槇(松型駆逐艦)とは、大日本帝國海軍が建造・運用した松型駆逐艦8番艦である。1944年8月10日竣工。エンガノ岬沖海戦で爆弾4発を喰らい、雷撃から隼鷹をかばって艦首を吹き飛ばされる等、壮絶な艦歴を持つ。終戦まで生き残って復員輸送に従事した後、1947年8月14日にイギリスへ引き渡されて解体された。
艦名の由来はイヌマキ、ラカンマキ、コウヤマキの総称である槇(まき)から。まきは「真の木」を意味し、古代日本においてスギ、ヒノキ、マツといった良質な材を採集出来る木を指していた。
ガダルカナル島争奪戦やそれに伴うソロモン諸島の戦いにより、多くの艦隊型駆逐艦を失った帝國海軍は安価で大量生産が可能な駆逐艦の必要性を痛感し、これまでの「高性能な艦を長時間かけて建造する」方針を転換。1943年2月頃、軍令部は時間が掛かる夕雲型や秋月型の建造を取りやめ、代わりに戦訓を取り入れ量産性に優れた中型駆逐艦の建造を提案。ここに松型駆逐艦の建造計画がスタートした。とにかく工数を減らして建造期間を短縮する事を念頭に、まず曲線状のシアーを直線状に改め、鋼材を特殊鋼から入手が容易な高張力鋼及び普通鋼へ変更、新技術である電気溶接を導入し、駆逐艦用ではなく鴻型水雷艇の機関を流用など簡略化を図った。
一方で戦訓も取り入れられた。機関のシフト配置により航行不能になりにくくし、主砲を12.7cm高角砲に換装しつつ機銃の増備で対空能力を強化、輸送任務を見越して小発2隻を積載、九三式探信儀と九三式水中聴音器を竣工時から装備して対潜能力の強化も行われている。これにより戦況に即した能力を獲得、速力の低さが弱点なのを除けば戦時急造型とは思えない高性能な艦だった。
要目は排水量1262トン、全長100m、全幅9.35m、最大速力27.8ノット、乗組員211名、出力1万9000馬力。武装は40口径12.7cm連装高角砲1基、同単装高角砲1基、61cm四連装魚雷発射管1基、25mm三連装機銃4基、同単装機銃8基、九四式爆雷投射機2基。電探装備として22号水上電探と13号対空電探を持つ。
1944年2月19日に舞鶴工廠で起工、6月5日に駆逐艦槇と命名され、6月10日に進水し、7月1日に艤装員事務所を設置。そして8月10日に竣工を果たした。石塚栄少佐が艦長に着任するとともに舞鶴鎮守府へ編入、訓練部隊の第11水雷戦隊に部署する。8月11日午前7時46分に第11水雷戦隊より準備出来次第瀬戸内海西部へ回航するよう命じられ、急速に出港準備を整えて8月13日午前11時、舞鶴を出発。翌日徳山へ到着して燃料補給を受け、19時30分、回航先の八島泊地で第11水雷戦隊と合流。慣熟訓練を行う。8月18日に第11水雷戦隊司令部が槇艦内を巡視している。9月30日、対潜掃討部隊の第31戦隊第43駆逐隊へ転属。
10月17日午前6時50分、レイテ湾スルアン島の海軍見張所が緊急電を打った。輸送船420隻に分乗したアメリカ軍16万5000名がレイテ湾へ殺到し、それを援護する米第7艦隊と米第3艦隊もまたレイテ東方に出現したのである。これを受けて連合艦隊はフィリピン防衛の捷一号作戦警戒を発令。第3航空戦隊の空母瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田を基幹に第4航空戦隊、第31戦隊、第61駆逐隊、第43駆逐隊で小沢艦隊を編制。栗田艦隊のレイテ湾突入を援護するべく敵の航空兵力を釣り上げる囮役を担う。
10月20日午後、小沢艦隊の一員として豊後水道を出撃、艦隊の前路哨戒を担当した。17時30分頃、四国南西端の沖ノ島を通過して太平洋に進出して対潜警戒航行序列を組む。道中の10月22日13時に空母千歳から燃料補給を受ける。囮の役割を果たすため小沢艦隊は盛んに偽電を打ち、わざと目立つように活動。その甲斐あって10月24日夕刻にレキシントンⅡ艦載機に発見された。
