竹(松型駆逐艦)とは、大日本帝國海軍が建造・運用した松型駆逐艦二番艦である。1944年6月16日竣工。小柄ながらも船団護衛や多号作戦に参加し、圧倒的不利な状況下で米駆逐艦クーパーを撃沈した戦果が有名。終戦まで生き残った後は復員任務を務めた。1947年7月16日、イギリスへ売却。
艦名の由来はイネ科の植物の竹から。この名を冠する艦は本艦で二代目となる。
ガダルカナル島を巡るソロモン諸島の戦いで駆逐艦を大量に喪失した帝國海軍は、個艦の性能より生産性を重視した戦時急造型駆逐艦の設計に着手し、松型駆逐艦が誕生。竹はその2番艦となった。
船型は船首楼型を、船体は普通鋼製、上甲板には入手が容易な高張力鋼製を採用。建造の手間を省くため直線を多く使用し、甲板のキャンバーを廃止、艦尾をスケグ方式とするなど簡略化を進めたが、それでもブロック工法は採用されず電気溶接も部分的にしか使われないなど、まだ丁寧に作っているレベルであった(後に松型を更に簡略化した橘型/改丁型が登場している)。今までに得られた様々な戦訓により、帝國海軍の艦艇としては初のシフト配置を導入。今までは機関を一ヵ所に集めて工期を短縮していたが、もし機関部に被弾した場合、一度に全部破壊されて航行不能に陥る危険性があった。松型に採用されたシフト配置は機関を左右に振り分ける事で建造の手間こそ掛かるが、被弾しても簡単には航行不能にならないメリットがあり、竹はこのシフト配置のおかげで大破状態に追いやられながらも一命を取り留めた。
松型は駆逐艦設計の常套であった対艦攻撃を思い切って投げ捨て、代わりに対空・対潜・輸送能力を強化して戦況に即した駆逐艦となった。まず主砲を対空用の12.7cm連装高角砲に換装、簡略化のコンセプトから重量のある九四式高射装置の代わりに高角測距儀や12cm高角双眼望遠鏡、四式射撃装置を装備。対潜装備として九三式探信儀や水中聴音機を持っていたが、こちらは性能がイマイチだったため改丁型では廃止されてより高性能な探信儀と聴音機を装備している。補給及び輸送任務を見越して後部煙突脇に2隻の小発(10m特型運貨船)を搭載。61cm四連装魚雷管を搭載しており、一応の対艦攻撃能力は持っていたが、装填本数は予備魚雷無しの4本のみで次発装填装置も持たない大変な簡素なものだったため、あくまで自衛用に過ぎなかった。
諸元は基準排水量1262トン、全長100m、全幅9.35m、速力27.8ノット、喫水3.3m、出力1万9000馬力、乗員211名、航続距離3500km(18ノット)。排水量がぎりぎり1000トンを超えているためかろうじて一等駆逐艦に含まれる。武装は12.7cm単装高角砲1門、12.7cm連装高角砲2門、25mm連装機銃4門、25mm単装機銃12門、61cm4連装九二式魚雷発射管1門、九四式爆雷投射機2基。
余談だが先代と二代目の竹はともに終戦まで生き延びている。縁起の良い名前である事は間違いない。
1942年6月のミッドウェー海戦で正規空母4隻を失った帝國海軍は、空母の緊急増産を企図して新たに戦時建造補充追加計画(改⑤)を策定。しかし続いて生起したガダルカナル島争奪戦とソロモン諸島の戦いにより多くの駆逐艦を失ったため、損失の埋め合わせをすべく、1943年2月に量産に適した丁型駆逐艦42隻の増産が組み込まれ、丁型駆逐艦5482号の仮称で建造が決定する。
