東方昭和伝第七部とは、eleven氏制作動画シリーズ「東方昭和伝」の第七部である。
サブタイトルは「日中激突編」
宮中
政治家
陸軍
海軍
外国要人
その他モブ役として、魂魄妖忌(大将級軍人)・射命丸文(マスコミ)・毛玉(中国兵)・高木社長(随時)
明治34年(1901年)の条約
1901年、いわゆる『北清事変(義和団の乱)』の鎮圧について、日本・アメリカ・欧州諸国(英・仏・独・露・伊・墺・西・蘭・白)と、当時の清国との間で調印された『北京議定書』(北清事変に関する最終議定書)のこと。この議定書によって列強各国は、清国(中国)国内の要所への軍隊駐留権や、ほとんど各国の領土に等しい程の治外法権を持つ租界・居留地の設置権を獲得。清王朝滅亡後も、結局第2次世界大戦終結までそれは有効であった。さらに清国は国家予算の5倍とも10倍ともいわれる賠償金を課され、賠償負担は中華民国政府に引き継がれ、最終的に1938年まで支払いが続けられた。
杉山 元 (すぎやま げん 1880~1945)
昭和期の陸軍軍人。最終階級は大将、加えて元帥府に列する。福岡県出身、陸軍大学校22期。同期生に小磯国昭・畑俊六など、昭和の陸軍史を彩る高級将官が多数いる。大正期より宇垣一成の派閥であり、宇垣陸相(浜口)と南次郎陸相(第2次若槻)の下で陸軍次官。小磯・二宮治重(陸大22期)・建川美次(陸大21期)らとともに「宇垣四天王」と称されるも、満州事変と陸軍皇道派の台頭によって一時中央の要職を追われる。しかし二・二六事件で皇道派が壊滅すると、権力闘争外にいたことが幸いして教育総監に就任。続いて林銑十郎内閣・第1次近衛内閣で陸軍大臣となり、支那事変開戦期の戦争指導に関わることとなる。昭和15年には閑院宮元帥のあとを継いで参謀総長就任し、太平洋戦争の開戦と作戦指導の中枢に位置。東条内閣末期の政軍一元化問題で東条と対立して参謀総長を追われるが、直後の小磯内閣では陸軍大臣に返り咲いた。大正期の上原勇作元帥に続いて、陸軍三長官(大臣・総長・総監)を全て経験した史上2人目の将官という華やかな経歴を誇るが、その性能は周囲から全く評価されておらず、「ボケ元」「グズ元」「便所のドア」(当時のトイレのドアは押しも引きもできるようになっており、他人の言動に簡単に左右される様を揶揄)等々、悪評の渾名は豊富。また太平洋戦争開戦直前、昭和天皇に対米戦の見通しを問われて楽観的に答えたところ、支那事変の際にも同様の楽観論を唱えながら未だに終わらないことを詰問され、苦し紛れに「支那は広すぎるので」と回答。天皇に「太平洋はもっと広いではないか」と切り返された逸話が有名である。終戦直後の9月12日、夫人とともに自決。参謀総長時代に御前会議等の様子を記録した『杉山メモ』があり、開戦・戦中についての一級資料となっている。
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最終更新:2025/12/21(日) 03:00
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