柳川 信行(やながわ のぶゆき )とは、三保ヶ関部屋所属にしていた元大相撲力 士である。一時期の四股名は増健 亘志(ぞうけん わたるしますつよし のぶゆき)。通称はゾーケン(ZOKEN)、マスケン、初代縦綱、第2代無類力士、非技のデパート、デブデブ柳川など。
相撲は小学校4年から始め、それまでは野球をやっていた。
高知市立南海中学校3年の時に中学生横綱を獲得。なお同校はあの紫雲丸事故の犠牲者が出た学校である。相撲部の監督は元大関・朝潮太郎(現高砂親方)の実弟が務めている。中学横綱を決めた一番で対戦した出島武春(1場所遅れで武蔵川部屋に入門、後に大関)とは学生時代、さらにプロ入り後に至るまでライバル関係。「東の出島、西の柳 川」「才能の柳 川、努力の出島」と並び称された。
地元高知工業高校(後輩に前頭土佐豊がいる)から相撲の名門日本大学へ進学。しかし1年時には膝の怪我で稽古がまったくできなかった。それでも芯の強さを買われ主将に指名される。1995年、4年時に選手権決勝で明治大学3年の安本栄来(前頭玉力道)を破って学生横綱になった。
1996年1月場所三保ヶ関部屋に入門し、幕下付出(60枚目格)で初土俵。同期の幕下付出には日大同学年の海鵬、燁司や拓殖大学で前年(3年時)に学生横綱を獲得した栃乃洋がいる。また同じ場所に芳東も初土俵を踏み前相撲から力士人生をスタートさせた。
入門時の周囲の期待は大きく、横綱はおろか一代年寄や理事長に800%の確率でなるとまで言われていた。年寄名跡の用意も確約されていたという。だが前述の通り下半身の故障や受け身になりやすい取り口、更には糖尿病の持病もあり伸び悩む。そんななか同年の9月場所に四股名を本名の柳川から増健に改める。これは「膝が悪いので怪我をしないように」との師匠・三保ヶ関親方(元大関増位山)からの思いがこもっている。
1998年3月、剣晃が現役のまま亡くなった春場所に新十両。以後十両に合計14場所在位する。十両時代は紫の締め込みを使用し、さがりが異様に短かった。化粧廻しには、土佐犬が綱を締めている姿が描かれていた。この意匠の化粧廻しは後に栃煌山も着用している。
2004年5月場所以降は幕下での低迷が続いた。やがて四股名を元の「柳川」に戻そうと考えるようになり、周囲も望んでいたため、亡くなった父の喪が明けたのを機に、2005年11月場所に改名した。この時、日本大学相撲部の後輩で普段より親交の深い(後述)濱錦も四股名を本名(高濱)に戻した(2009年7月場所より再び濱錦へ)。さらに現役晩年は体重の増加に伴い下半身の脆さが目立つようになり、幕下中位以下に低迷した。年齢を考慮すると、関取復帰は極めて困難な状況であった。皇司の引退に伴い、2009年5月場所より日本大学出身者では海鵬と並び現役最古参となり、海鵬が引退した2010年7月場所8日目から引退までは現役最年長かつ最古参の力士となっていた。2009年頃からは相手を腹の上に乗せて吊るといった相撲も見られた。
2011年1月場所をもって引退。取組後「幕内に上がれなかったのは残念だけど、やり切った感はある」とコメントを残した。同年2月12日、両国国技館内で断髪式が行われた。大関把瑠都や部屋の後援会関係者ら60名がはさみを入れ、三保ケ関親方が止めばさみを入れた。おりからの大相撲八百長問題の影響で角界が各種行事を自粛している最中の開催のため、師匠の歌の披露などのイベントは行われなかった。3月1日から東京都内の会社に勤務した。
元・学生横綱としては十分に大相撲で大成できなかった部類に入るが、稽古場では後に尾上部屋独立の際に移籍する把瑠都、境澤、白乃波、山本山、里山などを圧倒する実力を発揮していたといい、彼らに対する指導は厳しかった半面効果も大きかったとされる。
柳川改め増健改め柳川が繰り広げ、2ちゃんねる相撲板に話題を提供した数々の名勝負・エピソードをおさらいする。
2001年から追加された新しい勝負結果のひとつ、つきひざで敗れた(十両以上でつきひ ざが適用されたのはこの時が初めて)。買って勝っていれば十両優勝の目もあったのだが…。
前の11月場所は東十両9枚目で6勝9敗と負け越したが、翌1月場所は関取定員増の恩恵を受け、名目上は同じ地位に据え置かれた(実質は1枚番付を下げている)。この例のように、十両での番付運はよかった。
日大の後輩である濱錦に叩き込みで勝った取組が無気力相撲であったとして、日本相撲協会の九重審判部副部長と伊勢ノ海監察委員長から、濱錦とともに厳重注意を受けた。(なお、この取組があった日は、増健の30歳の誕生日であった。)この取組を撮影した動画はネット上どこを探しても存在しないが、一説には協会が検閲により削除したからとも囁かれている。
幕下で琴冠佑と対戦し、熱戦の末土俵際で琴冠佑を寄り倒したかに思われ、軍配は柳川に上がった。しかし、物言いが付いて協議の結果、「柳川の足が先に土俵を割っていた」として、行司差し違えで、勇み足で敗れた。柳川が勇み足で敗れたのは1997年1月場所9日目の福薗戦以来3度目。複数種の非技で敗れた経験を持つ力 士は珍しい。ちなみに琴冠佑は同年の秋場所で対戦相手の勢を殴ったことが原因で引退。ネ申の口兄い、恐るべし。
東幕下16枚目で5連勝と絶好調。場所前に皇牙と栃東の上位力士2人が引退していたため「実質15枚目以内だから全勝すれば返り十両じゃね?」という憶測が広がった。しかしその後ねらーの期待もむなしく連敗し5勝2敗。
東幕下19枚目で、自己ワーストとなる一番相撲からの6連敗を喫する。7番相撲で朝道龍との全敗対決を制し、惜しくもかろうじて7戦全敗は免れたものの、著しい力の衰えを感じさせた。
2勝2敗同士の5番相撲で対戦し、下手投げで星風に敗れたが、この際NHKのテレビ放送にて「星風が2勝3敗としています、柳川は1勝4敗の今場所負け越しです」と誤報され、訂正されることなく放送が終了した(正しくは星風が3勝2敗、柳川が2勝3敗である)。ちなみに、その後柳川は7番相撲で実際に負け越したのでNHKとアナウンサーに謝罪と賠償を要求してもいいレベル。星風は後年八百長問題で引退しておりここにも口兄いの発動が疑われる。
1996年5月場所以来、約13年ぶりの幕下50枚目台という低い地位(東幕下54枚目)に置かれ、負け越せば自身初となる三段目陥落のチャンス危機であったが、5勝2敗の幕下優勝次点という好成績を挙げ、未だ幕下の地位を守るだけの力が残っていることを証明した。
1番相撲から5連勝。6番相撲では同体取り直しの末、惜しくも新鋭の舛ノ山に敗れたが、前場所の5番相撲から通算で8連勝を達成し、35歳にして従来の自己記録であった7連勝(1997年11月場所3番相撲~1998年1月場所2番相撲、2000年7月場所4番相撲~9月場所3番相撲)を更新した。
新十両時に放送されたテレビ番組内のインタビュー映像。2chで有名なキュウリ嫌いという事実はここから知れ渡ったと思われる。
増健が相撲板随一の人気キャラになるきっかけを作った一番。
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最終更新:2025/12/07(日) 04:00
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