神風(艦これ) 単語


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カミカゼ

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神風(艦これ)とは、ブラウザゲーム「艦隊これくしょん」に登場する艦娘の一人である。

イラストレーターやCVは未発表。

概要

2015年5月3日未明より開始された春イベント「開設!基地航空隊」のE-3の報酬艦娘として追加された。

睦月型の前級である神風型駆逐艦の一番艦である。

元ネタの戦績および史実

1921年12月15日、起工。1922年8月25日、進水。1922年12月28日に就役した。

88艦隊計画において建造された9隻の駆逐艦のひとつで、1928年に改名されるまでは「第一駆逐艦」と呼ばれていた。

就役して直ぐに神風型の前級である峯風型駆逐艦の『野風』、『波風』、『沼風』(三隻とも艦これには未実装)と共に第一駆逐隊を形成し、ほぼ同時に軽巡洋艦『北上』が旗艦を務める第二水雷戦隊に組み込まれる。また、北上旗艦時の二水戦時代に関東大震災において荒れ果てた首都圏への支援を行っている。この時にアメリカ軍も支援作戦を展開するのだが、そこに駆逐艦『スチュワート(DD-224)(艦これ未実装)』がいた。彼女と神風は共に数奇な因果の果てに同じ旗の下で船団護衛を務めるのだが、この時点では予想しえない未来の話である。

関東大震災の後は二水戦の旗艦が軽巡洋艦『五十鈴』に代わり、その後は三段甲板時代の空母「加賀」を中心とした第一航空戦隊の僚艦となる。その頃になると駆逐艦の革命児とも言える吹雪型を基本とした高性能な駆逐艦が現れていき、旧式となった神風は次第に連合艦隊から遠ざかる。神風たち第一駆逐隊は1930年代になると大湊に活動の場所を移し、そこで太平洋戦争の開戦を迎えた。

開戦すると神風は主に哨戒任務や船団護衛、そして、主力艦隊のサポートに回るようになる。1942年6月に始まったアリューシャン作戦では、主にアッツ島方面の支援を務めた。また、このアッツ島に関して神風は米軍の再占領直前に第一駆逐隊の僚艦である沼風と共に支援行動を行うが、「燃料が切れた」という理由で突入直前に支援を断念している。これは連合艦隊のアッツ島救援の予定が無くなった事にも起因する。

そんな次第に戦況が怪しくなりつつある1943年の終わり頃に、春日均少佐が艦長として着任する。同時期に一次的に沼風に旗艦を移すが、その直後に第一駆逐隊の渡辺司令を載せた沼風が潜水艦の雷撃により沈没。旗艦が神風に戻るとともに、春日少佐は終戦まで神風の艦長と第一駆逐隊司令を兼務する。以後も神風の役割は変わらず船団護衛と哨戒任務を努めた。1944年7月には共に行動していた波風が触雷により大破し、神風が曳行する等、船団だけでなく僚艦も助ける日々も続いていくこととなった。また、大破した波風は『アレ』こと、回天の発射艦として改装される事となる。

1945年。神風は僚艦の野風と共にシンガポール行きを命じられた。道中、北号作戦中の戦艦『伊勢』『日向』、軽巡洋艦『大淀』、駆逐艦『霞』『初霜』『朝霜』の護衛を務めるものの、荒天により旧式の神風と野風は追いつけず落伍してしまう。その後は予定通り、シンガポールへと進出していったが、2月20日未明に「野風・神風」の列で航行中、アメリカの潜水艦『グレイバック』の雷撃により野風が沈没。春日艦長と兵学校で同期だった野風艦長の海老原太郎中佐ら21名以外、全員死亡という事態に陥った。野風と神風は当時、野風側が神風に塗装を合わせる等、乗組員同士でも交流が盛んなほど親しい間柄であった。この野風の沈没を『駆逐艦神風電探戦記』の著者であり、神風の電探を担当していた雨ノ宮洋之介氏はストレートに「悲運」と題している。

