樅(松型駆逐艦)とは、大日本帝國海軍が建造・運用した松型/丁型駆逐艦9番艦である。1944年9月7日竣工。主に護衛任務に従事した。1945年1月5日、リンガエン湾で米艦隊と交戦して沈没。
艦名の由来はマツ科モミ属の常緑針葉樹モミから。樅の艦名を冠するのは本艦で2代目。
ガダルカナル島争奪戦やそれに伴うソロモン諸島の戦いにより、多くの艦隊型駆逐艦を失った帝國海軍は安価で大量生産が可能な駆逐艦の必要性を痛感し、これまでの「高性能な艦を長時間かけて建造する」方針を転換。1943年2月頃、軍令部は時間が掛かる夕雲型や秋月型の建造を取りやめ、代わりに戦訓を取り入れ量産性に優れた中型駆逐艦の建造を提案。ここに松型駆逐艦の建造計画がスタートした。とにかく工数を減らして建造期間を短縮する事を念頭に、まず曲線状のシアーを直線状に改め、鋼材を特殊鋼から入手が容易な高張力鋼及び普通鋼へ変更、新技術である電気溶接を導入し、駆逐艦用ではなく鴻型水雷艇の機関を流用など簡略化を図った。
一方で戦訓も取り入れられた。機関のシフト配置により航行不能になりにくくし、主砲を12.7cm高角砲に換装しつつ機銃の増備で対空能力を強化、輸送任務を見越して小発2隻を積載、九三式探信儀と九三式水中聴音器を竣工時から装備して対潜能力の強化も行われている。これにより戦況に即した能力を獲得、速力の低さが弱点なのを除けば戦時急造型とは思えない高性能な艦だった。
要目は排水量1262トン、全長100m、全幅9.35m、最大速力27.8ノット、乗組員211名、出力1万9000馬力。武装は40口径12.7cm連装高角砲1基、同単装高角砲1基、61cm四連装魚雷発射管1基、25mm三連装機銃4基、同単装機銃8基、九四式爆雷投射機2基。電探装備として22号水上電探と13号対空電探を持つ。
ミッドウェー海戦後の1942年9月に策定された改マル五計画において、丁型一等駆逐艦第5489号艦の仮称で建造が決定。
1944年2月1日、横須賀海軍工廠で起工、6月5日に樅と命名されて松型駆逐艦に分類、6月16日に進水式を迎え、7月22日より横須賀工廠内に艤装員事務所を設置して業務を開始、一時は瑞鶴分隊長の古川為夫大尉が艤装員長に据えられたが、予定より工事が遅延した影響で8月21日に艤装員事務所が撤去され、9月3日に改めて、親潮や加古の水雷長を務めた米井垣雄少佐が艤装員長に着任するという若干の混乱が見られる。
そして9月7日13時30分にようやく竣工・引き渡し式を終えた。同日付で艤装員長の米井少佐が艦長に就任、横須賀鎮守府へ編入されるとともに、訓練部隊の第11水雷戦隊に部署する。
間もなく第11水雷戦隊より準備出来次第瀬戸内海西部へ回航するよう命令が下されたが、竣工しても樅にはまだ相当数の残工事があった。9月16日、準備を終えて出港するはずが、視界が極めて悪かった影響で出港延期。9月19日午前8時に横須賀を出港、神子元島沖や潮岬沖で爆雷の威嚇投射を行いながら進み、9月21日午前10時30分、瀬戸内海西部の八島泊地へ到着して第11水雷戦隊との合流を果たした。
10月14日、樅と姉妹艦の檜は軽巡洋艦木曾が行う射撃用レーダーの実験射撃に協力。樅が標的曳航艦を務めた。
連合艦隊は台湾沖航空戦によって被害を受けた高雄の第61航空廠の再建資材や、各航空部隊向けの資材を輸送する改造空母海鷹、龍鳳を護衛するため、第11水雷戦隊から樅と榧を、第43駆逐隊から桃と梅を供出させ、緊急輸送部隊を編成。部隊の総指揮は海鷹艦長の有田雄三大佐が執る。
10月21日午前7時、海鷹とともに呉を出港。伊予灘にて海鷹が第931海軍航空隊の九七式艦攻を収容し、六連沖で仮泊した後、翌22日朝に出発して佐世保へと移動した。
10月25日午前10時、樅ら駆逐艦4隻は海鷹と龍鳳を護衛して佐世保を出港。海鷹から飛び立った第931航空隊の九七式艦攻が対潜哨戒を行う。行き先の台湾が空襲を受けた事で退避を強いられる一幕があったものの、連合軍がフィリピン上陸に注力していたからか目立った妨害は無く、10月27日午前10時に台湾北東部の基隆港へ無事到着。2隻の空母は資材を揚陸したあと燃料用砂糖とアルコールを積載、樅には便乗者及び兵員60名、捕虜士官8名、託送品が積載された。
10月29日13時30分、緊急輸送部隊は基隆を発ち、平穏な航海を経て、10月31日17時30分に六連島へ到着、佐世保を経由して11月2日午前8時に呉へと帰投した。帰投時、樅に残っていた燃料は僅か7トンであり、かなりギリギリだった様子が窺える。呉にて真水15トンと重油100トンの補給を受け、11月3日午前11時40分、呉を出港して柱島泊地に回航。瀬戸内海西部で慣熟訓練を再開する。
