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キョウエイプロミス

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キョウエイプロミスとは、日本の元競走馬・種牡馬である。
日本競馬の歴史に確かな足跡を残した、誇り高き天皇賞馬。 

概要

父はボールドリック、母はチヨダクイン、母の父はネヴァービートという、現代っ子にはよくわからん血統である。

高松邦男厩舎に預託され、主戦柴田政人で6月にデビューするがなかなか勝ち上がれず、12月の4戦目でようやく未勝利脱出。
その後はクラシック目指して連戦するも条件戦1勝が精一杯で皐月賞・ダービーに間に合わず。
夏の北海道シリーズで菊花賞出走へ向けて再始動するが、函館記念後脚部不安を発症し一年間の休養となる。

一年後の北海道シリーズで復帰するが5戦して2着が2回というなんともな成績に終わる。ただ、5戦目の重賞ステイヤーズステークスで2着と才能開花の兆しを見せていた。
翌年は春に自己条件を勝つとその次走、当時春開催だったダイヤモンドステークスで重賞勝利を達成する。その勢いのまま宝塚記念に挑戦しモンテプリンスの4着と好走。
秋は毎日王冠を勝ち、当時府中の3200m戦であった天皇賞(秋)では3番人気に推されるがメジロティターンの大激走を尻目に7着に敗れる。
その後、当時秋開催の目黒記念惨敗で評価を落とすが有馬記念では13番人気に反発し3着に激走。
翌年の活躍が期待されたがまたも脚部不安で長期休養となってしまった。

秋競馬には間に合い、毎日王冠から始動。休養明けで3着となかなかの好走を見せ、天皇賞(秋)へ。
有力どころのアンバーシャダイが順調さを欠いたことや、他の有力馬もそんなにいなかったこともあり前走で敗れたタカラテンリュウに次ぐ二番人気に推され
レースでは先行し逃げたタカラテンリュウを捉えて突き放し、天皇賞制覇を達成。鞍上の柴田政人は通算800勝を達成した。
そして、翌1984年から2000mに短縮された府中3200mでの天皇賞(秋)最後の勝ち馬となった。
しかしながら牝馬が2着に入るなどレベルに多少疑問は残るレースであった。次走は天皇賞馬の看板を背負い、当時まだ第三回であったジャパンカップへ向かった。
このレースで、彼の評価は一気に高まることとなるのである。 

当時のジャパンカップは冬毛ボーボーのアメリカ芝路線の牝馬やアメリカでも二流の芝馬に勝たれるわ、招待馬にボコボコにされて勝ちに行った日本の大将は尽く敗れ
着拾いに行った馬が何とか掲示板ギリギリの5着に入るのが精一杯という状態であった。
日本馬は向こう20年は勝つ招待馬の影すら踏めないというのが、当時の定説であった。おお、卑屈卑屈。
そんな中、この1983年は三冠馬ミスターシービーが誕生した年でもあり、多方面から出走が熱望されていたにも関わらず
休養優先で年内一杯休養の方針を発表。これには日本のみならず海外も失望していた。
「なんで最強候補の三冠馬が出ないのか?」「天皇賞馬やグランプリホースじゃウチらには勝てないだろ?やる気あるの?」という批判が相次ぎ
海外メディアから日本陣営への質問は大概シービーなんで回避するんだよという一点に絞られた。
そんな中、堂々と「シービーはいませんが、だからこそ私のキョウエイプロミスが日本の代表・最強馬としてあなた方の相手を務めるのです」と言い放ったのが高松師であった。
鞍上の柴田政人も「状態はパーフェクト、勝ちに行きます!」と宣言。とはいえ、日本馬の今迄を考えれば日本の競馬マスコミも軽視したせいか
当日の人気は10番人気と低評価。一番人気は後に孫のシングスピールがジャパンカップを取ることになる牝馬ハイホークであった。

レースはハギノカムイオーがバカ逃げしてサクラシンゲキよろしく玉砕。
先行していたアンバーシャダイも直線向くと手応えが怪しい。しかし馬場の真ん中からキョウエイプロミスがじわりじわりと伸びる。
しかし外から前年4着、アスコット12ハロンのレコードをハービンジャーに破られるまで保持していたスタネーラが切れ味の違いで外から一気にかわす!ああ、またダメか…
しかしプロミスは粘る。食らいつく。200mに渡る叩き合い、フジテレビの解説であった大川慶次郎氏もラスト100mに入ると「プロミス!プロミス!」とひたすらに連呼し始めるほどの激戦に持ち込む。
ファンも、関係者もこれは!?と身を乗り出して見つめる中、ゴール。アタマ差スタネーラが粘り切っていた。2着敗戦。
日本馬による初勝利は達成出来なかったが、見事初めての連対を達成したのであった。しかし高松師も「そろそろ限界かもしれない」と懸念していた右前脚がついにパンク。
ゴール後繋靭帯不全断裂を発症し馬運車で退場。競走能力喪失、引退となってしまった。
しかし、彼が日本馬でもやれば出来るんじゃないか?という思いを関係者に植え付けたことが、翌年カツラギエースによる逃げ切りに繋がっていくのである。

種牡馬入りしたが晩成のステイヤー故に成績は残せず、彼の血を引く馬はもういない。
しかし、彼が競争生命の全てを賭した全身全霊の走りで、日本の競馬関係者の「海外馬には勝てない、無理だ」という呪縛を解き放ったことが
90年代から現在における積極的な海外遠征や、勝利の歴史の第一歩となったことは心の片隅にでも覚えていてほしいものである。

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最終更新:2025/12/07(日) 01:00

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