南方熊楠(1867年5月18日 - 1941年12月29日)とは、日本の博物学者、生物学者、民俗学者である。
別名「歩く百科事典」。
柳田国男曰く「南方熊楠は日本人の可能性の極限だ」。
1867年現和歌山県で生まれた彼は、幼いころより神童として扱われ、大変な読書家でも有り、「和漢三才図会」(105巻81冊の百科事典、絵図入り)を全部筆写するなど筆写魔でもあった。
1883年、中学校卒業後上京し、共立学校を経て翌年に大学予備門に入学、植物採集などに明け暮れていたため学業が振るわず1886年中退。同年反対する親を説得しアメリカ留学に出発し、翌年ミシガン農業大学に入学するも更にその翌年に寄宿舎での飲酒禁止規則を破り退学。その後地衣類学者ウィリアム・カルキンスに直接師事して標本制作を学び、フロリダを中心に中南米まで足を伸ばし動植物の観察を行った。
1892年、それまでの研究データを持ってイギリスに渡り、翌年科学雑誌「ネイチャー」に初の論文「極東の星座」を寄稿。大英博物館に出入りして蔵書を読みふけり筆写しつつ論文を投稿する生活を送った。その後1895年に大英博物館の東洋図書目録編纂係として雇われるも、1898年に暴力事件を起こすなど度々問題を起こし、1900年に出入り禁止処分を受け、日本へ帰国。このイギリス滞在中に孫文と知り合い親交を深めるなどしている。
日本へ帰国後、寺に身を寄せるなどしたあと和歌山へ帰郷し父の興した酒造会社(現在の世界一統)を経営していた弟の世話になりつつ植物採集や論文の執筆などを続けた。1907年には神社合祀令(明治政府の国家神道的観点に基づいた神社を減らす法律)に自然保護的観点から反対した。これは日本最初の自然保護運動である。
その後柳田国男と交流を深め民俗学分野にもその研究範囲を広げ、1929年には紀南行幸中の昭和天皇に戦艦長門上で進講し、粘菌標本を献上した。
1941年死去。満74歳であった。なお1906年に結婚しており、妻との間に息子と娘が一人ずついたが、孫はいなかったため彼の直系の子孫は途絶えた。しかし、世界一統は弟の家系が現在も経営しており、南方熊楠生誕120周年を記念して「熊楠」というシリーズが三種ラインナップされ現在も製造されている。
彼の業績は残されたものを見る限り膨大で広範な分野にまたがっていたのは確かであるが、その一方で論文の発表数は少なく、彼の発見した新種はすべて別の研究者の手によって発表された。これらにより観察者・収集者としての評価は高いが、研究者としては業績は少ないとするのが現状である(科学研究では論文の出版発表をもって正式な業績とするため)。
なお彼は粘菌の属(種の一つ上の分類)を発見しており、それにはミナカテルラ・ロンギフィラ(標準和名:ミナカタホコリ)という彼に由来した学名が付いている。
十種の粘菌を発見し、属まで発見した南方熊楠は大学を二回中退、大英博物館出入り禁止などの輝かしい経歴でお分かりのように奇行でも有名で、それ以外にも数々の逸話が残っている。
あんまり多いので詳しくはwikipedia他を各自参照してください。
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最終更新:2025/12/10(水) 20:00
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