第一次ソロモン海戦とは、大東亜戦争中の1942年8月8日深夜から翌9日未明に生起した日本海軍vsアメリカ海軍の戦闘である。結果は日本側の大勝であった。
日本はアメリカとオーストラリアの補給線を断ち、オーストラリアを脱落させる米豪遮断作戦を開始。1942年7月1日、補給線の途上にあるソロモン諸島ガダルカナル島に設営部隊を上陸させ、飛行場を建造していた。アメリカ軍の反攻は1943年頃と予想されており、防衛戦力は殆ど無いに等しかった。
ところが8月7日、予想より早いアメリカ軍の反攻が始まった。空母3隻、戦艦1隻、巡洋艦2隻、駆逐艦15隻の大戦力に守られ、75隻の輸送船に分乗した海兵隊第一師団1万7000名がガ島と対岸のツラギ島に上陸してきたのである。ガ島の飛行場には防衛戦力は無く、労働者たちはバンデグリフト少将率いる海兵隊に襲われ、瞬時に森の中へと追い散らされた。一方、ツラギ島には少数ながら守備隊が存在しており、激しい抵抗を行った。しかし多勢に無勢、ツラギ守備隊は悲鳴のような電文を発したのち音信不通となった。こうして完成寸前の飛行場は敵の手に落ちてしまった。
ツラギからの電文で事態を把握した第八艦隊司令官・三川軍一海軍中将は、即座に反撃を命令。ラバウルから一式陸攻隊が慌ただしく離陸していった。またカビエン沖で訓練中だった第六戦隊(旗艦青葉、古鷹、加古、衣笠)と重巡鳥海を呼び寄せ、ラバウル在泊の巡洋艦天龍、夕張、駆逐艦夕凪と合流させて三川中将自ら殴りこみを企図した。一時は旧式艦だとして天龍と夕張を外す予定だったが、乗組員から参加の熱望を受けて作戦に組み込んだ。ラバウルに入港した鳥海に第八艦隊司令部が乗艦し、8月7日14時30分に出撃した。港外で先行していた五藤少将率いる第六戦隊と合流し、頭数を増やしてガ島近海へ突撃する。
指揮下の艦は旧式艦が多く、対空能力に欠ける事から夜明けまでに敵の空襲圏外まで脱出しなければ惨劇に見舞われるのは明々白々だった。この殴りこみは時間との戦いでもあった。しかし道中で三川艦隊は敵偵察機に発見され、その動きを読まれてしまう。前途とともに暗闇に包まれる海を進む三川艦隊。巧みに敵の哨戒線をかいくぐり、狭い水道へと入った。この時、泊地には米豪の重巡6隻と駆逐艦4隻が南北に分かれ、輸送船団を護衛していた。
23時11分、三川中将は全軍突撃を命令。味方艦上機が落とした吊光弾の明かりを頼りに一斉に攻撃を開始した。連合軍はまさか日本艦隊がここまで侵入してきているとは想像も出来ず、対応が後手に回った。またイギリス海軍のクラッチレー少将がたまたま作戦会議で席を離れており、しかも後任の司令官を決めていなかった事から指揮系統が混乱。やむなく重巡シカゴの艦長ハワード・D・ボード大佐が臨時で指揮を執った。連合軍側の失策が重なり、三川艦隊を止められるものはいなかった。
まず戦闘開始数分後に豪重巡キャンベラが航行不能(のちに沈没)に陥り、シカゴと米駆逐艦パターソンが大破。連合軍の南方艦隊は撃破された。戦闘の余波で戦列が乱れ、鳥海、青葉、加古、衣笠と古鷹、夕張、天龍の二手に分かれた。だがこれが結果的に敵艦隊を挟撃する形となり、さらなる戦果をもたらす。左舷側に敵影を認めた鳥海は直ちに砲撃を開始し、古鷹以下別働グループも砲撃。次の標的になったのは巡洋艦クインシー、アストリア、ヴィンセンスからなる北方艦隊であった。ヴィンセンスは突撃してくる鳥海を味方と誤認し、味方だと伝える信号を送ってきた。返ってきたのは砲弾と魚雷だった。瞬く間に3隻の重巡は沈められた。たった40分程度の戦闘で重巡4隻撃沈、1隻大破、駆逐艦1隻大破、同1隻中破という大戦果を得た。日本側の損害は鳥海小破(不発弾が命中)した程度だった。
翌9日午前0時23分、三川中将は全軍に引き揚げを命じた。しかし敵輸送船団が手付かずであり、部下からは再度突入を求められたが、夜明けまでに脱出しなければ全滅の危険性があると三川中将は分かっていた。このため輸送船団攻撃を諦め、帰路についた。無傷で輸送船団が残ってしまった事により、ガ島への増援は滞りなく行われ、同島の奪還を困難なものにしたとよく非難される(ただし輸送船団は既に遠くへと逃げてしまっていた説もある)。ともあれ三川艦隊は午前8時に解散し、ショートランド、ラバウル、カビエンへそれぞれ帰港していった。8月10日朝、入港直前に加古が米潜水艦S-44の雷撃で沈没。勝利の栄光に泥を塗ってしまった。
三川艦隊がもたらした快勝は、ミッドウェーの敗戦で落ち込んでいた軍部に活気を取り戻させた。一方で、輸送船団を攻撃しなかった事は山本五十六大将を激怒させ、「こんなのに勲章をやられるか!」と言い放った。しかし勝利を称える声にかき消され、ウヤムヤにせざるを得なかった。
大敗したアメリカ軍はというと、調査委員会を設置して責任追及を行った。矢面に立たされたのはシカゴで一時的に指揮を取っていたボード大佐であった。彼はパナマへと左遷させられ、1943年4月19日にピストル自殺した。
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最終更新:2025/12/08(月) 22:00
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