ミッドウェー海戦とは、1942年(昭和17年)6月5日から7日にかけて起こった大日本帝国海軍とアメリカ合衆国海軍との海戦である。
帝国海軍は1941年12月8日に行った真珠湾攻撃でアメリカ海軍に大打撃を与え、その2日後に行われたマレー沖海戦では、イギリス海軍の誇る新鋭戦艦『プリンス・オブ・ウェールズ』及び巡洋戦艦『レパルス』を撃沈させるなど、順調にアジア・太平洋の制海権・制空権を握っていた。
翌年も2月のスラバヤ沖海戦で勝利し、4月のセイロン沖海戦ではイギリスの空母『ハーミズ』を沈没させるなど快進撃を続けていた。しかし聯合艦隊司令長官・山本五十六大将は日本と連合軍との戦力差を考え『アメリカにもう一度大打撃を与え、その上で早期講和を目指す』という構想を持っており、参謀である黒島亀人大佐に命じてミッドウェー攻略作戦を検討させた。
ミッドウェー作戦(MI作戦)に対する軍令部の許可は4月5日におりたが、その後4月18日にアメリカの空母『ホーネット』より16機のB-25爆撃機が発艦し、日本の都市を爆撃した。たいした被害は出なかったが国民は衝撃を受けた。特に本土防空に絶対の自信を持っていた陸海軍の将兵は動揺した。
この本土空襲の為、俄然本気になった陸海軍は5月5日に永野軍令部総長はミッドウェー島・アリューシャン列島の攻略を認可し、陸軍からは一木支隊を提供した。
5月に入り、珊瑚海では歴史上初めての機動部隊による海戦が起こった。日本海軍はアメリカ空母『レキシントン』を沈め、『ヨークタウン』を中破させたが、こちらも軽空母『祥鳳』が沈没、『翔鶴』が中破、『瑞鶴』は被害が無かったが航空機と搭乗員の補充が必要となった。
この珊瑚海海戦の影響によりミッドウェー海戦に参加できる正規空母は6隻から4隻になった。
開戦時の連合艦隊では、破壊又は占領するべき外郭要地であったが真剣に議論がされていなかった。
作戦計画は、米ソ間の連絡を絶ち切り、シベリアに米戦闘機が進出して来ないようにすることだった。ソ連の刺激と哨戒兵力の多さから実行不可として棚上げにされていた。
ミッドウェー攻略が内定する関心が高まり、ミッドウェー攻略の牽制として、又は日本本土に接近する米空母を抑える目的で攻略が決まった。
ミッドウェー島を攻略させる事をアメリカにさとられないようにアリューシャン列島のアッツ・キスカ両島を占領する為『龍驤』と『隼鷹』の2隻の空母を陽動作戦(AL作戦)で向かわせ、無事にアッツ・キスカ両島を占領した。
ミッドウェーを攻略させる事をアメリカにさとられないようにアリューシャン列島のアッツ・キスカ両島を占領する為『龍驤』と『隼鷹』の2隻の空母を陽動作戦(AL作戦)で向かわせ、無事にアッツ・キスカ両島を占領するも、アメリカ軍に暗号が解読されていた為、ニミッツ大将は空母『エンタープライズ』・『ホーネット』・そして珊瑚海で中破したが、3日間の突貫作業で修理させた『ヨークタウン』をミッドウェーに向け送り出し、ミッドウェー島に航空機の増援を送った。
対する日本軍は南雲忠一中将が指揮する空母『赤城』・『加賀』・『蒼龍』・『飛龍』を中心とした機動部隊にミッドウェー島の攻略を命じ、その後やってくるであろうアメリカ海軍を迎え撃つ為、戦艦『大和』を中心とした山本五十六長官率いる主力部隊が後で合流する運びとなった。
かくして、ミッドウェー島を攻略すべく帝国海軍は動き出した・・・。
6月5日
4時30分に友永丈市大尉が指揮する第一次攻撃隊108機が空母を発艦し、6時30分にミッドウェー島を空襲するも、先にアメリカの偵察機であるカタリナ飛行艇に発見された為にたいした被害は与えられなかった。そして友永大尉は第二次攻撃の必要あり(カワ・カワ・カワ)と打電した。
対するアメリカ軍は5時40分に日本軍の機動部隊を発見。ミッドウェー基地航空隊が6時に発進。米機動部隊から7時に攻撃隊149機を発艦させた。
そして7時10分に南雲機動部隊にミッドウェーから発進した攻撃機による空襲があったが全て直掩の零式艦上戦闘機30機に叩き落とされた。
7時15分、旗艦『赤城』に友永大尉からの無電が届く。南雲長官は源田実航空参謀との打ち合わせの上、魚雷から対地爆弾への兵装転換を命じた。
7時28分、遅れて偵察を開始した利根より発進した偵察機が『敵らしき物発見』との電文が届く。
7時45分、兵装転換中止を決定。再度の魚雷への変換を命じた。第一次攻撃隊が帰還を始める。
7時47分と8時00分に利根の偵察機に対し艦種を知らせるよう命令が出される。
