白沙(特設測量艦) 単語

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白沙(特設測量艦)とは、大日本帝國海軍が運用した特設測量艦である。中華民国の税関監視船福星を鹵獲し、1938年2月20日に特設測量艦として就役させた。1945年6月8日にインドシナ沖で米潜水艦コビアの雷撃を受けて沈没。

概要

艦名の由来は「白い砂」を意味する白沙から。

中華民国が広東省で運用していた税関監視船福星フーシンを、支那事変勃発直後に日本軍が鹵獲。搭載艇の関維と関福は、イギリスのブリティッシュ・パワー・ボート社製の魚雷艇を非武装化・流用したもので、横須賀鎮守府で解析したところその高速性能に帝國海軍が驚愕、魚雷戦闘訓練の支援に用いる雑役船として再就役させた他、魚雷艇開発の参考にするなど思わぬ贈り物となった。

九〇式測深儀一型などの測量儀5組を搭載し、税関監視船時代のガントリークレーンを使って、前部船体内部から10m測量艇8隻を揚降する。3841トンという排水量は帝國海軍測量艦の中でも最大級の巨体であった(同じ特設測量艦である第36共同丸は910トン、駒橋は1125トン、後輩の筑紫も1400トン程度)。また最新式の測量機器を持っていたので最優秀測量艦と言っても過言ではなく、実際中国中南部沿岸の測量に大きく貢献した。「東照丸戦時日誌」などでは白沙基地とも書かれている。

工作艦明石が撃沈されたのを機に特設工作艦へと改装。礼号作戦に参加する重巡足柄、駆逐艦朝霜、清霜に機銃防弾板の取り付け工事を行ったが、明石と比べて設備が数段劣る事から、およそ半年ほどで特設運送艦に改装されている。

要目は排水量3841トン、全長112m、全幅15m、深さ6m、最大速力11ノット、乗員165名+測量要員168名。兵装は8cm単装砲2門のみ。特設工作艦時は12cm単装高角砲1門、九六式三連装機銃4基、同連装機銃2基、同単装機銃2基、爆雷8個、仮称電波探知機1基、九六式1メートル半測距儀1基に強化された。

艦歴

四ヵ国を渡り、四回艦種を変えた

1913年、FCスヴォローネ&E.ディポローネから貨物船兼客船の建造発注を受け、イギリスのウィリアム・グレイ社が所有するハートリプール造船所で起工、1914年4月14日に進水するとともにドルジバと命名され、6月に無事竣工した。1915年4月よりロシア海軍黒海艦隊に編入されて輸送艦となる。ちなみにドルジバとはロシア語で「友好」を意味する。

1920年に船主会社がアングロ・ギリシャ・スチーム・トレーディング・カンパニーに代わり、コドルスに改名、1926年にはサットン・シッピング株式会社が購入してウルズミアへ改名、そして1931年12月11日に中華民国政府が購入して福星(フーシン:FuHsing)に改名。

1936年1月14日に上海へ回航。輸出入管理や税関事務を司る中国海閥に配属され、広東方面で税関監視船となって密輸の取り締まりを行う。イギリス製高速艇10隻を運用し、島々を活用しながら、浙江省方面の水路をゆく密航船を片端から検挙していった。しかし福星の船歴は突如として狂わされる事となる。

1937年8月13日に第二次上海事変が勃発し、日華両国は宣戦布告無き武力衝突を開始。この時、福星は渦中の上海に停泊していたが、第3艦隊旗艦の装甲艦出雲を攻撃した魚雷艇が福星の搭載艇とそっくりだった事から関与を疑われ、8月20日に日本軍の臨検隊が乗船するも破壊に失敗、直後に出雲から砲撃を受けている。

それから3ヶ月後の11月、翠南にて日本軍に鹵獲される。

特設測量艦白沙

1938年1月28日、三菱重工横浜造船所にて測量艦になるための艤装工事に着手。当時の帝國海軍には測量艦が1隻もいなかったため自前の測量艦を得る目的があったと思われる。2月10日に特設測量艦白沙と命名、艦長には近藤爲次郎中佐が、運用長は後に駆逐艦雪風の艦長として勇名を馳せる寺内正道大尉が着任し、そして2月20日に帝國海軍へ入籍して横須賀鎮守府所管となる。

