ディエップの戦いとは、第二次世界大戦中の1942年8月19日に行われたドイツ軍vsイギリス軍・カナダ軍の戦いである。事前に情報が漏れていた事から連合軍の惨敗に終わった。
1940年6月、ドイツ軍の電撃的な侵攻を受けたフランス軍は降伏。ともに戦っていたイギリス軍はダンケルクから決死の撤退を行って、どうにか本国まで逃げ帰る事が出来た。
それから約2年が経過した1942年、ドイツ軍の勢いに押されるソビエト連邦はイギリスに対し、フランスに上陸して第二線を構築するよう再三要請。しかしフランス沿岸の防御力がどれほどの物が把握出来ていないため、とりあえず様子見の上陸作戦を計画。防御が薄く、戦闘機の援護が受けられる北部の港町ディエップを中心とし、16ヶ所を上陸地点に選んだ。飛行場や石油貯蔵施設の爆破、捕虜となったフランス兵の解放、ドイツ軍司令部から機密文書奪取など、それぞれの地点で目標が定められた。
作戦のため、カナダ軍から第2歩兵師団の6個大隊と機甲1個連隊が派遣された。イギリス軍からはコマンド部隊が派遣され、D・ミルズ・ロバート中佐が指揮を執った。彼らはイギリス南部のラルワース入り江にディエップと同じような環境を作り、何度も訓練を実施。錬度を高めた。一連の上陸はジュビリー作戦と命名された。
作戦日は7月4日以降の晴天日に定められたが、折悪く悪天候に見舞われて晴れの日は来なかった。これでは奇襲の効果が無くなるとして、バーナード・モントゴメリー司令は作戦の中止を訴えたが、ルイス・マウントバッテンの強固な姿勢に押されて結局続行された。
作戦開始の2日後、パーティーの席上でイギリスの高級将校がうっかり「ディエップを攻める」と口を滑らせてしまった。ただちにドイツ軍のスパイによって伝えられ、増援が続々と送られた。さらに手薄に見えるよう偽装工作まで行い、連合軍を待ち受けた。
8月19日深夜、まずイギリスのコマンド部隊がディエップに上陸。主力に先立ってドイツ兵と交戦を始めた。ボストン軽爆撃機の支援を受け、銃撃戦の中でかなりのドイツ兵を打倒。トーチカを奪取し、機銃陣地を陥落させるなど高い錬度を発揮したが、目標であった橋頭堡の構築に失敗。コマンド部隊は壊滅し、生き残りは降伏せざるを得なかった。この戦闘でドイツ軍は初めて米兵を捕虜にしたという。
早朝、6086名(5000名のカナダ兵、1000名の米英兵)が上陸。迎え撃つはドイツ兵1500名。数だけ見れば圧倒的に連合軍が有利であった。また連合軍はいずれ来るであろうフランス上陸作戦に備え、30輌のチャーチル戦車を持ち込んでいた。ところが、上陸した途端にドイツ軍の熾烈な攻撃が始まった。期待されたチャーチル戦車は自重で浜辺から動けなくなり、ドイツ軍の格好の的となった。明らかに奇襲とはいえない猛烈な反撃を受けた連合軍は総崩れと化し、作戦の遂行どころではなくなった。更に空からドイツ空軍機が襲い掛かり、海からは混乱した連合軍の艦艇が味方を撃つなど地獄絵図だった。何ら目的を達成できないまま、連合軍は撤退。戦略的にも戦術的にも大敗してしまった。
約6000名中、生還したのは約2000名程度だった。ドイツ兵の戦死者は僅か591名に留まった。この連合軍の醜態をドイツが喧伝しない訳が無く、8月26日にニュースで大々的に報道された。枢軸サリーによるプロパガンダ放送にもディエップの名が登場している。
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最終更新:2025/12/08(月) 15:00
最終更新:2025/12/08(月) 14:00
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