1943年10月15日に横須賀海軍工廠で起工、1944年1月25日に駆逐艦竹と命名され、3月28日に進水式を迎えて横須賀鎮守府に編入、4月20日に艤装員事務所を設置。ところが竣工が翌日に迫った6月9日15時6分、1号及び2号缶に漏洩箇所が見つかったため急遽修理が必要になり、10日引き渡し予定のところを数日引き延ばさなければならなくなった。幸い修理は短期間で終了して6月16日に無事竣工。初代艦長に田中弘国少佐が着任し、軽巡洋艦長良が旗艦を務める訓練部隊の第11水雷戦隊に編入される。こうして後の勇者が静かに産声を上げた。
7月1日午前8時、瀬戸内海西部にいる第11水雷戦隊と合流するべく横須賀を出港、7月3日17時30分に徳山へ到着して燃料補給を受け、瀬戸内海西部へ到着した。だが戦局の逼迫は生まれたての竹を待ってはくれなかった。マリアナ諸島の失陥と硫黄島に対する敵機動部隊来襲により、連合艦隊は上陸が予想される沖縄に戦力を送る事を決断。7月8日に沖縄への輸送作戦こと呂号作戦の戦力に選ばれ、十分な訓練を経ないまま姉妹艦桃とともに呉にて第11水雷戦隊と合流するよう命じられ、7月12日正午に室積沖を出港して同日16時30分に呉へ入港。翌13日19時に長良とともに出発し、7月14日午前6時に出撃拠点の門司港に移動した。
7月15日、姉妹艦の松、梅、桃と第43駆逐隊を編制して第11水雷戦隊の指揮下に入り、竹は大分県中津湾で陸兵と物資31トンを収容して同日18時に出港。駆逐艦冬月、清霜とともに豊後水道を南下して翌日午前3時に太平洋へ進出する。7月17日18時に沖縄の中城湾へ到着して陸兵と物資を揚陸したのち、冬月の指揮を受けながら同日23時に出港。遊弋する米潜水艦の目を掻い潜りながら翌18日午前8に南大東島に寄港。第28師団第36連隊の兵員を揚陸して午前10時30分に出港し、20時に中城湾へと戻った。任務を終えた竹は現地で巡洋艦長良や鹿島と合流。7月19日午前1時に中城湾を出港して7月20日23時2分に八島泊地へと帰投した。
7月23日、冬月、清霜、梅とともに出動訓練を実施。未了だった訓練を再開させた。8月1日、第43駆逐隊は第2遊撃部隊に編入され対潜掃討の役割を担った。翌2日13時22分、第11水雷戦隊は竹、梅、桃、桑の4隻は訓練未了と判断するも、唯一竹のみ特別任務を言い渡す事とし、清霜艦長の指揮下に入って出撃準備が済み次第、呉に回航して任務に従事するよう命じられる。8月4日、柱島を出発して出動訓練と対潜掃討訓練に従事。
アメリカ軍にパラオ諸島侵攻の動きが見られたため、連合艦隊はパラオへの緊急輸送を命令。8月5日から8日まで呉に寄港して準備を行い、25mm単装機銃4基及び13号対空電探を追加すると同時に機銃を扱う兵員20名を乗艦させる。8月9日に柱島へ進出。8月10日に駆逐艦清霜と出港し、関門海峡を抜けて8月13日午前7時50分に経由地の馬公に寄港。現地でパラオ行きの兵員を積載した。8月14日14時に馬公を出発、2日間の航海を経て8月16日午前11時にマニラへ寄港して真水と燃料の補給を受ける。
8月18日に竹が所属する第43駆逐隊は第31戦隊へ転属。同日サマール東方で軽巡名取が米潜水艦の雷撃で沈没。これを受けてマニラ在泊中の軽巡鬼怒、駆逐艦清霜、時雨、浦波、竹に救援が命じられた。8月20日に沈没地点へ到着した竹は翌日まで捜索活動を行い、生存者をセブ島まで送り届けた。入れ替わりにセブ島からパラオに避難する邦人を収容。清霜はパラオへの輸送のため先行、竹は後から目的地に向かい、8月26日にパラオへと到着。物資と避難民を揚陸する途中で米軍機の襲来があったため対空戦闘を行っている。今度はパラオからの引き揚げ者を収容中、付近のガルアングル島南西端で駆逐艦五月雨が座礁。乗員救助のため同日夜に出発し、現場に向かった。ところが到着前の18時30分、米潜水艦バットフィッシュの雷撃で五月雨の船体が断裂。竹が到着した時には放棄されており、艦長以下生存者は竹に収容。セブ島で降ろした。8月30日からは南西方面艦隊の指揮下に入り、マニラ方面で船団の護衛に従事する。