4月27日に支那方面艦隊へ転属、5月4日、横須賀を出港して青島に進出した。

江蘇省唯一の良港であり、北支唯一の援蒋ルートでもある連雲港を潰すべく、陸海軍協同でR作戦を実施する事となり、白沙も測量隊に属して本作戦に参加、5月18日から19日にかけて参加艦艇が青島を出撃、5月20日午前に連雲へ上陸部隊を揚陸させた。現地の中国国民党軍から若干の抵抗を受けたものの夕刻には制圧を完了。水路の開啓、残敵掃討、陸軍補給船の嚮導などを行って5月29日にR作戦は終了となった。

その後は北支方面で水深、地形、潮流などを測る測量任務に従事。測量の際はガントリークレーンで測量艇を降ろし、白沙がその母艦の役割を果たす事から、戦時日誌等では「白沙基地」の記述がたびたび見られ、半ば移動基地のような扱いを受けている。この時点で既に中国艦隊は実質壊滅状態だったため、何ら妨害を受ける事無く中国沿岸で活動する事が出来たが、地上からの銃撃や敵機の空襲といった散発的な抵抗はあった。R作戦以降、白沙は支那方面艦隊の指揮下にありながら、各種攻略作戦及び海上封鎖には参加せず、常に独立した動きを取っていたという。

8月2日から17日にかけて旅順で修理を受け、再び北支方面で活動。9月11日から22日にかけて佐世保へ寄港したのち再び中国沿岸で活動する。


1939年3月15日に南京の測量を一旦終了、翌16日に上海まで回航し、江南造船所にて4月8日から5月5日まで修理を行い、再び南京付近へと戻って来た。

6月10日から8月20日にかけて揚子江の北側支流の水深を調査。航路浮標を設置して往来する味方船舶の道しるべを用意した。1年以上に渡る献身的な測量任務を終えた白沙は、酷使した船体を修理する目的で8月26日に上海へ寄港、9月4日から江南船渠で入渠整備。

1940年3月14日に出渠した後、今度は佐世保へと回航して3月30日まで修理。4月25日に大連港の調査を、5月1日に満州沿岸の調査を、7月25日から北支海岸沖で調査を実施。11月15日の戦時編制により支那方面艦隊附属となる。

1941年1月から2月まで一号缶と二号缶の換装作業と船体及び兵装の整備を実施。2月22日から5月5日にかけて、上海を拠点に舟山列島の水路測量を行い、11月28日に佐世保を出港してからは、中支那方面での測量任務に従事する。対米英戦争開戦に向けて中国方面の航空部隊と海上部隊が引き抜かれた結果、支那方面艦隊は「現状維持」のための守備隊的要素が強い部隊となった。

1941年12月8日の大東亜戦争開戦時、白沙は、上海海軍特別陸戦隊や牟婁丸とともに、支那方面艦隊附属部隊直卒に所属し、佐世保を拠点に中国沿岸の水路測量任務に就いていた。同僚の牟婁丸や上海特別陸戦隊が南支部隊へ編入される中、開戦後しばらくは上海を中心に中国沿岸で活動。2隻しかいない特設測量艦の尽力により中国沿岸は丸裸にされ、彼らがもたらした情報が、海図や航路作りに役立ったのは言うまでもない。

1942年11月3日15時3分、白帯門入口付近にて活動中の測量艇が陸上の国民党軍陣地に襲撃され、また青塘嘴有殿角付近で一個中隊規模の敵部隊の移動を目撃し、第8警戒隊に報告。翌4日午前8時30分、応援として送られてきた砲艦第12日正丸と合流して連絡を取り合い、13時より測量艇の援護を開始する。

1943年

1943年1月1日午前10時30分、白沙は行方不明者2名捜索のため南田湾に一個小隊を上陸、捜索隊は龍王山南方を捜索したのち陸軍部隊と合流するが、中国国民党軍の襲撃を警戒しながらの捜索は夕方に打ち切られ、18時に白沙へ帰投。翌2日、白沙の先任将校と陸軍少尉2名が会談し、行方不明者に関する情報収集を密偵に依頼。その結果、住民からの聞き取り調査で戦死したものと推測された。

