柳川信行 単語


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     ,~((((((((~~、          新記事にあたり、謹んでご挨拶を申し上げます 
    ( _(((((((((_ ) 
    (/ ~^^^^^~^^~ヽ )        本日ここにニコ増厨が恒例の大百科記事を立てました 
    (  ;;;;;;;;  ;;;;;;;;  )        ところ、作成早々、ご高覧下さいまして 
    (  -=・=  =・=- )        誠に有り難く、心より御礼申し上げます 
    (    (oo)    ) 
     (    )3(    )        この記事・スレッドにいて、横綱・大関をはじめ各力士は 
     (____二二二_____)        全力を尽くし、気迫のこもったレスを展開 
     /.:::| `-y-" |::.\         皆様のご期待にお応えできるものと存じます 
    / .::::::::|>" /|::::::::.ヽ 
    /.::::::::::::| / |:::::::::::::.',       何卒、>>1000秋までご高覧の上 
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   |::::::|7:::::::|(;;;;)|:::::::::::::::::.',      ご挨拶と致します 
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.  `'--|、 ``''  ゙''ーニ--├--"       財法人曰本裏相撲協会 理事長 
    '└⊂----つ ̄          木ム卩ノ|| イ言 彳テ 

柳川 信行とは、三保ヶ関部屋に所属していた元大相撲力士である。一時期の四股名増健亘志ぞうけん わたるしますつよし のぶゆき。通称はゾーケン(ZOKEN)、マスケン、初代縦綱、第2代力士、非技のデパートデブデブ柳川相撲神様など。趣味パチンコパチスロマンガ読み、好物は焼肉水瓶座、嫌いな食べ物キュウリ血液型B型干支年。

概       要

1974年1月22日生まれ。学生時代にかしい実績を残して鳴り物入り入門し、横綱はおろか一代年寄や理事長に800確率でなるとまで言われた。ところが蓋を開けてみると大相撲世界では十両幕下の往復に終始した。しかしそのギャップや数々の名勝負2ちゃんねらーに強な印を与え、相撲ではネタ力士として横綱上の人気を誇りネ申と崇められている。見出しに空白がある理由はわかってんだろう       な!わかってなかった人は増厨の記事を参照。※記事のデブ肥大化防止のため本文は空白なし。

経       歴

ぞうけん業の長男相撲小学校4年から始め、それまでは野球をやっていた。

高知市南海中学校3年の時に中学生横綱を獲得。なお同校はあの紫雲事故の犠牲者が出た学校である。相撲部の監督は元大関朝潮太郎(現高方)の実が務めている。中学横綱を決めた一番で対戦した出島(1場所遅れで武蔵部屋入門、後に大関)とは学生時代、さらにプロ入り後に至るまでライバル関係が続くことになる。しかし結局本場所では一度も対戦しなかった。「東の出島、西の柳川「才柳川、努力の出島」「出る出る出島デブデブ柳川と並び称されることもあった。

地元高知工業高校後輩前頭土佐豊がいる)から相撲の名門日本大学へ進学。しかし1年時には膝の怪で稽古がまったくできなかった。それでも芯の強さ(アレのことか?)を買われ将に名される。1995年、4年時に全日学生相撲選手権決勝で明治大学3年の安本栄来(前頭玉力)を破って学生横綱になった。

1996年1月場所、日大先輩肥後ノがいる三保ヶ関部屋入門幕下付出(60枚格)で初土俵同期幕下付出には日大同学年のや拓殖大学で前年(3年時)に学生横綱を獲得した栃洋がいる。また同じ場所に芳東(高校後輩にあたる)も前相撲で初土俵を踏んでいる。

身長や体重(全盛期170kg台前半)が部屋の大先輩横綱北の湖とほぼ同じだったこともあり当初周囲の期待は大きく、将来は部屋の継承が予定されたためか年寄名跡の用意も確約されていたという。だが入門前に負った下半身の故障や受け身になりやすい取り口、更には糖尿病の持病もあり伸び悩む。そんななか同年の9月場所に四股名を本名の柳川から増健に改める。これは師匠三保ヶ関方(歌手大関増位山)が「膝が悪いので怪をしないように」との思いをこめて命名した。

あの健康剣晃が現役のまま亡くなった1998年3月場所に新十両。以後十両に合計14場所在位する。十両時代はの締め込みを使用し、さがりが異様に短かった。これは足を長く見せるためだったと言われるが効果は0であった。化粧には、土佐闘犬が綱を締めている姿が描かれていたものと日大の校章が刺繍されたものがあった。前者の意化粧しは後に栃煌山も着用している(別に使い回しと言っているわけじゃないんだからね!)

2004年5月場所以降は幕下での低迷が続いた。やがて四股名を元の「柳川」に戻そうと考えるようになり、周囲も望んでいたため、亡くなったの喪が明けたのを機に、2005年11月場所に改名した。この時、日本大学相撲部の後輩で普段より交の深い(後述)錦も四股名を本名(高)に戻した(2009年7月場所より再び錦へ)。さらに現役晩年は体重の増加に伴い下半身の脆さが立つようになり、幕下中位以下に低迷した。年齢を考慮すると、関取復帰は極めて困難な状況であった。皇引退に伴い、2009年5月場所より日本大学出身者では鵬と並び現役最古参となり、鵬が引退した2010年7月場所8日から引退までは現役最年長かつ最古参力士となっていた。