8時20分、利根の偵察機より『敵ミッドウェーの北240海里(約450キロ)、空母1隻を伴う』と報告が届く。 (だがこれは間違いで敵空母は北140海里(約260キロ)にいた)8時30分、艦爆隊の爆装準備が始まる。
『飛龍』の司令官山口多聞少将は『直ちに攻撃隊発進の要ありと認む』と赤城に発光信号を送るが、『赤城』の南雲長官は
「(偵察機の報告から)敵はまだ遠くにいる」(偵察機が報告してきた位置から米空母との距離は約210海里と判断された。この距離では攻撃隊は護衛無しの状態になるため敵は護衛機をつけるために接近する必要があり、護衛なしで襲来させた場合は直掩機で防ぐことができるとされ、兵装換装などの時間の余裕があると判断したとされる。)
「攻撃隊を発艦させると、第一次攻撃隊を着艦できず、最悪の場合100機近い航空機を燃料切れで失う事となる」
「零戦を直掩で上げているので攻撃隊に付ける機体が無い」
などのさまざまな理由で攻撃隊を発進できなかった。
9時17分、第一次攻撃隊を収容し南雲機動部隊は北東へ退避[1]。断続的な空襲の為兵装転換はなかなか進まず。
10時22分、ようやく兵装転換終了、上空直掩の増援のため零戦が発艦を始めた。
10時24分、『エンタープライズ』より発艦したドーントレスの急降下爆撃により『赤城』・『加賀』・『蒼龍』が被弾する。
10時46分、南雲長官が旗艦を『赤城』から『長良』に移す。
10時58分、『飛龍』より第一次攻撃隊発艦。
12時08分、『飛龍』の攻撃隊による爆撃で『ヨークタウン』に250キロ爆弾三発命中。『ヨークタウン』中破。
13時30分、『飛龍』より第二次攻撃隊発艦。
13時38分、『飛龍』に第一次攻撃隊が帰還する。
14時40分、『飛龍』の第二次攻撃隊が『ヨークタウン』に魚雷二本命中。『ヨークタウン』大破。
(後に『ヨークタウン』は日本海軍の『イ168』潜水艦の魚雷で撃沈する)
15時45分、『飛龍』に第二次攻撃隊が帰還する。
17時03分、唯一残った空母飛龍が爆撃を受ける。
19時15分、『蒼龍』沈没。
19時26分、『加賀』沈没。
23時55分、戦艦『大和』の山本長官がミッドウェー作戦中止を決定する。
6月6日
2時、自沈させる為『嵐』、『萩風』、『野分』、『舞風』より放たれた魚雷により『赤城』沈没。
9時、自沈させるため駆逐艦『巻雲』より放たれた魚雷により『飛龍』が沈没。
かくしてミッドウェー海戦は日本海軍の敗北に終わった・・・。
6月7日、『飛龍』の反撃によりダメージを受けた『ヨークタウン』だが、消化作業が終わり、後方基地のハワイに退避準備を進めていた。連絡を受けて作戦海域に入った伊号潜水艦『イ168』は米駆逐艦『ハムマン』を横着けして復旧工事を進めている『ヨークタウン』を発見。
『ヨークタウン』は、すでに乗員を移して自力航行も可能にまで回復していた。『イ168』艦長、田辺少佐は攻撃を決意。『ヨークタウン』の真下を通過したり、その場で360度旋回しながら距離を図り、発見から9時間後に『ヨークタウン』に向けて4本の魚雷を発射した。内3本は『ヨークタウン』1本は『ハムマン』に命中。(アメリカ側の資料には各艦1発ずつ)
『ハムマン』は轟沈。『ヨークタウン』は回復が難しくなり復旧作業は中断、雷撃処分された。
『イ168』は米駆逐艦からの5時間に及ぶ爆雷攻撃に耐えて、戦場を後にした。
ミッドウェー海戦後はフィジー・サモア攻略、ジョンストン・パルミラ攻略を経て10月にハワイを攻略する予定であったが、この敗北により崩れさった。この戦いの後はソロモン海域で日米両軍が消耗戦を繰り広げ真珠湾以来の熟練搭乗員を次々と失う事となる。
この戦いの後も日本海軍は戦力を十分残しており、空母を4隻失ったが熟練搭乗員はまだ多数残っていた。
また空母同士の戦いは続き、南太平洋海戦ではまだまだ対等な戦いを続けている。
それでも正規空母4隻とその艦載機を一度に喪失したのは非常な痛手であった。このため、ミッドウェー海戦が太平洋戦争における転換点であるという根強い主張があり、ソロモン海域での消耗が転換期とする主張と別れている。
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最終更新:2025/12/21(日) 11:00
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