無二の友と言える野風を失った神風は翌々日にシンガポールへと到着し、第十方面艦隊へと合流を果たす。重巡洋艦『足柄』『羽黒』『妙高』『高雄』、そして軽巡洋艦『五十鈴』と、そうそうたる軍艦が名を連ねる艦隊だが、実態は寄せ集めの名ばかりと言える状況で、行動できる艦艇がシンガポールとスラバヤで二分されており、妙高と高雄は航行不能で預かりという状況であった。余談だが、スラバヤに居た第二号哨戒艇とは峯風型駆逐艦『灘風』の後身であり、神風と共に第一水雷戦隊に所属していた時期がある。

第十方面艦隊はアリューシャン方面の戦いで共にした高雄がおり、五十鈴や灘風といった神風にとって顔なじみの面子が多い中で、繋がりというものを意識してしまうのはやはり妙高型重巡洋艦。それも羽黒であろう。第五艦隊に所属していた神風にとって、妙高型とは少なからぬ縁があるのだが、当時の羽黒の航海長である太田一道中佐は春日艦長と兵学校の同期で、第二次上海事変において背中合わせで戦った仲である。

その二人を乗せる神風と羽黒は5月9日、アンダマン諸島へ向かっての兵員輸送に従事した。既に砲塔の一部が使い物にならず、スクリューに不具合を抱える羽黒と、魚雷発射管を外している神風の二隻は5月16日未明、イギリスの駆逐艦『ソマレズ』『ヴェルラム』『ヴィジラント』『ヴィーナス』『ヴィラーゴ』の五隻に道を阻まれる事となる。後にペナン沖海戦と呼ばれる、大日本帝国海軍最後の海戦が始まった。

「その日は月の明るい夜だった」と羽黒通信長だった元良勇氏が言う。神風と羽黒の動きは事前に英国海軍の潜水艦に察知されていた。二隻は待ち伏せをされた格好となる。神風は羽黒に当たらずに通過した魚雷を避けた後で敵のポンポン砲を受け、乗組員の27名が戦死。羽黒は戦術のスクリューの不具合に加え、砲塔の損傷および物資満載による影響で身動きが取れず、離脱を断念していた。そして羽黒から火が上がる。炎上した羽黒を確認した英駆逐艦の五隻は照明弾を次々に出し、羽黒に魚雷を打ち込んだ。羽黒乗艦の第十方面艦隊および第五戦隊司令の橋本伸太朗中将は神風に離脱を命じ、神風は全力で回避行動を展開しつつ、煙幕をありったけまき散らした後に、戦場を離脱した。満身創痍の中で燃え尽きそうな羽黒はそれでもなお、砲撃を止めなかった。その時の光景が春日艦長の心に強く残る事となる。

命からがらペナンに入港した神風の船員は遺体を陸揚げし、補給を整えた後に羽黒の下へ再び向かう。夜は既に明けていた。神風は羽黒があったその場所で人命救助に取り掛かった。戦いで橋本司令や大田航海長ら多くの乗員が戦死した。神風は日没まで粘り、残されたおよそ400名を救助する。神風の船内はぎゅうぎゅう詰めとなり、シンガポールへと戻っていった。

月が明けて6月初頭。神風は足柄と共に陸軍兵をシンガポールへと護送するため、ジャカルタへと向かう。無事に到着した二隻は襲撃されやすい夜の航海を避けるため、神風は予定されていた作戦上の都合で先発し、足柄は夜明けと共にバンカ海峡を進むとして、二手に分かれていた。神風は道中、二隻の潜水艦と遭遇するも事なきを得る。三本の魚雷を目の当たりにした神風は足柄に「注意されたし」との電信を送り、周囲への警戒を怠らなかった。この時既に英国海軍と米海軍は共同で神風と足柄の二隻を追跡しており、虎視眈々と標的を定めていた。結論から言うと神風と交戦した潜水艦は囮であった。