2011年1月場所をもって引退。取組後「幕内に上がれなかったのは残念だけど、やり切った感はある」とコメントを残した。同年2月12日両国国技館内で断髪式が行われ大関把瑠都部屋の後援会関係者ら60名がはさみを入れ、三保ケ関方が止めばさみを入れた。おりからの大相撲八百長問題界が各種行事を自粛している最中の開催のため、師匠の歌の披露などのイベントは行われなかった。3月1日から東京都内の会社に勤務した。

元・学生横綱としては十分に大相撲で大成できなかった部類に入るが、稽古場では後に尾上部屋独立の際に移籍する把瑠都澤、波、山本山、里山などを圧倒する実力を発揮していたといい、彼らに対する導は厳しかった半面効果も大きかったとされる。

取り       口

得意技は左四つと寄り、そしてつきひざに勇み足である。えっ、後2つは技に非ずだと?立ち合いは仕切り線の極めて近くから立つ。左を差して寄る重厚な取り口だったが勝ち味が遅かった。2009年頃からは相手をの上に乗せてるといった相撲も見られ、近年の大相撲界では元子の把瑠都とともに数少ないりの使い手であった。

ネタ一       覧

柳川改め増健改め柳川が繰り広げ、2ちゃんねる相撲話題提供し多くの増厨を生んだ数々の名勝負エピソードをまとめる。

2001年から追加された新しい勝負結果のひとつ、つきひざで敗れた(十両以上でつきひざが適用されたのはこの時が初めて)。この際、師匠の三保ヶ関は「今日は顔を合わさないように、逃げます。テレビで放送するなら、顔にモザイク入れてください」とのコメントを残したモザイクの対は三保ヶ関自身であり、増健ではない。増健本人のコメントは「あっと思ったら、相手がいなかった。何しに来たんかなぁ」である)。同場所は最終的に10勝5敗で、十両優勝した垣添が11勝4敗だったため買って勝っていれば優勝もあったのだが…。それでも翌9月場所に自己最高の西十両6枚で番付を上げた。なお同場所が増健にとって十両で最後の勝ち越しとなった。

前の11月場所は東十両9枚で6勝9敗と負け越したが、翌1月場所は傷制度止に伴う関取定員増の恩恵を受け、名上は同じ地位に据え置かれた(実質は1枚番付を下げている)。それにしても十両時代は全体的に番付ウンガイイナー。

日大後輩である錦に叩き込みで勝った取組が無気力相撲であったとして、日本相撲協会九重審判部副部長(元横綱千代の富士お前に言われたくない)と伊勢監察委員長(元関脇)から、錦とともに厳重注意を受けた。同日の十両取組を撮した動画ネット上どこを探しても存在しないが、一説には協会が検閲により削除したからとも囁かれている。同場所の他の日はあるのに。

負けなしの4連勝で迎えた五番相撲で、日大後輩である北勝岩との取組に敗れた際、土俵上のを掻いて後ろに振り払い、そのが土俵下の高島審判(元関脇高望山)の顔を直撃。高島に注意された。なお柳川増健)はこの前場所、自分の取り組み後にで引き上げる際、北勝岩に挨拶がわりに縦しに触れ、気合いを入れるというアッー!後輩思いの一面も見られる。結構いいじゃん。

幕下で琴冠と対戦し、熱戦の末土俵際で琴冠を寄り倒したかに思われ、軍配は柳川に上がった。しかし物言いが付き協議の結果「柳川の足が先に土俵を割っていた」として、行差し違えで、勇み足で敗れた柳川が勇み足で敗れたのは1997年1月場所9日(逆寺尾従兄弟戦以来3度。複数種の非技で敗れた経験を持つ力士しい。ちなみに琴冠は同年の9月場所に対戦相手の勢を殴ったことが原因で引退ネ申の口い、恐るべし。

幕下16枚で5連勝と絶好調。場所前に皇牙と栃東の上位力士2人が引退していたため「実質15枚以内だから全勝すれば返り十両じゃね?」という憶測や「そんな特例はありえない。こういう時に全勝するのも クオリティ」というマジレスが入り乱れた。しかしその後ねらーの期待もむなしく連敗し5勝2敗。

幕下19枚で、自己ワーストとなる一番相撲からの6連敗を喫する。7番相撲で一本背負いの名手縄・舞)との全敗対決を制し、惜しくもかろうじて7戦全敗は免れたものの、著しい力の衰えを感じさせた。

2勝2敗同士の5番相撲で対戦し、下手投げに敗れたが、この際NHKテレビ放送にて「が2勝3敗としています、柳川は1勝4敗の今場所負け越しです」と誤報され、訂正されることなく放送が終了した(正しくはが3勝2敗、柳川が2勝3敗である)。ちなみに、その後柳川は7番相撲で実際に負け越したのでNHKアナウンサー謝罪と賠償を要してもいいレベルは後年八百長問題で引退しておりここにも口いの発動が疑われる。

1996年5月場所以来、約13年ぶりの幕下50枚台という低い地位(東幕下54枚)に置かれ、負け越せば自身初となる三段笑進のチャンス陥落の危機であったが、5勝2敗の幕下優勝次点という好成績を挙げ、未だ幕下の地位を守るだけの力が残っていることを明した。

1番相撲から5連勝。6番相撲では同体取り直しの末、惜しくも新鋭のノ山に敗れたが、前場所の5番相撲から通算で8連勝を達成し、35歳にして従来の自己記録であった7連勝(1997年11月場所3番相撲1998年1月場所2番相撲2000年7月場所4番相撲9月場所3番相撲)を更新した。

関連動       画

増健相撲随一の人気キャラになるきっかけとなった一番。「オワッ!」と叫んでいるが、同じ高知県出身の土佐ノが発した「ゲフッ!」を想起させる。

関連項       目

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最終更新:2025/05/24(土) 00:00

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