10月4日、竹はマニラ発ミリ行きのマミ11船団の護衛としてマニラを出港。ここで竹は南方がいかに危険な海域であるかを嫌ほど思い知らされる。翌5日午後、ミンドロ島マンブラオの南西で米潜水艦コッドに捕捉され、発射された6本の魚雷によって熱田丸と荒尾山丸が被雷。14時20分には速力が落ちた配当船辰城丸が狙われ、カラビテ岬南西50kmで4本の魚雷を撃ち込まれて撃沈される。辛くも敵潜を振り切り、10月14日にミリへ到着した。
10月20日23時40分、マニラ発高雄行きのマタ30船団を護衛して出港。マタ30船団は12隻の輸送船からなる船団で、敵の空襲が激しいマニラから脱出して台湾南部の高雄へ避難を命じられていた。護衛兵力は駆逐艦竹、春風、呉竹、第20号駆潜艇の計4隻。春風船団とも呼ばれていた。船団は三列縦隊となって8ノットの低速で春風を先頭に航行する。ところが道中には45隻の米潜水艦が潜んでおり、マタ30船団は自ら虎口に飛び込む形となってしまった。10月23日15時38分、ルソン島北端沖で米潜ソーフィッシュが船団を発見して周囲の艦を集め始めた。たちまちマタ30船団はドラム、ソーフィッシュ、アイスフィッシュ、スヌーク、シャーク、シードラゴン、ブラックフィッシュからなる2個ウルフパックに包囲される。17時30分、ソーフィッシュが船団最後尾にいた特設水上機母艦君川丸を撃沈したのを皮切りに地獄の宴が開幕した。ここから米潜が次々に襲いかかり、黒龍丸、菊水丸、天晨丸、信貴山丸、大天丸、第一眞盛丸、營口丸、阿里山丸の順で撃沈。あっという間に船団の半数以上を失う惨状となった。竹が残存船舶の避難誘導を行い、春風が対潜掃討を行って反撃。シャークを撃沈して一矢報いたものの出発時には12隻いた輸送船が僅か3隻にまで減ってしまう壊滅的打撃を受けた。道中の10月24日、高雄沖で撃沈された營口丸と第一眞盛丸の乗員を救助。同日中に高雄へと入港し、再びマニラに舞い戻る。
レイテ沖海戦が行われている10月25日、バシー海峡で沈没した陸軍輸送船団の救援のため駆逐艦3隻を率いて急行し、陸兵約540名を救助。彼らをアパリと高雄に送り届け、再び遭難現場に向かう竹だったが途中でマニラに向かうよう命令が下る。
10月28日、マニラ入港。そこでは悪夢のオルモック湾輸送作戦が待っていた。
1944年10月23日に生起したレイテ沖海戦は帝國海軍の大敗に終わった。しかし陸上での戦闘はこれから始まるところだった。フィリピン防衛のため大本営は増援をオルモック湾に送る事を決意。その輸送戦力に竹が抜擢され、無謀な輸送作戦に身を投じる事になる。道中にはアメリカ軍が手ぐすね引いて待ち構えており、たたでさえ希少な輸送艦や駆逐艦が次々に沈められ、マニラ・オルモック湾間は艦船の墓場と化していた。策源地となっていたマニラも制空権を失い、湾内であっても安全な場所ではなかった。
10月29日、第三次輸送船団への所属が決まる。全部で9回行われた多号作戦に、竹は3回目から参加した。マニラに寄港して準備をしていたがその途中でアメリカ軍による大空襲を受ける。この影響で第三号輸送船団の出発が遅れ、先に第四号輸送船団が出発する事態になった。
