竹(松型駆逐艦)とは、大日本帝國海軍が建造した松型駆逐艦二番艦である。小柄ながらも武功を立てた艦で終戦まで生き残っている。
艦のスペックや建造の経緯は松型駆逐艦を参照の事。
艦名の由来はイネ科の植物の竹から。この名を冠する艦は、本艦で二代目となる。
1942年度戦時建造補充追加計画(改⑤)で、丁型駆逐艦5482号として建造が決定。1943年10月15日、横須賀工廠で起工。1944年1月25日に駆逐艦竹と命名され、横須賀鎮守府所属と仮定。3月28日に進水し、6月16日に田中艦長の下で竣工した。竣工後、第11水雷戦隊に編入される。後の勇者が静かに産声を上げた。
7月1日、横須賀を出港し呉へと回航。瀬戸内海で慣熟訓練を行う。戦局の逼迫は、生まれたての竹を待ってはくれなかった。7月8日、沖縄への輸送作戦こと呂号作戦の戦力に選ばれる。7月13日、門司に寄港し姉妹艦の松、梅、桃と第43駆逐隊を編成。二日後、大分県中津湾に寄港したのち沖縄へ向けて出港。
17日に沖縄の中城湾に到着し物資を揚陸。翌18日23時に出港。既にこの海域にも米潜水艦が進出してきており、危険な航海だった。駆逐艦冬月とともに南大東島へ第28師団の兵員を揚陸させ、中城湾を経由して呉へと戻った。
8月1日、第43駆逐隊は第二遊撃部隊に編入。対潜掃討の役割を担った。パラオへの回航を命じられ、駆逐艦清霜とともに関門海峡を抜けて経由地の台湾に向かっていたが、佐世保近海を航行していた軽巡名取が米潜水艦の雷撃を受けて沈没。これを受けて8月18日に名取の乗員を救助している。二日後、第43駆逐隊に軽巡五十鈴を迎え、第31戦隊を編成する。清霜と分かれた竹は単艦で行動、セブ島を経由して8月26日にパラオへ入港。物資を揚陸していたが、米軍機の襲来があったため対空戦闘を行っている。
パラオからの引き揚げ者を収容していると、付近で駆逐艦五月雨が座礁したため乗員の救助に従事。
1944年10月に生起したレイテ沖海戦は帝國海軍の大敗に終わった。しかし陸上での戦闘はこれから始まるところだった。フィリピン防衛のため大本営は増援をオルモック湾に送る事を決意。その輸送戦力に竹が抜擢され、無謀な輸送作戦に身を投じる事になる。
12月1日18時、マニラを出港して駆逐艦桑や輸送船団とともに第七次多号作戦に従事。翌2日23時30分にオルモック湾へ到達し、増援部隊の揚陸を実施する。しかし日付が変わった3日の0時30分、闇夜に隠れて米駆逐艦3隻がオルモック湾へと侵入してきた。相手は第120駆逐群のアレン・M・サムナー級駆逐艦。大型かつ最新鋭の駆逐艦だった。小柄の量産型駆逐艦に過ぎない竹たちには荷が重過ぎる相手である。
いち早く敵の接近に気がついた僚艦の桑が、竹に発光信号を放ちつつ立ち向かっていった。探照灯を照射しながら砲撃を行うも、圧倒的に優勢な敵艦からの集中砲火を浴びて。わずか10分で撃沈されてしまう。3隻の敵艦は、残った竹に矛先を向ける。数は3対1、オルモック湾は狭いため回避に向かず、しかも座礁の危険もある。全てが不利という状況である。敵から先制攻撃を受けた竹は12.7cm高角砲や副砲で反撃を開始。前部機関室左舷に不発弾1発を浴びて、機関の一部が使用不能になる。
絶望的状況に立たされた竹の切り札は、3本の魚雷のみ。本来は4本装備していたのだが、1本は事前の整備で誤投棄してしまっていた。狭い湾内を逃げ回りながら、10km先の敵艦へ向けて2本の魚雷を発射。誰もが祈る思いで魚雷の行く先を見つめた。その間にも敵艦から砲弾が飛んでくる。
放った2本の魚雷のうち、1本が米駆逐艦クーパー(DD695)に直撃。船体を真っ二つにして沈んでいった。まさに奇跡の一撃だった。残った敵艦は怒ったように集中攻撃を浴びせ、竹は次第に満身創痍となっていく。徐々に船体が傾斜していき、最大30度まで傾いたという。だが船団を守るため、竹は必死に反撃を続けた。獅子奮迅の活躍を見せる竹に、米駆逐艦2隻はとうとう諦めて離脱していった。桑を失ったとはいえ輸送任務を完遂してみせたのである。
とはいえ竹も瀕死の状態。桑の乗員救助はとても出来ず、要請だけして退却した。
12月4日、どうにかマニラまで帰投。翌5日にキャビデへ回航され、入渠する。しかし損傷の激しさから現地では修理できず、呉への回航が決定する。
12月15日、マニラを出港。三日後に台湾の高雄へ入港。このまま基隆まで回航される。22日、船団を護衛して基隆を出港。鎮海や六連を経由し、1945年1月1日に門司へと帰り着いた。間もなく呉に回航され、4日から入渠修理を受ける。もはや内地に燃料は無く、まともに動く事すらままならなかった。
2月28日、第31戦隊の旗艦となる。3月15日、第31戦隊は第2艦隊に編入され対潜掃討を担当する。
3月19日、竹は呉を出港。そのおかげか米機動部隊による呉軍港空襲に巻き込まれずに済んだ。5月から、後部甲板に回天を載せられるよう改装を受ける。きたるべき本土決戦に備え、竹は温存され続けた。
7月3日、屋代島日目海岸に係留される。そしてこの状態のまま、8月15日の終戦を迎えた。10月25日、除籍。
戦争は終わったが、航行可能だった竹には出番が残っていた。南方や各戦線に取り残された将兵や邦人を引き揚げさせる復員任務である。1945年12月から任務が始まり、ポンペイ島、パラオ、サイパン、上海から兵員を連れ帰った。1946年7月、特別保管艦の指定を受けて母港横須賀に係留される。
約一年後の1947年7月16日に指定が解除されると、竹は賠償艦としてイギリスに譲渡された。しかしイギリスは竹をスクラップにして売ってしまった。
こうして短いながらも波乱に満ちた竹の艦歴は幕を下ろした。
竹(松型駆逐艦)に関するニコニコ動画の動画を紹介してください。
竹(松型駆逐艦)に関するニコニコミュニティを紹介してください。
急上昇ワード改
最終更新:2025/12/10(水) 14:00
最終更新:2025/12/10(水) 14:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。