そして6月8日。夜明けとともに空が晴れ渡り、足柄が海峡を渡る。神風は足柄と海峡の出口で落ち合う予定だった。10時過ぎに神風は足柄に迫る潜望鏡を目にし全速力で向かうも、イギリスの潜水艦『トレンチャント』から発せられた5発の魚雷が足柄に命中。酷く傾きながら足柄は水面へと姿を消しつつあった。「してやられた」と神風の乗組員は思ったであろう。そんな最中、足柄から投げ出された兵士は波間へと集い「露営の歌」を合唱していたと、これまた電探戦記の著者たる雨ノ宮氏は記述している。神風はそんな勇兵たる陸海軍合わせて1200人余りを救助した。

神風はこうして、シンガポールにおいて唯一の活動可能な艦艇となる。ここから終戦まで彼女は一隻で船舶の護衛から物資輸送を担った。英米の海軍も攻撃目標を彼女に絞っていった。シンガポールにおける最後の標的。いわばラスボス。それが神風型駆逐艦の一番艦、神風。

1945年7月18日。先日の15日から神風は特設掃海艇3隻と共に小型タンカー群の護衛に就いていた。神風はジグザグに海を進むと6本の雷跡が姿を現した。春日艦長ら乗組員はそれを避けると共に臨戦態勢へと移った。ヤツが来た。これまでに輸送艦二隻、松型駆逐艦『桃』、初鷹型敷設艦『初鷹』を手にかけた最新鋭型の潜水艦。アメリカ生まれ。名はホークビル。

ホークビルの雷撃を回避した神風は魚雷の発射地点へと向かう。神風は装備していたソナーが全速だとスクリューの騒音で使い物にならない為、距離を縮めるとともに速度を落としていった。ホークビルはそんな神風の行動を予測し、正面へと回り込む。二隻の距離が迫る。やがて、神風は前方700メートル付近に気泡を見つける。ホークビルが放った魚雷の痕跡である。神風めがけて放たれた3本の魚雷は適格に神風の逃げ場をふさいでいた。正面の魚雷を避けようとすれば左右どちらかの魚雷に当たる。動いても動かなくても当たる。ホークビルのスキャンランド艦長らクルーは、最新鋭潜水艦の能力を如何なく発揮できる、手練れの集団であった。

春日艦長の「三度面舵」の掛け声とともに、絶妙な操船術が執り行われた。果たして、神風は避けた。魚雷が船体のスレスレを通った。と同時にホークビルの潜望鏡を確認した神風が迫り、真上にくると共に爆雷を一気に投下した。ホークビルは爆雷に押し上げられて、水面に姿を現す。すかさず神風後部の機銃が強敵に火を噴いた。ホークビルも神風も直接対決を覚悟したが、直後にホークビルは急速潜行し、その姿を再び海中に消した。

神風は時間単位で念入りに爆雷を投下し、木くずや重油が浮いた事で撃沈を確信し、船団護衛に戻っていった。この時ホークビルは沈んでなかったが、ジャイロコンパス等の機器が破損しており、反撃に向かう事無く帰還している。この後に二日間にわたって神風に対する雷撃がスキャンランド艦長曰く「(ホークビルを含めて)最低でも5隻の潜水艦」によって行われたが、いずれも成功しなかった。

やがて終戦を迎えた神風はシンガポールから本土へ帰還。神風の乗組員の多くはシンガポールにて捕虜となった。帰還した後は復員船事業に就いていたが、1946年6月7日に座礁した占守型海防艦『国後』の救助に向かうも、二次災害に遭遇して座礁した。後に解体されて、数度の修羅場を乗り越えた無傷の駆逐艦は、その生涯を終えた。

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関連項目

  • 艦隊これくしょん-艦これ-
  • 第一駆逐隊

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