斎藤雅樹とは、かつて読売ジャイアンツで活躍していた元プロ野球選手である。
現在は同球団で一軍投手コーチを務めている。
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1982年のドラフト会議にて、高卒で荒木大輔の外れ1位として巨人に入団。しかし入団当初から1990年代前半まではノミの心臓と言われ、抜群の身体能力と対照的に悲壮感漂う表情が印象的だった。
巨人入団後、当時の監督、藤田元司の意向もありサイドスローに転向。1989年に藤田が監督に復帰してから大ブレイク。11試合連続完投(うち3試合連続完封)の日本記録を達成するなど20勝を記録。1990年も20勝を達成し、平成の大エース、ミスター完投などと呼ばれるまでに成長した。
覚醒してからは「マッスラ」と呼ばれる高速スライダーと「ブレーキングカーブ」と称されるシンカーを駆使。速球派を自称しており、サイドスローから常時150km/h弱のスピードで投げていた。さらに利き腕方向にねじ切れるように変化するストレートを持っており、そこから更に完投能力が高いのだから手がつけられない。
当時は打高投低の時代にもかかわらず、巨人以外の野球ファンから「斎藤が登板したら負け試合」とまで言われるほどの投球を見せた。
1993年から1997年まで開幕投手を務め、うち1994~1996年まで3年連続開幕戦完封勝利という偉業をやってのけ、桑田真澄、槙原寛己と共に三本柱を築いた。リーグ優勝がかかった1994年10月8日、中日ドラゴンズとのペナントシーズン最終戦では、槙原の後を受けて2番手で登板し、勝利投手となった他、1996年8月16日には12回まで投げきり、当時新人だった仁志敏久のサヨナラホームランで150勝を達成。
ところが1997年の開幕戦にて、当時広島カープからヤクルトスワローズに移籍したての小早川毅彦に「開幕3連発」を浴びて以降は陰りが見え始める(3連発に関しては、小早川がもともと苦手としていた左打者だったのもあるし、あのときはストレートにこだわりすぎていたが)。それでも翌1998年には二桁勝利を達成しており、往年の勢いを見せた。
2000年にはわずか5登板しかなかったものの、3勝1敗でリーグ優勝、日本一に貢献。この年日本シリーズでも1989年以来の勝利を挙げた。
2001年に、村田真一、槙原と共に引退。
その後2002年から2003年までの二年間、巨人で一軍投手コーチを務める。2004年から2005年までは沢村賞選考委員を務め、2006年から原辰徳と共に巨人に復帰した。
ヒーローインタビューでは必ず「そうですね・・・」と言ってから答える。
真っスラ≒ありていに言うとカットファストボール(カッター、カットボール)の事である。斎藤の場合は横から投げるため上手投げよりも横の角度と変化が大きく、さらに自身の球速が乗っかり、調子の良いときは『高速スライダーよりも高速』というとんでもないボールに変化していた。
同じ三本柱を構成した槙原も一時期は文字通り「真横に滑るスライダー」を投げていた時期もあり、今でこそ全盛のスライダーは20数年前から花開いていたとも言える。
| 通算:18年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 防御率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| NPB | 426 | 113 | 40 | 180 | 96 | 11 | 0 | .652 | 2375.2 | 584 | 1707 | 2.77 |
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最終更新:2025/12/22(月) 07:00
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