宮城事件とは、大東亜戦争終結直前の1945年8月14日深夜から翌15日にかけて発生した事件である。
「みやぎ」ではない。
1941年12月から始まった大東亜戦争は、今や日本の敗北で終わろうとしていた。1945年8月10日、防空壕で開かれた御前会議で、昭和天皇は連合国から出されたポツダム宣言を受諾する聖断を下した。これにより戦争は終結へと向かい始めたのだが、陸海軍ともに徹底抗戦派が数多く存在。未だ中国大陸には100万の元気な陸軍が残っており、総戦力は230万に達する等まだまだ戦える力があると抗戦派は唱えていたのである。聖断への反発からクーデターの火種が生まれようとしていた。
陸軍軍務局の畑中健二少佐と椎崎二郎中佐が中心となり、8月15日正午に放送予定の玉音放送を阻止しようと反乱を計画。近衛師団参謀の石原貞吉少佐や古賀秀正少佐、航空士官学校生徒隊付の上原重太郎大尉を仲間に加え、宮城の占拠を企図した。これが後の世に言う宮城(きゅうじょう)事件である。
8月10日にポツダム宣言受諾の聖断は下り、皇族会議でも概ねの賛同は得られた。しかし8月13日午前9時から行われた最高戦争指導会議や閣議では議論が紛糾。特に阿南陸軍大臣、松阪広政司法大臣、安部源基内務大臣の3名が強固に反対した。だが15時の閣議で遂に受諾が議決され、連合国にもその事が伝えられた。
翌14日午前10時50分、最後の御前会議が開かれた。依然反対の姿勢を崩さない阿南大臣たちは「連合国に説明を求め、それまでは戦争の継続を」と涙ながらに訴えた。昭和天皇は「反対論の意見はそれぞれよく聞いたが、私の考えはこの前申した事に変わりない」と再度聖断を下し、「自分は如何になろうとも、万民の生命を助けたい……万民にこれ以上苦悩を舐めさせる事は……忍びがたい……」と流れる涙を両手でぬぐいながら訴えた。いつしか列席者の間からもすすり泣きの声が聞こえ、反対派も遂に折れるのだった。鈴木首相は天皇の御意思を速やかに実行する旨を言上し、一度ならず二度までも御決断を仰いだ事を陛下に詫びた。こうしてポツダム宣言の受諾は不動のものとなった。陛下が退室された後、とある閣僚はひざまずいて悲嘆にくれたという。
午前11時より終戦の詔書の起草が始まり、22時頃に鈴木首相が昭和天皇のもとに奉呈。署名し、御璽(おしるし)を押された。23時から閣僚が順次署名し、同時に外務省はベルンとストックホルム経由で連合国に緊急電報を送り、「ポツダム宣言の受諾」と「詔書を発表する用意がある事」を明示した。NHKは15日正午に天皇が国民に向けて放送するという驚くべきニュースを報道。臣民にも伝わる事になった。
鈴木内閣は「宮内省で終戦の詔書を録音した方が良い」と考え、録音機材が密かに持ち込まれた。空襲警報の発令などで準備に手間取り、実際に録音が始まったのは14日深夜であった。昭和天皇の肉声を録音盤に収録するのだが、1回目の収録は緊張からか声の調子が高く、いくつかの単語が聞き取れなかった。やむなくリテイクし、二度目の録音が行われた。2回目も不満足な結果だったが、さすがに3回もやらせるのは畏れ多いという事で収録は終了。録音盤は侍従によって宮内省の奥深くにある金庫へ保管された。
ポツダム宣言受諾に反対する軍人は、陸海軍ともに数多く存在していた。終戦に反発する近衛師団参謀の石原少佐と古賀少佐は、同じく反対派の畑中少佐や椎崎中佐と結託。降伏を阻止するべく反乱の準備にかかった。まず阿南陸軍大臣に「兵力使用計画」というクーデター計画を提示し、協力を求めた。内容は近衛兵と東部軍の兵で宮城を占領し、和平派の一掃とポツダム宣言受諾の破棄というものだった。しかし阿南大臣は計画に協力せず、反乱は一時頓挫する。それでも反対派の竹下中佐が阿南大臣のもとに留まり、逐一クーデターの戦況を伝えて協力を呼びかけ続けた。次に畑中少佐は東部軍管区司令の田中静壱大将と面会し協力を求めたが、一喝されて逃げ出している。重鎮の後ろ盾を得られなかった反乱将校たちは、自分たちで決行する事を決意。
8月15日午前0時、反乱軍は行動を開始した。午前1時45分、椎崎中佐と井田中佐が近衛第一師団長の森中将を仲間に引き入れようと説得するが、森師団長は「たとえ陸軍大臣、参謀総長の命令であっても天皇陛下の御命令以外では決して動かない」と頑なに拒否。業を煮やした反乱将校はピストルで射殺した。そして15分後、師団長の印を勝手に使って命令書を偽造。指揮下の近衛兵を動かし、歩兵第二連隊が宮城を包囲。近衛師団の通信中隊が宮城・宮内庁間の電話設備を破壊し、通信手段を遮断。更に皇居警察官の非武装化をして占拠に成功する。坂下門では、佐藤大尉率いる近衛歩兵第三連隊がNHKの技師・玉虫一雄以下18名を拘束、守衛所で監禁される。だが彼は録音されたレコードを持っていなかった。となれば、レコードは録音が行われた宮城に保管されているに違いないと反乱将校は思い至った。
8月14日深夜、宮城に録音用の機材がNHKによって持ち込まれ、そこで天皇はポツダム宣言受諾の旨をレコードに録音していた。このためレコードの原盤は宮城のどこかにあると踏み、反乱部隊は宮城の中を探し続けた。しかし一晩中探し続けても原盤は出てこなかった。そこで畑中少佐は放送会館を武力で占領して玉音放送を不可能にし、ラジオを通じて臣民に決起を呼びかけようと画策。宮城を離れ、放送会館に徹底抗戦の放送を求めたが「警戒警報が発令中の場合には、東部軍管区司令部の許可が無いと出来ない。全国放送なら各放送局との技術的な調整が必要になる」と言われて断念。また午前4時頃には師団命令が偽物だとバレ始め、8月15日の早朝には宮城が東部軍に包囲される。田中大将の説得によって反乱に加担していた近衛兵は次々に投降。午前8時頃には宮城から近衛兵が退却し、あっという間に鎮圧に至った。
玉音放送が始まる直前の午前11時20分、主犯格の椎崎中佐と畑中少佐は二重橋と坂下門の間の松林で自決。阿南陸軍大臣も森師団長殺害の責任を取って割腹自決を遂げ、宮城事件は幕を下ろした。そして正午に玉音放送が流れ、3年8ヶ月に及んだ戦争は終わった。
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最終更新:2025/12/09(火) 13:00
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