11月9日、新鋭艦島風を旗艦とし、雨に隠れながら出撃。しかし輸送船せれべす丸が座礁して任務の続行が不可能になり、また隠れ蓑としていた雨も上がってしまった。雲行きが怪しくなる中、先発していた第四号輸送船団が前方に現れた。一足先に揚陸を終えてマニラへ引き返している所だったようだ。戦力に数えられていなかったのか、竹と初春は帰路の第四号輸送船団に編入され、翌10日21時に分離。11月11日午前5時に第四号輸送船団と合流を果たし、来た道を引き返して18時30分にマニラへと帰投した。皮肉な事に、竹が離脱した後の第三号輸送船団は敵の空襲を受けて壊滅。旗艦の島風や長波、輸送船は全滅し、朝霜だけが生き残った。強運に恵まれた竹であった。
11月13日、マニラは再度アメリカ軍の空襲を受ける。マニラは傷ついた日本艦艇が集結しており、連合軍にとって重要目標だったのだ。群がる敵機に対して竹は対空戦闘を実施している。23時30分にマニラを出港し、駆逐艦霞や潮とともに11月15日に新南諸島へ寄港。本土から進出してきた第四航空戦隊の伊勢、日向と合流したのち、マニラに引き返した。この時、米潜水艦ヘイクの雷撃で損傷した第31戦隊旗艦の五十鈴とすれ違っている。11月21日にマニラ到着。
11月24日、第五次多号作戦に参加。今度こそオルモック湾への突入を目指すが、翌25日に「米機動部隊接近中」の報告を受け、マリンドゥケ島バラナカン湾に退避。しかしそこで米空母イントレピッドの艦載機約50機による襲撃を受け、機銃掃射と至近弾を喰らう。乗員15名が死亡。負傷者は60名に上った。第6号と第10号輸送艦が撃沈され、生き残ったのは竹と第9号輸送艦のみだった。この空襲で竹はジャイロコンパスを破損し、第9号輸送艦は物資揚陸に必須なワイヤーが切断され、揚陸が困難となってしまった。上層部からは「オルモック湾に突入せよ」と命じられたが、宇那木艦長は作戦の続行困難と判断、抗命を覚悟で反転を命令。沈没した輸送艦から乗組員を救助してマニラへ退却した。命だけは助かったものの、またしても突入は叶わなかった。
命令に背いて帰還した宇那木艦長は軍刀を携え、いざという時は自決する覚悟で司令部に出頭。しかし司令部は竹の生還を喜んでくれた。非情なオルモック湾突入命令は更に上の上級司令部から下されたもので、現地司令部にとっても不本意なものだった。また艦長が切腹覚悟で司令部に出向いた事は、乗組員たちの士気と戦意を高めた。次こそは死んでも必ず成功させる――燃え盛る闘志をみなが一様に抱いていた。竹はキャビテ軍港に回航され、ドックに入渠。昼夜兼行の応急修理が施されたものの、ジャイロコンパスは直されなかった。戦闘能力が低下した竹だったが戦況が後退を許さず、再び輸送任務へと駆り立てられた。
11月29日の夕方、艦長の宇那木勁少佐の計らいにより乗員に酒やビールが振る舞われた。次の出撃で竹は沈むだろうと考えており、海に飲ませるくらいならみんなで飲もうと考えたのである。各部署では宴会が開かれ、宇那木艦長も各所に顔を出して飲み回った。竹乗員の士気はまさに天を突く勢いだった。負傷し、マニラの病院に収容されていた乗組員が勝手に脱走し、竹に戻ってきたほどである。
