ・バーク」級駆逐艦が就役。生前に名前をつけられたのはめずらしく、「アーレイ・バーク」の就役式典にはバーク提督も参加し、進水式には夫人であるボビー夫人がシャンペンを割っている。
1996年1月1日に94歳で死去。大統領命令に基づき、イージス艦「アーレイ・バーク」他、「アーレイ・バーク」級駆逐艦全隻および彼が指揮した第23駆逐隊群全艦艇が彼に哀悼の念をあらわすため、1分間31ノットで航行したという逸話が残っている。
掲示板
87 ななしのよっしん
2019/12/14(土) 12:44:29 ID: 7yH8Kafw4P
88 ななしのよっしん
2022/02/11(金) 02:39:29 ID: suIqwNo9RX
>>86
Wikipedia 勲一等旭日大綬章の一覧に記載があるぞ、確かに「外国人で初」というのは「戦後の受章者では」という一文が足りないが。
コメントを一通り見ると流れと同時に、発言者の思想的背景が透けて見えるようで面白い。褒められてるのも貶されてるのも同様に眉に唾するというのは正しい姿勢ではあるけどね。
89 ななしのよっしん
2022/09/20(火) 00:39:21 ID: ETOCx2ddW9
頭悪そうなコメントばかりで辟易
お前らアーレイバーク級の艦尾に括り付けて31ノットで引き回したろか
急上昇ワード改
最終更新:2024/04/24(水) 17:00
最終更新:2024/04/24(水) 17:00
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