10月25日午前7時12分、敵の偵察機が艦隊に触接しているのを発見。空襲に備えて小沢艦隊は二つに分かれ、瑞鶴と瑞鳳を中核としたグループ、千歳と千代田を中核としたグループを編成。2つのグループは約10kmの距離を保ちながら空母を中心に軽巡と駆逐艦が輪形陣を組む。槇は千歳の直衛艦として日向、五十鈴、多摩、霜月とともに対空機銃を空へ向けた。午前8時15分、第一次攻撃隊の敵機180機が襲来し、全艦対空戦闘を開始。いよいよエンガノ岬沖海戦が始まった。敵機は小さな駆逐艦を無視して大物の空母や戦艦に攻撃を集中。午前8時50分に僚艦の秋月が突如爆沈し、海へ投げ出された生存者を霜月とともに救助。続いて多摩が航空魚雷を受けて艦隊から落伍、槇が寄り添ったが五十鈴がその役割を引き継いだため元の場所に戻った。午前9時37分には5発の直撃弾と無数の至近弾を受けた千歳が沈没してしまった。
第一次攻撃隊がまだ完全に帰投していないにも関わらず新手の第二次攻撃隊が到着し、残った千代田に集中攻撃を加えた結果、午前10時に爆弾1発が直撃して大破炎上。救助には軽巡五十鈴が急行したが、その五十鈴も被弾したため槇も千代田救援に向かった。まだ瑞鶴と瑞鳳は健在な上、敵機を引き付ける目的で瑞鶴のグループが北上を開始した事から千代田の周囲から敵機の数が減少。その間に航行不能で漂流する千代田を五十鈴が曳航しようとするが、燃料不足や空襲に阻まれて遅々として進まず、やがて第4航空戦隊司令部から五十鈴と槇は千代田を処分して北方へ退避するよう命じられたが、千代田を見捨てきれない2隻は退避命令後もどうにか曳航しようと努力を重ねていた。しかし14時14分に五十鈴が被弾して舵が故障した事で遂に諦めた。
そこへ空襲が始まり、14時58分に爆弾3発が1番砲塔付近に命中して舵が故障した上、速力が20ノットに低下。更に第1缶室に直撃弾を受けて重油タンクから燃料200トンが漏洩。乗組員31名が死亡、35名が負傷する。敵機の攻撃は執拗を極め、千代田を処分する機会を逸して2隻はひたすら北方への退避を続けたが、元々松型駆逐艦は航続距離が短い小型艦のため、15時10分には槇の残り燃料が90トンにまで減少。槇の異常を察したのか姉妹艦の桑が「如何ナリヤ?」と心配したとか。度重なる空襲で小沢艦隊は広い海上に散り散りになっており、また南からはレイテ島より出撃してきたアメリカ軍の落ち武者狩り部隊が迫りつつあったが、駆逐艦初月の命と引き換えに2時間の足止めをされたアメリカ艦隊は追撃を断念。こうしてエンガノ岬沖海戦は幕を下ろした。一連の対空戦闘で槇は敵機5機撃墜の戦果を挙げたものの、空母4隻、軽巡1隻、駆逐艦2隻を失った小沢艦隊はもはや艦隊の体を成していなかった。
虎口を脱した五十鈴、槇、桑の3隻は燃料不足から10月26日16時に沖縄の中城湾へ入港。駆逐艦桑から撃沈された瑞鳳の乗員100名を受け取り、遅れて奄美大島薩川湾へ入って僚艦と合流、10月27日15時10分にに1TL型戦時標準タンカーこがね丸から重油240トンの送油を受ける。そして翌28日13時に薩川湾を出発し、10月29日21時に呉へと帰投した。
連合艦隊は航空機を失って「失業」状態の隼鷹を輸送艦に見立て、レイテ島へ弾薬や軍需品の緊急輸送を行っていた。11月21日、第41駆逐隊(冬月、涼月)とともに呉を出発し、物資を満載した隼鷹を護衛しながら策源地マニラを目指す。11月30日午前7時25分、マニラ沖で米潜ハードヘッドに捕捉されるが、味方の基地に近かった事もあってか攻撃を受けず、そのまま15時20分にマニラへ到着。多号作戦でオルモックに輸送する予定の軍需品を揚陸した後、12月1日午前5時に出発して内地へと向かう。12月3日午前11時45分に馬公へ寄港、その2日後の午前10時40分に駆逐艦霞と初霜に護衛された戦艦榛名が馬公へ入り、榛名を護衛対象に加えて12月6日午前0時40分に出港。