11月15日に松型駆逐艦5隻(樅、桑、杉、樫、檜)で第52駆逐隊を編成。それから10日後、第52駆逐隊は第11水雷戦隊から離れ、第5艦隊隷下の第31戦隊に編入された。しかし同日、シンガポール北北東350kmで旗艦霜月が米潜水艦キャバラの雷撃を受けて沈没、司令の江戸兵太郎少将を含む第31戦隊司令部が壊滅する大損害が発生した事で、11月30日に樫へ将旗を継承するまでの間、樅が鶴岡信道少将座乗の臨時旗艦を務めている。
連合艦隊よりヒ83船団の護衛任務参加とマニラに進出中の第31戦隊司令部との合流を命じられ、11月18日午前8時に樅と檜は黒島水道を出発、1時間30分後、呉に入港して次の護衛任務の準備を始めた。準備完了後の11月24日午前9時に呉を発ち、檜と榧に指揮を出しながら16時40分に部埼へ回航。船団と合流する。
11月25日20時、改造空母海鷹、駆逐艦5隻(樅、卯月、夕月、檜、榧)、海防艦6隻(第1号、第3号、第25号、第35号、第64号、第207号)とともに、貨物船5隻とタンカー3隻からなるヒ83船団を護衛して門司を出港。11月30日午前6時に高雄へ到着し、第52駆逐隊はここで護衛を終了。陸軍第10師団を乗せた貨物船5隻と夕月、卯月のグループはマニラへ、新たに1万トン級タンカーみりい丸、第102号哨戒艇を加えた残りのグループはシンガポールを目指して出発、榧は高雄に残留して後から到着したタマ35船団の護衛に就く。
第52駆逐隊は12月3日に高雄を出港、馬公を経由して呉に帰投した。
12月13日朝、スールー海にて米第24師団を乗せた輸送船団が発見され、敵の狙いは首都マニラの攻略と大本営は判断。桜花を懸架した一式陸攻による攻撃を企図するが、桜花を抱えると内地・フィリピン間を往復出来るだけの航続距離が得られないため、海上輸送で神雷部隊の桜花30基と滑空飛行第1戦隊及び陸軍滑空歩兵第1連隊約1000名、大発動艇、各種車両約60台、爆弾及び陸戦兵器など軍需品約1500トンをマニラへ緊急輸送する事となった。
当初の計画では雲龍と龍鳳の2隻で輸送する算段だったものの、一刻を争う事態につき、速力が出る雲龍に物資を集中させたという。その後、米第24師団はルソンではなくミンドロ島に上陸。マニラへの攻撃はひとまず無いと分かり、出港予定日を一日繰り下げる。雲龍の護衛兵力として第21駆逐隊からは時雨が、第52駆逐隊からは樅と檜が派遣された。檜には第52駆逐隊司令の岩上次一大佐が座乗。
12月17日午前8時30分、樅、時雨、檜に護衛されながら空母雲龍が呉を出港。本来であれば最短コースの豊後水道を通るのだが、既に水道は米潜水艦の巣窟と化していたため、雷撃を避ける目的で下関海峡方面に向かい、同日16時に海峡入口で仮泊して一晩を明かす。翌18日午前7時、下関海峡を通過する際に人々が手を振って部隊の出撃を見送ってくれた。無事外洋に出た艦隊は朝鮮半島南岸を目指す。
そこから敵潜の襲撃を受けにくい大陸接岸航路を取り、東シナ海を通って上海沖に出ようとするも、済州島の北西で台風に襲われて速力を落とさざるを得なくなり、予定に遅延が発生。翌18日、朝鮮海峡で敵潜らしき音を2回聴音してこれを回避、夜になると敵潜のやり取りと思われる英会話が傍受され、また敵のレーダー波も2回探知された事から、予定の航路を変更するとともに対潜見張りを強化する。
12月19日午前9時より速力18ノットで一斉回頭と之字運動を実施。正午頃に舟山列島東方に到達した。折からの台風で空は暗く、海は大荒れの状態だったが、徐々に落ち着き始めたので一旦中断していた対空・対潜見張りを再開。だが15時頃になると再び天候が荒れだす。雲龍の小西要人艦長の指示で水中聴音による索敵に切り替えると同時に陣形変更、樅は雲龍の左舷中央、時雨は左舷前方、檜は右舷前方に占位し、16時に針路を南へと向けた。しかしその先には米潜水艦レッドフィッシュが待ち構えていた。
16時35分、中国三門湾沖東方212kmにて、雲龍の右舷8000mからレッドフィッシュが魚雷4本を発射、すぐさま雲龍が右側へ回避運動を取るも、かわしきれなかった1本が右舷艦橋下に直撃。第1、第2機関室が満水となって航行不能に陥ってしまう。一時は檜に気を取られたレッドフィッシュだったが、16時45分に艦尾発射管より1本の魚雷を発射し、雲龍の右舷前部に命中。これがトドメの一撃となり、下部格納庫に積載された桜花20基に次々と誘爆、火山の噴火を思わせるような大爆発の末、右舷へ大傾斜しながら艦尾を空に持ち上げて沈没していった。