1月13日午前8時、「明日中に白帯湾付近を測量する」としてその支援を東照丸の艦長に依頼。それから5時間後の13時5分、白沙所属の測量艇が彰化湾山(ショウカワンザン)北方にて、機銃及び小銃の掃射を受けたとの急報が入ったものの、乗組員にケガは無く無事危険海域からの離脱に成功、16時15分に東照丸が援護の砲弾110発を撃ち込んだ。敵襲を受けた事で白沙は白帯湾の測量を打ち切り、測量艇を分散させながら安全区域での測量に切り替える。

2月12日に上海を出発、第8警戒隊や第14砲艦隊の援護を受けながら測量任務に励む。

船舶不足から測量艦の白沙も輸送任務に就く事が決まり、10月24日に第38号哨戒艇が護衛するモ402船団に加わって上海を出港、10月27日に佐世保へと入港した。11月14日午前0時、白沙、鳴尾丸、えりい丸、宇佐丸、昌元丸、神寿からなるシ307船団に加わって伊万里を出港、11月16日に上海へ到着する。

12月3日、上海在泊の旗艦出雲から機密支那方面艦隊命令第5号が発令され、以降は測量任務だけでなく輸送任務も付随するようになり、中国方面から本土及び南方へ送る兵員、兵器、軍需品、重要物資の輸送に協力。便乗者104名を収容して12月4日午前8時30分に上海を出発し、呉淞沖でモ407船団と合流したのち本土を目指して出港、12月7日22時5分に唐津湾へ到着して神話丸と大東丸が分離し、翌8日午前5時55分に湾内を出発、16時10分に若松港外にて投錨した。若松と平戸を経由して12月16日14時40分に佐世保へ帰投。

181名の便乗者を積載して12月28日午前7時35分に佐世保を出港、伊万里湾でシ第111船団と合流し、12月31日午前6時30分に出発、上海方面へと向かう。

1944年

1944年1月3日17時10分に呉淞泊地へ到着。翌日上海港内まで移動した。1月9日、吉林丸の船尾が白砂の艦首に接触、船首材の一部が剥離した他、28mmワイヤー1本を切断する被害が出ている。

2月4日14時30分に定海へ移動した白沙は測量艇に糧食やその他物資を補給。2月5日に測量班と験潮所を設置し、2月6日より定海・鎮海間の5万分の1全紙図の測量を開始。翌7日午前10時55分、測量中だった蛭子丸が座礁したとの報告を受けて定海を出発、午後12時20分、蛭子丸のもとへ行き離礁作業を手伝った。一大プロジェクトだったようで第21播州丸から定期的に糧食補給を受けながら港に戻らずブッ続けで測量を続け、3月16日に完了させた。

しかし休む間もなく3月19日に輸送任務への参加を命じられ、石炭、真水、酒保物資を積載して上海へ回航、3月20日16時に呉淞泊地のモ003船団に混じって出発し、平戸を経由して3月24日15時15分に佐世保へ入港。3月25日から31日まで荷役を行う。それが終わると4月1日から10日まで大陸打通作戦用の輸送物件と便乗者を積載。4月12日午前9時55分に佐世保を出港し、4月16日18時55分に上海へと到着した。揚陸作業の傍ら後部マストの補強工事を受け、本土に持ち帰るための物資を積載する。

5月1日、帝國海軍は喪失した工作艦明石の代艦として白沙を特設工作艦に指定、内令第612号により特設工作艦への艦種変更と連合艦隊附属部隊への異動が決定した。

これに伴って三八式小銃18丁、十一年式軽機関銃3丁、九七式七粍七固定機銃1丁を上海海軍航路部に返却し、貯蔵品を積載して5月6日15時40分に上海を出港、5月12日午前9時20分に若松港へ入って物資の揚陸を行い、5月20日午前10時に呉へ入港。5月22日13時より呉工廠第3船渠に入渠して特設工作艦になるための改装工事に着手する。

