田代富雄(たしろ とみお)とは、オバQである。現在は東北楽天ゴールデンイーグルスの二軍打撃コーチ。
1954年7月9日生まれ、神奈川県小田原市出身。右投右打、ポジションは三塁手、一塁手。現役時の背番号は26。
藤沢商業高校から、1973年のドラフト会議で地元の大洋ホエールズに3位で指名され入団。当時は隠し球的な存在で、大洋のスカウトは田代を狙っていると悟られないために巨人のスカウトが見に来た試合で「こんなの見てても時間の無駄だ」と席を立つ一芝居を打ったというエピソードがある。
4年目の1976年に一軍に昇格、8本塁打を放って頭角を現すと、翌年から三塁のレギュラーに定着。いきなり.302、35本塁打、88打点という成績を残し、以降10年連続2桁本塁打を放つなど、松原誠とともに大洋の主砲として活躍。
1979年には史上初の開幕戦で3打席連続本塁打を記録。1980年には自己最多の36本塁打をマーク。しかし1986年に正田耕三と一塁で交錯して手首を骨折し、その後は成績が低迷。1991年に現役を引退、最終打席は葛西稔からの満塁本塁打だった。通算成績は1526試合、打率.266、278本塁打。長年主砲として活躍したが、ベストナイン、ゴールデングラブを含めてタイトルには一度も縁が無かった。
典型的な「三振かホームラン」の打者で、3度のリーグ最多三振、通算1081三振を記録。「人間扇風機」とあだ名された、その豪快なスイングから放たれる美しい放物線の本塁打でファンを魅了した。田代の引退後は村田修一が台頭するまで大洋・横浜にはホームランアーチストタイプの日本人打者が現れず、そういう意味でも記録よりもファンの記憶に残る選手であった。
引退後は解説者の傍らでラーメン屋を営業していたが、1997年から横浜ベイスターズの二軍打撃コーチに就任。多村仁、村田修一、吉村裕基などを育て、パワーヒッターの育成に手腕を発揮した。一軍打撃コーチを経て、2007年からは二軍監督になり、2009年、大矢明彦監督のシーズン中の休養に伴い監督代行を務めた。翌年は再び二軍監督に戻ったが、オフにフロント入りを打診され、現場にこだわりチームを退団。
2011年は韓国のSKワイバーンズでコーチを務め、2012年から東北楽天ゴールデンイーグルスの二軍打撃コーチに就任した。
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最終更新:2025/12/16(火) 07:00
最終更新:2025/12/16(火) 06:00
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