12月1日18時(異説では11月30日の朝)、マニラを出港して駆逐艦桑や輸送船団とともに第七次多号作戦に従事。野戦高射砲大隊と独立工兵大隊を輸送する。ローテーションの関係で道中に敵機がおらず、幸運に恵まれて平穏な航海だった。しかし敵の偵察機によって輸送船団の存在は通報され、アメリカ軍はフリーズマン大佐率いる第60駆逐連隊から第120駆逐群を分派。18時29分に3隻の刺客がレイテ湾を出撃していった。そうとは知らずに竹と桑が護る輸送船団は空襲を避けるため島影に身を隠し、オルモック湾到達の時間が夜間になるよう調整。狙い通り翌2日23時30分にオルモック湾へ到達し、増援部隊の揚陸を実施する。
しかし日付が変わった12月3日午前0時30分、闇夜に隠れて米駆逐艦3隻が南側からオルモック湾へと侵入してきた。相手は第120駆逐群に所属するアレン・M・サムナー級駆逐艦のアレン・M・サムナー、モール、クーパーで、大型かつ最新鋭の駆逐艦だった。小柄の量産型駆逐艦に過ぎない竹たちには荷が重過ぎる相手である。第120駆逐群の司令ザーム中佐は日本側の雷撃を警戒し、3隻を横に広げた横陣で突撃。全てを蹂躙せんと迫り来る。ちょうど、竹たちの上空を味方の夜間戦闘機「月光」2機(第804航空隊)が通過していった。湾内の魚雷艇狩りが目的だったが、接近中の第120駆逐群を発見して猛然と挑みかかった。2機の月光は魚雷艇攻撃用の60kg爆弾をアレン・M・サムナーに投下し、至近弾で小破させた。その後は後方から何度も機銃掃射を仕掛け、モールは戦死者2名と負傷者22名を出した。この戦闘の光によって、竹と桑は敵の接近を察知する。また第120駆逐群もレーダーで湾内に数隻の日本艦がいる事を知った。月光を対空砲火で撃墜した後、アレン・M・サムナーとクーパーは桑に、モールは竹に狙いを定めた。
月光2機が敵を引き付けている間に、物資や兵員の揚陸を行う。入泊直後、陸地から発進した1隻の大発が接近して竹に横付けする。先の11月11日の輸送で撃沈された駆逐艦島風の艦長上井宏中佐や上村機関長、第2水雷戦隊の早川幹夫司令官ら8名が竹に収容され、入れ替わりに便乗していた陸軍の参謀が大発へ移乗。陸地に戻っていった。
いち早く敵の接近に気がついた僚艦の桑が、竹に発光信号を放ちつつ立ち向かっていった。探照灯を照射しながら砲撃を行うも、アレン・M・サムナーとクーパーからレーダー射撃を浴びて僅か10分で撃沈されてしまう。3隻の敵艦は、残った竹に矛先を向ける。数は3対1、性能も敵艦の方が上、オルモック湾は狭いため回避に向かず、闇夜の中では座礁の危険性もある。加えてジャイロコンパスは修復されていないので自艦の位置すら把握が困難であり、全ての面で竹が不利という徹底的劣勢だった。
敵から先制攻撃を受けた竹は12.7cm高角砲や副砲で反撃を開始。24ノットの高速を発揮して敵のレーダー射撃から逃れようとする。高速運動はレーダー射撃を不満足なものにしたが、竹側も上手く照準が合わせられず互いに決定打を欠く。そこへ前部機関室左舷に不発弾1発を浴びて、下士官1名が負傷。機関の一部が使用不能になる。だが幸いにも松型駆逐艦はシフト配置を採用していたため、機関停止という最悪の事態は避けられた。交戦しているうちに敵艦との距離はグングンと縮まり、12.7cm高角砲は殆ど水平射撃になっていた。
絶望的状況に立たされた竹の切り札は、3本の魚雷のみ。本来は4本装備していたのだが、1本は事前の整備で誤投棄してしまっていた。狭い湾内を逃げ回りながら、10km先の敵艦へ向けて2本の魚雷を発射。誰もが祈る思いで魚雷の行く先を見つめた。その間にも敵艦から砲弾が飛んでくる。海を漂う桑の乗員からは「竹!頑張れ!」という悲愴な叫びが聞こえてきた。彼らにとって竹は最後に残った希望なのだ。