6月17日午前11時より第4船渠へ入渠して後部マスト撤去、水線及び艦底の塗装、現在の武装と測深儀など特殊兵器の撤去を実施。代わりに25mm三連装機銃4基、同連装機銃2基、同単装機銃2基を装備、更に九三式水中聴音機、爆雷投下軌条2条、九六式一米五測距儀、八糎高角双眼望遠鏡2基、六糎高角双眼望遠鏡2基を新設した。広い船倉に仕切りを置いて4つの部屋を作り、それぞれ一番船倉に酸素発生器と圧縮ポンプ等を、二番船倉に鍛冶、鋳物、仕上工場を、三番船倉に200キロ内火発電機や30トン重油タンク等を設置し、第四船倉を居住区とした。6月24日午前11時出渠して丁錨地へ回航。撤去された8cm単装砲2門は呉軍需部に返納されている。

8月20日に仮称電波探知器の、28日に25mm機銃と機銃側弾薬箱20個の新設工事を実施。9月24日に速力試験と旋回圏試験を、翌25日に戦闘教練と操舵訓練を実施し、9月26日から29日にかけて工作材料を積載。ついに特設工作艦への装いを済ませた。

10月2日、第1海上護衛隊はミリ行きのミ23船団の編成・運航を決定。これを受けて白沙は集結地点の門司に回航。10月8日に白沙艦長の指示で前進地の三池へ進出するも、「10月10日に別命あるまで待機せよ」との指示を受けて出港を延期する。10月14日、第38号と第46号海防艦が三池に来て合流。また、同日夕刻にはミ25船団がミ23船団に統合される事になり、白沙は第8運航指揮官山本雅一大佐が座乗する嚮導艦となる。翌日船団は出港準備を完了。

10月17日、ミ23船団は佐世保鎮守府へ移動して船団会議を行った。


10月18日午前7時、16隻からなるミ23船団に加わって佐世保を出港。これを海防艦5隻と哨戒艇2隻が護衛する。旧式船が多い影響で船団速力は僅か8ノットしかなく、敵潜が待ち伏せしにくい浅瀬を進むべく、対馬海峡を横断して朝鮮南端、舟山群島に抜けるという遠回りルートを通っている。10月22日に上海東方の舟山群島で仮泊。出発後は中国大陸沿岸を沿うように南下した。

レイテ島上陸を目前に控えるアメリカ軍は反撃に来るであろう日本艦艇を迎撃するため、本州南方、台湾、フィリピン周辺に45隻の潜水艦からなる重厚な哨戒網を敷いていた。海上護衛隊総司令部もフィリピン方面の敵来襲が近いと考え、マニラを経由させずにインドシナ沿岸を南下する航路を使うよう命じている。

10月24日午前11時、台湾北西で高雄行きの陽海丸、雲仙丸、第38号、第102号哨戒艇の4隻が分離。22時30分にミ23船団は台湾海峡へ入った。しかし敵潜は見逃してはくれなかった。台湾海峡へ入る前の夕刻、米潜水艦タングはミ23船団を発見して静かに追跡を開始する。

翌25日午前0時58分、護衛艦艇の第46号海防艦がアクティブソナーで敵潜を探知して爆雷を投下。その後、浮上中のタングを発見して機銃掃射を仕掛けるも、潜航されたため取り逃がす。第46号は船団に対して「敵潜水艦出現」と発光信号やサーチライトで合図を送り、船団は全速力で右回頭して大陸方面へ退避する。しかしタングの追跡からは逃れられず、午前2時8分、左列先頭を走っていた海軍配当船江原丸が雷撃で沈没。改造タンカー松本丸が機銃掃射と体当たりで果敢にタングへ挑みかかるも、江原丸を狙った魚雷1本が命中して航行不能。アモイ沖で擱座した末に放棄された。

敵潜の襲撃を受けて白沙乗艦の司令部は船団の分散命令を出した一方、白沙は対潜掃討中の第34号海防艦とともに現場海域で留まり、6mのモーターボートとカッターを降ろして生存者の救助を行っている。ちなみにタングは自らが発射した魚雷が戻ってきて自滅。生存者は第34号に救助された。10月26日にミ23船団はアモイへ退避し、海防艦笠戸と三宅が護衛に加わった。

