「グネッキ・ソルディ・オルガンティノ(Gnecchi‐Soldi Organtino)」(1533年 - 1609年)とは、
戦国時代末期~安土桃山時代の日本でキリスト教布教につとめた宣教師である。
激動の時代の目撃者の一人であり、ルイス・フロイス、アレッサンドロ・ヴァリニャーノらと並んで、日本キリスト教史に名を残す人物。
1533年、イタリアで生まれる。
22歳でキリスト教(カトリック)修道会のイエズス会に入会し、日本に派遣されたのは36歳の時だった。
最初に1年をかけて日本語を学び、また法華経について研究した。その後京都においてルイス・フロイスと共に市井での布教活動に勤めたが、これに対して仏教界は警戒を強め、時にはひどい嫌がらせや妨害があったという。
この困難な状況に際して、オルガンティノはイタリア人らしい明るさと性格で、多くの人々と交流した。パンではなく米を食べ、僧侶が纏う墨染の衣に草鞋を身に着けるなどし、日本に適合する事で人々の信頼を集めた。やがて彼は「宇留岸伴天連(うるがんばてれん)」と呼ばれるようになり、多くの人々に慕われた。
彼の着任後、近畿地方における信者の数は、わずか3年で1500人から1万5,000人にまで増加したとされる。
高山右近を始めとしたキリシタン大名に始まり、やがて織田信長や豊臣秀吉といった権力者ともよしみを通じ、彼らの信任を勝ち得た。
様々な支援を受け、天正4(1576)年、京都に「聖母被昇天教会」を建てる。これがいわゆる「南蛮寺」である。ここを拠点として活動を続け、天正8(1580)年には安土城下に「セミナリヨ(神学校)」を建設し、院長に就任した。
しかし信長の死後、安土城下は荒廃し、さらには天正15(1587)年、宣教師に便乗したスペインの影響力拡大を警戒した秀吉によって、バテレン追放令が出される。
これによって京都の南蛮寺は打ち壊され、高山右近は自らの領地を捨て、小西行長(表向きは棄教していた)の領地にある小豆島へと移り住んだ。オルガンティノはこれに同行し、小豆島から京都の信徒に向けて手紙などで指導を続けた。
後に高山右近が加賀・前田家に客分として招かれると、九州へと移り住む。
天正19(1591)年、ローマ法王に謁見した天正遣欧少年使節が無事帰国。オルガンティノは彼らに同行して豊臣秀吉に拝謁し、再び京都に住む事を許された。
その後もひっそりと信徒への指導は続いたが、慶長2(1597)年、サン=フェリペ号事件をきっかけとして、日本二十六聖人の殉教が起きる。この時、京都で捕らえられたフランシスコ会の宣教師や日本人の信徒、総勢26人は耳たぶを切り落とされ、九州へ移送されて磔となった。
実はオルガンティノも危うく対象になりかけたのだが、外国を刺激して事を構えるのを良しとしない石田三成らにより、イエズス会会員である事を理由として、名簿から除外された。切り落とされた耳たぶをオルガンティノは受け取り、涙を流して祈りを捧げたという。
慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いが起きる。
それより前、キリシタンとして知られる細川ガラシャ(細川忠興正室)は石田軍に人質に取られるのを拒み、屋敷に火を放って家臣の手にかかり、命を落とした。
屋敷の焼け跡から彼女の骨を拾ったのは、生前に交流があったオルガンティノであり、1年後に夫・忠興の依頼によってキリスト教式の葬儀を執り行った。
この葬儀には、忠興を始めとした細川家家中の者も参列したと伝えられている。
その後も豊臣から徳川の世へと移り行く日本を見続けたオルガンティノは、慶長14(1609)年、長崎の地にてその生涯を閉じた。享年76。
30年という長い歳月をかけて日本に滞在し、日本人の気質に好感を抱いていたオルガンティノは、書簡の中でこう伝えている。
「我々(ヨーロッパ人)はたがいに賢明に見えるが、彼ら(日本人)と比較すると、はなはだ野蛮であると思う。私には全世界中で、これほど天賦の才能をもつ国民はないと思われる」
「日本人は怒りを表すことを好まず、儀礼的な丁寧さを好み、贈り物や親切を受けた場合はそれと同等のものを返礼しなくてはならないと感じ、互いを褒め、相手を侮辱することを好まない」
芥川龍之介は小説「神神の微笑」において、熱心な布教者としてオルガンティノを主役に据え、日本古来の神と対話させている。
また、辻邦生の小説「安土往還記」では登場人物の一人として、京都での布教を行う様子などが描かれている。
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最終更新:2025/12/06(土) 01:00
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