放った2本の魚雷のうち、1本が米駆逐艦クーパー(DD-695)に直撃。船体を真っ二つにし、わずか36秒で沈んでいった。まさに奇跡の一撃だった。士官10名、水兵181名が戦死したと伝わる。残った敵艦は怒ったように集中攻撃を浴びせ、竹は次第に満身創痍となっていく。徐々に船体が傾斜していき、最大30度まで傾いたという。だが船団を守るため、竹は必死に反撃を続けた。高角砲を撃ちまくり、敵艦モールに複数の命中弾を与えて小破させた。獅子奮迅の活躍を見せる竹に、米駆逐艦2隻はとうとう戦意喪失。諦めて南に離脱していった(竹の雷撃を潜水艦のものと勘違いしたとも)。たった1隻で、見事優位な3隻の敵艦を撃退したのである。米駆逐艦1隻撃沈、1隻撃破。この戦果が、帝國海軍最後の水上戦闘における敵艦撃沈だった。
敵を退けたとはいえ、竹はマニラに帰れるかどうか怪しいほど満身創痍であった。一時は陸上に乗り上げ、防空砲台とする考えも浮かんだ。損傷もさる事ながら、艦の航行に不可欠な真水も不足していたのだ。苦慮する宇那木艦長に、航海長が「艦長、大丈夫です!最後には海水を焚いてでも4時間や5時間は航海してみせます!」と言い放った。これに勇気付けられ、考えを保留。最悪の場合は味方がいるセブ島に乗り上げようと考えていると、第9号輸送艦から発光信号で「揚陸完了」と知らせてきた。すると艦橋の誰かが「9号に真水があるんじゃないか」と呟いた。天啓だった。すぐに第9号輸送艦に横付けする。最初は要領が分からなかった乗員であったが、すぐに理解すると上甲板にポンプを持ってきて、必死に真水を補給してくれた。こうして竹は命からがら助かった。第140号と第159号輸送艦も揚陸を完了させ、沖合いに出てきた。これで輸送船団は揚陸を完了した事になる。
揚陸が完了したのも束の間、輸送船団にはもう一つの脅威が迫っていた。揚陸を完了させた時には既に午前3時を回っており、夜明けまであと2時間しかなかった。陽が昇れば再び激烈な空襲が始まるので、それまでに離脱しなければ全艦海の底である。このため桑の乗員救助はとても出来ず、陸地にいる友軍に要請だけして退却した。海域から脱出する時、桑の乗員と思われる者から「竹ッ!」と叫ぶ声が聞こえたという。しかし味方を見捨てる事が出来なかった第140号輸送艦は途中で停止し、カッターを降ろしたという。船団は第140号を置いてオルモック湾から出て行った。速力が低い二等輸送艦の第159号を先行させ、第9号輸送艦と竹は後ろから追随した。南西方面艦隊やオルモック基地に直掩機の派遣を要請しつつ、道中で応急修理を行った。3日の朝、9機の航空機が輸送船団の上空に現れた。竹では対空戦闘が下令され、最大戦速に増速。いよいよ年貢の納め時かと覚悟を決めた。しかし航空機は旋回するだけで攻撃してこない。よく見ると、零戦だった。要請に応じて味方機が来てくれたのだった。零戦はしばらく空に留まり、基地へと帰投していった。昼頃にはアメリカ軍の大型機が出現し、触接を開始。竹は高角砲を撃って追い払ったが、砲撃の衝撃で何と傾斜が回復。竹は最後まで幸運に恵まれていた。