しかし道中の12月8日深夜、米潜レッドフィッシュに発見されてウルフパックに捕まってしまう。そして翌9日午前1時、槇は榛名より「隼鷹の後につけ」との命令を受け、隼鷹の右舷側を通って後方へ向かっていたその時、野母崎の南西でシーデビルから発射された2本の魚雷が隼鷹の右舷に命中、艦首を吹き飛ばされて中破させられる。幸いガソリンタンクが空だったため誘爆は起きず転覆も避けられたが、右へ18度傾斜して速力低下。速力が落ちた空母など潜水艦にとって格好の獲物でしかない。損傷した隼鷹へ新たな雷跡が伸びていくのを発見した槇は最も被害が抑えられる艦首を盾にしようと前進し、午前2時、プレイスもしくはシーデビルからの魚雷1本を艦首で受けて損傷。被雷の際に乗組員4名が死亡したが、艦首をもぎ取れられながらも機関は無事であり、浸水被害も軽微と致命傷には至らず。その間に隼鷹は潜水艦が追跡出来ない浅瀬の海域へ逃れた事で見事守り切った。午前10時、槇は長崎港へ到着して三菱重工長崎造船所で入渠修理。命を助けられた隼鷹の乗組員から惜しみない感謝の言葉を受けたという。
修理を終えて1945年3月9日に長崎を出発した槇は翌日瀬戸内海西部へ回航。3月15日、第31戦隊は第2艦隊へ編入されて戦艦大和率いる第1遊撃部隊の対潜掃討を担当する。3月19日に呉軍港空襲が発生し、槇は対空戦闘を行って無傷で乗り切った。3月28日17時30分、旗艦花月に率いられて第31戦隊は佐世保へ向けて出港、米機動部隊を九州方面へ誘い出す目的があったが、敵の方から近寄ってきたため回航中止となる。4月5日夕刻、第1遊撃部隊の沖縄出撃を企図した菊水作戦が伝達され、第31戦隊は徳山に集結中の各艦に弾薬や燃料を輸送。そして4月6日15時30分、徳山沖を出撃し、二式水上戦闘機2機や駆潜艇6隻とともに第1遊撃部隊の前路哨戒を行いながら豊後水道を南下する。二度と帰っては来られない死出の旅。誰もがそう覚悟していた16時10分、大和から「第31戦隊は解列反転し、内地へ帰投せよ」との旗艦信号が送られてきた。左へ大きく旋回して反転する花月にならって槇と榧も反転し、第1遊撃部隊と反航したのち山口県の柳井泊地に帰投した。4月20日、坊ノ岬沖海戦で第1遊撃部隊が壊滅したため第31戦隊は連合艦隊付属に編入。
5月20日、本土決戦を見越して新設された海上挺身部隊へ転属。軽巡1隻、駆逐艦17隻からなる海上挺身部隊は、来るべきアメリカ軍の本土上陸に備えて温存される運びとなり以降は瀬戸内海西部で待機する。もし敵が本土上陸をしてきた場合、瀬戸内海西部の祝島から行動半径180海里圏内を行動範囲とし、夜間を中心に回天攻撃を仕掛けた後、敵船団に殴り込む予定だった。7月15日の編制替えで第43駆逐隊は槇、榧、竹、蔦、椎、宵月の6隻となるが、第31戦隊に対する燃料の割り当ては僅か850トン(松型駆逐艦2隻分)しかなく、訓練に従事する梨と萩を除いた他の艦は海岸付近で陸地の一部に見えるよう偽装。
8月15日の終戦時、屋代島の日見海岸にて無傷で残存。連合艦隊で戦力となりえたのは軽巡酒匂と槇を含む駆逐艦30隻、潜水艦54隻のみだったという。
1945年9月2日、呉にて生き残った僚艦とともに進駐してきたアメリカ軍に降伏し、10月5日に除籍される。戦争は終わった。しかし外地には未だ邦人や軍人・軍属が数百万人取り残されており、彼らの帰国が急務となる。本来であれば商船が引き揚げ業務を行うのだが、既に莫大な数の船舶を失っていた事もあって全然数が足りず、生き残っていた軍艦や戦闘艦約150隻をも復員任務に充てる事となった。槇もまた12月1日に特別輸送艦に指定されて復員輸送任務に参加。
復員任務という最後の奉公を終えると特別保管艦となって横須賀に係留。残余の艦艇135隻は米、英、中、ソの四ヵ国に配当される事になり、抽選で槇はイギリスに振り分けられた。だが自前の強大な艦隊を持つ米英にとって賠償艦は特に必要なものではなかった。1947年8月14日にシンガポールで賠償艦としてイギリスに引き渡され、間もなく解体。波乱に満ちた艦歴を閉じた。
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最終更新:2025/12/11(木) 07:00
最終更新:2025/12/11(木) 07:00
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