10月27日午前8時に馬公へ到着。便乗者277名を退艦させるとともに石炭、清水、酒保物品、糧食の補給を受ける。ここで白沙はレイテ沖海戦から帰投した損傷艦艇救援を命じられ、第14号海防艦に嚮導艦の役目を譲渡してミ23船団を離脱。10月29日午前7時に馬公を出港、笠戸と三宅に護衛されながらパラワン島ウルガン湾に向かい、第1遊撃部隊の命令でブルネイを目的地としていたが途中で取り止めとなって、11月12日に無事シンガポールまで辿り着いた。

セレター軍港にはレイテ沖海戦で損傷した艦艇が多数停泊していた。白沙のシンガポール配備は内地回航せずとも戦線復帰させるための措置であったが、明石と比べて数段設備に劣る白沙では修理出来ない事が多く、結局内地まで戻さなければならなかった。

11月30日、白沙はシンガポール南方のリンガ泊地に出張。12月7日17時30分に重巡足柄へ横付けして単装機銃8基の取り付け工事を、翌8日20時30分に横付けしてきた駆逐艦朝霜に機銃防弾板の取り付け工事を、12月10日午前10時30分に清霜へ機銃防弾板の取り付け工事を行い、礼号作戦に参加する艦艇を陰ながら支援した。その後はシンガポールに回航。

1945年

1945年1月11日午前8時20分、インドのカルカッタから飛び立ったB-29爆撃機47機がシンガポールを空襲。ジョホール海峡の在泊艦艇から熾烈な対空砲火を浴びせられた事で敵は何ら戦果を挙げる事は無かった。

2月1日、白沙が南西方面艦隊附属へ転属した日、112機のB-29が再度シンガポールを盲爆。空襲から逃れるため港内の船舶には分散配置が命じられ第二見張所付近にまで退避した。敵は戦艦の収容さえ可能なキングジョージ6世ドックを集中的に狙ったので白沙に被害は及ばなかったものの、外地における最大の修理施設が3ヶ月間使用不能となる。2月4日にセレター軍港を出発し、ドリアン水道南泊地で仮泊、翌日リンガへと到着。2月8日に給糧艦早埼から生糧品を受領する。2月10日に新設された第10方面艦隊附属へ転属。

2月13日にリンガを出港してセレターへ移動。ここで新たに副長となった山口守少佐を迎え入れ、代わりに元副長の木下定輔中佐が退艦した。2月22日に第10方面艦隊司令福留繁中将が艦内を巡視。同日23時、艦隊随伴の特設工作艦としての使用機会がもう無い事から、工作諸機械を逐次陸揚げするよう命令が下る。2月23日より25mm機銃用の防弾板の設置工事に着手するが、翌24日に116機のB-29がシンガポール南端のエンパイア・ドック地区を狙って空襲してきたため、ローヤン沖へ退避。工事自体は2月28日に完了した。

この後もB-29による執拗な爆撃が続けられ、3月2日に49機のB-29が海軍基地と倉庫を狙って230kg爆弾を投下、3月12日にはシンガポール南方のブコム島とセバロック島を狙って三群に分かれたB-29が襲来。爆撃が来るたびに白沙はヤーロン沖まで退避させられた。

3月19日、機密第191955番電により特設運送艦への艦種変更が決定。第101工作部の作業員を臨増して艦内から酸素発生器、圧縮ポンプ、鍛冶、鋳物、仕上げ工場、30トン重油タンクといった工作機械を揚陸し、船倉に積載スペースを用意して輸送任務が出来るように改装。白沙の工作部に勤務していた下士官は全員第101工作部へと転出している。4月8日までに諸作業を完了させた。

4月28日午前7時43分、バタビア方面での代行輸送任務に従事するべくシンガポールを出港。道中のベルハラ海峡南口、バンカ海峡ナンガ島付近で仮泊し、護衛に現れた第1号駆潜艇と合流して5月1日にバタビアへ入港する。

5月30日に排水量834トンの小型タンカー第22南進丸とともにバタビアを出港。サイゴンへと向かうが…。

最期

1945年6月8日、インドシナ南部カモウ岬沖にて哨戒中の米潜水艦コビアがタンカー船団を発見。3本の魚雷を発射し、白沙と第22南進丸はまとめて撃沈された。死傷者の数は不明。奇跡的に助かった者の中に、後のノンフィクション作家である石川光男氏が含まれている。

1947年5月3日除籍。

関連項目

  • 大東亜戦争
  • 軍用艦艇の一覧

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