12月4日午後、どうにかマニラまで帰投。桟橋には輸送戦隊司令の曽璽(そじ)章少将が立っていて出迎えてくれた。凄まじい戦果を挙げた宇那木艦長は、南西方面艦隊司令の大川内傅七中将から賞詞を受け、差し向かいで夕食を馳走になる栄誉を賜った。宇那木艦長は一連の戦闘をオルモック夜戦と呼ぶ事を提唱した。翌5日にキャビデへ回航され、入渠する。しかし損傷の激しさから現地では修理できず、特に機関の損傷が原因で速力が上がらなかった。このため今後の作戦は全て取り消しとなり、呉への回航が決定する。そして第31戦隊は第5艦隊へ編入された。
12月15日、満身創痍の体で単独マニラを出港する。機関は直されなかったが、それでも21ノットを発揮する事が出来た。ちょうどその頃、ルソン島東方でコブラ台風が発生。進路上にいた米第38任務部隊が蹴散らされた。台風の影響で雨風や波浪が竹を襲ったが、第四艦隊事件で日本艦艇にはしっかり台風対策が施されていたので、大破状態ながら航行に支障が出る事は無かった。
12月18日に台湾の高雄へ入港。このまま基隆まで回航される。22日、船団を護衛して基隆を出港。鎮海や六連を経由し、1945年1月1日に門司へと帰り着いた。間もなく呉に回航され、4日から入渠修理を受ける。もはや内地に燃料は無く、まともに動く事すらままならなかった。修理は1月末に終わるだろうと目されたが、資材不足のせいか3月15日まで時間が掛かった。
2月28日、スラバヤで修理中の五十鈴(軽巡洋艦)に代わって第31戦隊の旗艦に就任。鶴岡信道少将が座乗するも、3月15日に新鋭の大型駆逐艦花月に旗艦を継承している。同日中に第31戦隊は第2艦隊に編入され、対潜掃討を担当する。3月19日、竹は呉を出港。そのおかげか米機動部隊による呉軍港空襲に巻き込まれずに済んだ。4月16日から26日にかけて三式探信儀を装備する工事が行われた。4月29日、駆逐艦楓とともに回天との訓練に参加。5月から、後部甲板に回天を載せられるよう改装を受ける。楓と同様に回天の練習艦となったが、頻発するアメリカ軍の空襲を受け、司令部は竹の温存を決断。海上に出る事を禁じた。これにより改装工事も中止。
7月3日、屋代島日目海岸に偽装係留される。生き残っていた「槇」「榧」と横に繋がって投錨し、艦体をネットで覆って擬装。木の枝や松の木を植えて陸地の一部であるかのように見せかけた。このため敵機が飛来しても全く機銃を撃たなかった。よほど擬装が上手かったのか、終戦まで攻撃を受けなかったとか。しかし攻撃こそ受けなかったが、眼前で漁船がグラマンの機銃掃射を受けても手が出せない歯がゆさもあった。ちなみに擬装用の植物がちょうど緑のカーテンとして機能し、艦内はとても涼しかったという。
そしてこの状態のまま、8月15日の終戦を迎えた。10月25日、除籍。
戦争は終わったが、航行可能だった竹には出番が残っていた。南方や各戦線に取り残された将兵や邦人を引き揚げさせる復員任務である。1945年12月から任務が始まり、1回目から4回目はポンペイ島と浦賀を行き来。次にパラオから邦人を引き揚げ、サイパンに在住していた沖縄出身者を沖縄本島に連れ帰った。以降は上海及びコロ島と本土を往復して中国方面の復員任務に従事。この時に艦内でコレラが発生し、病死する引き揚げ者が出たため防疫の都合で約一ヶ月隔離された事も。最後の奉公を終えた竹は1946年7月、特別保管艦の指定を受けて母港横須賀に係留される。約一年後の1947年7月16日に指定が解除されると、竹は賠償艦としてイギリスに譲渡された。しかしイギリスは竹をスクラップにして売ってしまった。
こうして短いながらも波乱に満ちた竹の艦歴は幕を下ろした。
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