檜が対潜掃討を行う中、樅と時雨は舷側に縄梯子を垂らして雲龍生存者の救助に努め、士官1名、下士官と兵87名、滑空歩兵第1連隊12名、民間人57名のみが助かった。大荒れの海のせいでカッターによる救助活動が出来ず、これが原因で犠牲者を増やす結果を招いてしまったのである。その後、檜から対潜攻撃を受けてレッドフィッシュは任務続行が困難になるほどの損傷を負い、やむなく帰路に就いた。
12月20日午前9時38分、生存者がもういない事を確認した樅、檜、時雨の3隻は爆雷を投射しながら敵潜の捕捉を試みたが、手応えは無かった。第52駆逐隊の2隻は生存者を届けるべく高雄に向かい、時雨が現場海域に留まって引き続き対潜掃討を実施、しかし12月22日午前7時、舵故障を起こして伴走出来なくなったため、修理を受けるべく内地へと向かった。
高雄で生存者を降ろした樅と檜は12月24日にマニラへ入港。港内は激しい空襲下にある事を裏付けるかのように、沈没船のマストが墓標のように乱立していた。現地にはオルモック緊急輸送のため第31戦隊司令部が進出中で、同日夜に鶴岡少将が樅に座乗、将旗を掲げて戦隊旗艦となる。
間もなく樅と檜は輸送任務の目的でマニラを離れ、インドシナのカムラン湾に移動。12月27日にサンジャックへ回航し、翌日第4航空戦隊の戦艦伊勢、日向より燃料補給を受ける。12月30日、礼号作戦に参加した姉妹艦杉、樫、榧がサンジャックへと入港、この時に第31戦隊司令部は旗艦を樅から樫に移している。
12月31日午前7時30分、特設給糧船生田川丸(元イタリア船カリテア)を檜と護衛してサンジャックを出港、1945年1月4日19時30分にマニラへ入港して護衛任務を完了させた。しかし、最早マニラは安全な場所ではなく、ルソン島西部にはリンガエン湾上陸を企図する敵艦隊と輸送船団が北上中、上陸の前準備としてアメリカ軍航空隊による爆撃も始まり、南西方面艦隊の司令部もバギオに移転していた。このため翌5日午前11時20分、南西方面艦隊から第933海軍航空隊の整備員等を乗せた生田川丸を護衛して西方退避するよう命じられ、半ば逃げるようにマニラを出港、カムラン湾に向かった。
ところが道中の16時15分、南西方面艦隊は礼号作戦の戦果を鑑み、第52駆逐隊に、マニラ沖にて出現した敵輸送船団の攻撃を命令。生田川丸と別れて樅と檜は反転・攻撃に向かう。
1945年1月5日、樅、檜の2隻は掃海を担当する第77.6任務群の背後を突いて奇襲し、敵を驚かせたが、既に米軍機に発見されていたので間もなくオーストラリア海軍スループのワレーゴ、ガスコーニュ、応援の米駆逐艦ベニオンが出現。15時40分頃より交戦を開始する。
敵艦を認めると樅と檜はマニラ方面に撤退しながら距離1万7100mから砲撃、敵は煙幕を展開して応戦するも、スループの射程距離では約1海里分届かない事から、1万5900mまで肉薄して撃ち返す。最終的に1万3600mまで距離が縮まり、およそ1時間にわたって砲撃戦が繰り広げられたが互いに決定打は与えられなかった。また戦闘中に南西方面艦隊より突撃命令が出されている。その後、戦闘海域に多数の特攻機が飛来したため第77.6任務群は退却していった。
しかし、近隣海域に展開中の第77任務部隊はベニオンからの報告を受け、樅と檜を攻撃するべく、護衛空母より戦闘機19機と雷撃機16機を発進。17時17分、まず檜が1発の直撃弾を受けて中破航行不能に陥る。すかさず樅が檜の援護に回ったものの、激しい攻撃を受けて舵を損傷、まともな回避運動が取れなくなってしまい、19時10分にマニラ湾南西20海里で航空魚雷が命中して沈没。乗組員210名全員が戦死した。
機関を復旧させた檜は何とかマニラまで逃げ込んだものの、すぐに脱出を強いられ、1月7日に米駆逐艦群と交戦して沈没。生田川丸はサンジャックまで逃げ切れたが、こちらは1月12日のグラティテュード作戦に基づく大規模航空攻撃に巻き込まれて撃沈。もはやフィリピン海域の主導権は連合軍にあった。
3月10日除籍。
急上昇ワード改
最終更新:2025/12/08(月) 19:00
最終更新:2025/12/08(月) 19:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。