マリアナ沖海戦とは、大東亜戦争中の1944年6月19日に生起した日本海軍vsアメリカ海軍の戦闘である。
日本側はサイパン島守備隊の救援に失敗し、虎の子の大型空母3隻と航空機300機以上を失って大敗した。
1943年2月にガダルカナル島争奪戦に敗れてからというもの、日本軍の勢力圏は後退を続けていた。アメリカ軍の反攻は日に日に増大し、1944年に入るとマキン、タラワ、クェゼリン、ルオット、ヤルート、ブラウンが次々に失陥。一大拠点のトラック島とパラオも大空襲を受け、再起不能に追いやられた。アメリカ軍の次なる目標は、マリアナ諸島……ひいては日本の南洋庁がある中心地サイパン島であった。ここを奪取すれば、いよいよB-29の爆撃圏内に日本本土が収まる。本土爆撃の足がかりのため、アメリカ軍はサイパン島に狙いを定めた。
無論、日本軍もサイパン来襲を予見しており、1943年9月に制定された絶対国防圏では要地に設定された。これに伴って海軍は特別根拠地隊や陸戦隊を増派。陸軍も満州から第29師団を増援に送った。1944年3月から敵の偵察機が飛来し、4月中旬からは低空爆撃をしながら空撮していくなど来攻の前兆が見受けられた。しかし敵のサイパン上陸は1944年9月頃と見られており、部隊進出や陣地構築が遅れていた。
また海軍は艦隊決戦を試みる「あ号作戦」を発令し、東南アジアに再建したばかりの機動部隊を配置。いつでも迎撃できるようにしていた。
1944年6月13日、アメリカ軍の戦艦8隻が一斉にサイパン島へ艦砲射撃を開始。15日には海兵隊二個師団が上陸を開始した。この危急を受け、帝國海軍はタウイタウイ泊地から小沢治三郎中将率いる迎撃艦隊を出撃。ビアク島輸送作戦に従事していた部隊に原隊復帰を命じ、一部が小沢艦隊と合流した。6月17日、米潜水艦キャバラに発見され位置情報を通報されてしまうが、何故か情報伝達に不備があって司令官スプルーアンスのもとに届いたのは翌朝という有様だった。既に情報が古くなっていたため有用とはなり得なかった。
あらゆる面で劣勢な小沢艦隊は、貴重な母艦を守るためにアウトレンジ戦法を選択。これは足の長い日本軍機の特徴を活かし、敵機の行動範外から一方的に攻撃するというものだった。またミッドウェー海戦の戦訓から索敵を徹底し、6月18日夜にはアメリカ第5艦隊を捕捉。対するアメリカ軍は日本機動部隊の位置すら把握できていない状態だった。
6月19日早朝、小沢艦隊は再び偵察機を放って敵艦隊の位置を確認。偵察機の大半は敵第58任務部隊の戦闘機に撃墜されるが、攻撃に必要な情報は全て揃った。そして午前8時30分、各空母から爆装零戦45機、雷撃機27機、艦爆53機、零戦48機が出撃。1時間半後に艦爆53機、雷撃機27機、零戦48機が発進した。
第一次攻撃隊が発進した頃、4隻の米潜水艦が小沢艦隊に忍び寄っていた。このうちキャバラが放った魚雷が大型空母翔鶴を、アルバコアが放った魚雷が旗艦大鳳を撃沈。一度に2隻の大型空母を失ってしまう結果となった。攻撃隊は米機動部隊の上空に辿り着いたが、既に大量のヘルキャットが待ち伏せており一方的な殺戮劇が始まった。日本側の搭乗員は錬度不足であり、敵機に背後を取られても機体を左右に振らなかったので格好の的となった。アメリカ軍のパイロットは「七面鳥撃ち」と揶揄した。決死の覚悟で敵艦に突撃したものの、ワスプⅡとバンカーヒルに小規模な損害を与えた程度だった。アメリカ軍に艦船の被害は無く、23機の戦闘機を失っただけで済んだ。
小沢艦隊では、送り出した航空隊が全く帰還しないので「おそらくグアムに降りているのだろう」と推測していた。373機中、帰ってきたのは130機のみだった。燃料補給をするため、油槽船が待機している北西方面に針路を向けた。一方、スプルーアンス司令は日本機動部隊を捕捉するため前進。艦隊からは索敵機を、陸上基地からは長距離偵察機をバンバン飛ばし、草の根を掻き分ける勢いで探し回ったが、発見には至らず。小沢艦隊は既に偵察機の行動範囲から脱していたのである。
翌20日夕刻、給油を済ませた小沢艦隊は残余の機体を使って再び敵に攻撃を仕掛けようとしていた。しかし16時頃、怨敵エンタープライズの索敵機に発見され、約1時間後に猛烈な空襲を受ける。瑞鶴は命中弾を受けて損傷、隼鷹と千代田は中破、飛鷹は雷撃で撃沈されるという大損害をこうむる。190機あった航空機は僅か35機にまで減少し、作戦の続行は不可能として夜陰に紛れて沖縄方面に撤退した。
一方、夕闇が迫る中で攻撃を強行したアメリカ軍もタダでは済まなかった。着艦失敗や燃料切れで80機以上を喪失したのである。献身的な救助活動により、死者はパイロット16名と整備員36名で済んだ。
虎の子の大型空母3隻と航空機300機以上を失った帝國海軍は、せっかく再建した機動部隊を失った。以降は再建すら出来なくなり、のちのレイテ沖海戦では残った空母を囮に使わざるを得なかった。小沢艦隊の撤退によりサイパン島の救援は不可能になり、7月7日に守備隊は玉砕。マリアナ諸島の失陥に繋がった。
一方、大型空母3隻を撃沈して小沢艦隊を追い返したスプルーアンスであったが、彼には賞賛ではなく非難が浴びせられた。慎重な彼の姿勢は弱腰とされ、特に日本艦隊の大部分を無傷で逃がした事は航空関係者の不満を買った。ゆえに「ハルゼーだったらもっと戦果を挙げられたのに」という声が散見された。
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最終更新:2025/12/07(日) 03:00
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